軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

939 海座頭の噂

ワシは、エドロクという名のしがない村人だす。

職業は漁師をしておる。

いい波の日を選んで舟をこぎ出しては、魚を釣って帰って、売りさばく。

生来の才能でもあったか、漁に出れば必ず数匹は釣れるので、生活に困ったことはない。

我ながら恵まれた人生を送っていると思っとるだす。

世間はなかなか騒がしいだすが、ワシの住んでいる寂れた漁師町は、いわば世界の隅っこみたいなものなんで、騒がしさが及んでくることなんかまったくねえ。

お陰でこの年になるまで穏やかに暮らすことができましただ。

しかし、そんなワシの平穏な人生にもついに、不穏な影が差してきましただ。

最近どうも不穏な噂が行きかっとる。

村には、ワシの他にも漁師で生計を立てている者が幾人かおって、波の調子だとか魚の群れの動向だとかの情報交換が習慣となっておる。

だがここのところ、漁師たちの間を行きかう話の中に、波や魚以外のモノが交じるようになってきた。

海に現れる妖怪の噂だす。

「アレは、絶対にこの世のもんじゃねかっただすよ……!」

ワシにとっても古馴染みの同業者、ヨネサコが言った。

昨年嫁を貰ったばかりで、幸せウハウハな時期であるはずなのにもかかわらず、ヤツの顔は明日にも死にそうなほど真っ青だった。

「その日、ワシは漁に出とっただ。そりゃ多少波が出て他の者どもは控えとったけれど、そういう日こそデカい魚群に当たれば独り占めの大儲けだ。嫁に新しいべべでも買ってやるべと張り切っとったが、お陰であんなものに出くわす破目になっただよ……」

ヨネサコが言うには、そうして船を出して幾分かした頃……曇り空の下だったそうな。

波は高く、船も揺れておった。

しばらくは魚を釣るのに夢中で周りの様子も気にならんかったという。

当然だ。

漁の間、漁師の周りには海しかないのだから気にするまでもねえ。

山ん中でもあるまいし、波間から襲い掛かってくる獣なんかもいやしねえんだから。

しかし、そんな何もありえない中でヨネサコは見たってよ。

波間から垣間見える人影を。

最初は、自分の他に出ていた漁師仲間なのかと思ったという。

思ったがどうも違う。人影ではある者の動きが、小舟に乗ったものとはまったく違うとわかったそうな。

一目でわかったそうな。

その人影は走っておった。

海の上を。そんなことあるわけがない。

人は海の上なんぞ歩けん、舟でもなければ海の底へと沈んでいくだけ。

「でも間違いねえ! ワシは見たんだ! たしかに海の上を人が走り去っていくのを見たんだ!!」

それでその人影はどうなったかというと、ひときわ大きな波が起こってヨネサコの視界を一瞬隠した。

そして再び開けた時には影も形もなかったんだそうだ。

ワシの他にも話を聞く漁師仲間がいたが……。

「オメェ、漁に出る前に酒でも飲んだんでねぇか? ダメだよ酔っ払ったまま舟出しちゃよう」

「いいや、前の晩に新妻と盛りすぎたんだべ。疲れて幻覚を見るぐらいによ」

……と笑うばかりで取り合わない。

しかし、それとは別に重く話を受け止める者も何人かはいた。

何故なら『海の上を歩く人影』は以前から目撃されていてヨネサコ以外にも見た者がいたからだ。

当然この集まりの中にも過去目撃した者らがいて、そういう者たちは顔を暗くして押し黙るしかないようだったす。

ワシはまだ見たことねえけど。

しかしワシは信心深い方なんで、海で起こった妖しい出来事は笑い話で済ます気にはなれねえ。

海は広くて大きい、そして深い。

そんな海の中にはワシらの知らないモノが棲んでいたって少しも不思議じゃなく、なんかの拍子に出遭っちゃいけねえものと出遭うことだってあるだろう。

『海の上を歩く人影』が一体何者なのか?

