作品タイトル不明
19 異変
ボートがゆっくりと岸へ向かって進み始める。来た時より風が穏やかで、水面が滑らかに広がっていた。桟橋が近づくにつれ、岸で待っていた騎士たちの姿が見えてくる。
「転覆しなくてよかったっす〜!」
「当たり前だろう」
ユリシスが低く言うと、カイルは「いや、ユリシス様って意外と不器用なとこありますし!」と笑いながら躱した。騎士たちもそれに合わせてどっと笑う。ユリシスは小さく息をついたが、怒った様子はない。
(本当に、和やかな雰囲気だわ)
城でも感じていたそれを、改めて目の当たりにすると、自然と笑みがこぼれる。
カイルはそのままユリシスに首根っこを掴まれて、広いところに連れて行かれた。どうやらこれから鍛錬をするようだ。
「アメリア様。大事はありませんでしたか? 昼食の準備をいたしますが」
「ええ、大丈夫よ。ボートってとても楽しいのね」
本当に、爽やかな時間だった。
心配そうなロザリーにアメリアがそう笑ってみせると、眉間の皺がすっとほぐれた。避難してきた騎士たちもロザリーを手伝い、昼食の準備はすぐに整う。
向こうではカイルが泣き言を言っているのが聞こえたけれど、あそこに入っていくのも違うだろう。
敷物の上に腰を落ち着けたアメリアは、近くにいた騎士たちに話しかけた。
「少し教えていただきたいのですが。皆さんはどうしてユリシス様の騎士団に? 噂は知らずにいたのですか?」
包み隠さず尋ねるアメリアに、騎士たちは顔を見合わせる。それからそのうちの一人が口を開いた。
「正直に申し上げますと、最初は気になりました。ですが……それより怖いことが別にありましたから」
「別のこと?」
「俺たち、皆平民出身なんです。王都の騎士団じゃ、貴族の子息たちと同じ仕事をしても評価は半分以下で。危ない任務ばかり押し付けられて、まともに取り合ってもらえませんでした」
そこへ、鍛錬を終えたカイルが汗を拭きながら戻ってきた。
「あ、その話っすか!」
ロザリーが「静かにしてください」と睨んだが、カイルは構わず続ける。
「ある時からユリシス様が俺たちの任務に入ってきたんすよ。王子なのに、一番危ないところに来て、俺たちと一緒に戦って。しかも強い。め〜〜ちゃくちゃ強いんす」
カイルは目をキラキラと輝かせた。
「呪いがどうとか、強けりゃそんなの関係ないんすよ。それに俺たちにとって呪いより怖いのは、実力を見てくれない上官っす。そっちの方がよっぽど理不尽だったっすね」
「ユリシス様は公平なお方だからな!」
「うんうん。というか呪いってなんだったんだろうな」
「鍛錬中の怪我なんて自己責任でしかないもんな……」
カイルが力説すると、騎士たちが深く頷いた。アメリアは胸がじんとするのを感じる。この人たちはずっとユリシスのそばで、彼の本当の姿を見てきたのだ。
「領民の皆さんも、きっと分かってくれると思うっすよ」
カイルがにかっと笑う。
「目の前のことで精一杯な人たちは、呪いとか迷信より、ちゃんと守ってくれる人かどうかの方が大事っすから」
「そうね。大切な考え方だわ」
遠くでユリシスが騎士たちに短く指示を出しているのが見える。その横顔は凛としていて、リュストアの空の下によく映えた。カイルが騎士たちに何か声をかけて、その場が再び笑いに包まれる。ユリシスは相変わらず口数が少ないが、騎士たちの笑い声を背に受けながら、その表情はいつもより穏やかだった。
彼らとの時間は、きっとユリシスにとって大切なものなのだ。アメリアにはすぐにわかった。
***
リュストア湖から戻ると、城にはただならぬ空気が漂っていた。
(なにかしら)
使用人たちが廊下に固まって、ひそひそと声を交わしている。アメリアが外套を脱ぎながらロザリーに目を向けると、彼女はすでに近くの使用人に何かを尋ねていた。
「アメリア様、リーナが倒れたとのことです」
ロザリーの報告を皮切りに、使用人たちの間からも小さな声が漏れる。
「ユリシス様のお部屋の洗い物を運んでいる最中ですって」
「殿下のお部屋の洗い物を担当していたものね」
「やっぱり……呪いなんじゃ」
アメリアはその声が聞こえないふりをしながら、静かに一歩前へ出た。
「どう考えても風邪でしょう。すぐに医師を呼びなさい」
きっぱりとした声に、廊下がしんと静まり返る。
「で、でも奥様、呪いという可能性も」
「呪いにかかるというなら、この城の使用人は皆とっくに倒れているのではなくて? いい加減になさい」
言いつのる使用人に対し、アメリアは有無を言わさぬ口調で続けた。
「医師を呼ぶこと、それからリーナを暖かい部屋へ。急ぎなさい」
「は、はい」
使用人たちが慌ただしく動き出す。アメリアはそのまま廊下を進みながら、ロザリーに目配せをした。俊敏な侍女はすぐにアメリアの元に来る。
「ロザリー。リーナの普段の様子を再度調べてちょうだい。できる限り詳しくお願いね」
「はい、承知いたしました」
ロザリーは神妙に頷くと、すぐに踵を返した。