わからねえうちは、見ただけでも呪われるんじゃないかと見ちまったものは気が気じゃねえ。

そんな禍々しいモノと出遭わないためには海に出ねえのが一番だ。

そう思ったがワシらは漁師、海に出て魚を獲らないと暮らしていけねえ。

なのでやむなく舟をこぎ出すんだ。せめて妖しいモノが出てこぬようにと海の神様に祈りながら。

他の連中も舟は出しておらんようで、係留してある舟の多いこと。

見間違いだと笑っておった連中の舟まである。ヨネサコらをバカにしておったがヤツらもしっかり怖かったんではないか。

沖まで出ると久々の漁で、面白いほどに魚が引っ掛かった。

あっという間に魚籠もいっぱいになり、これなら陸に持って帰れば一儲けになるべと思った。

そうなれば長居は無用と引き上げんとしたところで……見ちまった。

空はどんよりと曇って、昼間だっていうのに薄暗い。

吹き付けてくる風が生暖かい。

水以外何もないはずの海面に、何かぼんやりと黒いものが浮いとる。

最初は何か漂流する木切れか、あるいは土左衛門かと思った。

むしろ土左衛門だった方がどんなに安心しただろうか。

だってただの死体は動かんだろうがね。

こんな海上でみずから動いて寄ってくるモノの方がよっぽど不気味で恐ろしいだろうがよ。

まさにその通りで、その黒い人影が近づいてくるほどに不気味で恐ろしくなってきただよ。

「えっほ、えっほ、えっほ、えっほ、えっほ、えっほ……」

「ふぁい、おー、ふぁい、おー、ふぁい、おー、ふぁい、おー、ふぁい、おー」

水平線の向こうから、人が寄ってくるううううううッッ!?

しかも一人じゃねえ、二人だ。

大人と子ども……父子だべか!? 海難事故で溺死した親子連れが亡霊になって迷いでたべか!?

ついにワシの下にも死神が現れたべ。

足首掴まれて、海底さに引き込まれるべよぉおおおおッッ!?

そうして生きた心地もしなくて、恐ろしさのあまり櫂を漕いで逃げることすら忘れちまったべさ。

そうこうしてるうちに、海を走る親子連れはワシの目の前まで来ちまった。

「いったん休憩……! ふう、大分走ったな。目標の一万歩はこえたかな?」

「ぱぱ、すいぶんほきゅー」

目と鼻の先までやってきた親子連れは、さすがに人影というほどぼんやりもしておらず、ここまで来たらただの人だべ。

父親の方も何の変哲もない普通の人だべ。

線が細くて柔和そうな顔つきをしておるが……ちょっとところどころ丸っこいだか?

息子の方もまた年相応にめんこいお子だべ。まるでどこぞの王子様かと思える気品ちゅうのに満ち溢れておるだ。

こうして間近で見ると、禍々しいものじゃないと一目でわかるべ。

魑魅魍魎の類じゃなかっぺえな。

「ゴキュゴキュゴキュ……! 水分補給に飲む豆乳は美味いぜ!」

「たんぱくもほきゅー」

舟に乗ったワシの目の前でわけのわからんことを言っておる。

彼らの足元を見るが、たしかに海の上に立っておった。

一体どういうことじゃ!?

「あのー、ところで最近見かけませんでしたよね。この辺に舟が出てるのって。どうしたんです?」

と父親が訪ねてくるんで思わず叫んでしまった。

『お前のせいじゃあ!!』と。

「うーん、やっぱり怖がられていたか。たしかに遠目で海の上を歩いてるヤツ見かけたら怪談話だろうからな」

「ほのくらい、みずのそこからー」

「俺のダイエットのために近隣住民の皆様に迷惑をかけたとあっては心外。ここは償い代わりに……と」

海の上に立つ男、ワシの船に備え付けてあった銛を拾い上げて。

「ちょっとお借りしますよ」

「ゆめがもりもりー」

ワシは沖釣りが得意なんで銛など滅多に使わないが、念のために積んであるんじゃ。

海歩きの人は、その銛の切っ先を海面に向けて……。

「モリモリのピストル!!」

思い切り勢いをつけて海に突き刺した!?

そして引き上げた先には、凄まじく大きな魚が突き刺さっていたぁああッッ!?

「きんかいの、ぬしー」

「皆さんが漁をお休みして漁獲できなかった分を、これで補填してください。あと俺たちが別に危険なものじゃないってことも教えてあげてください。では!」

そう言って親子連れは、また海の上を歩いていってしまっただ。

「ビーストファンタジーがでーるぞ-♪」

「こーいつはてーごわい、あーるぴーじー♪」

などとリズミカルに歩調と合わせた歌を歌いながら……。

ワシがこの大魚を引いて帰ってきたら、村は当然のように大騒ぎとなった。

そしてワシは伝えなければならなかった。

海の上を歩いていく人は、妖怪などではなく、福の神であったと……。