作品タイトル不明
18 湖上
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馬車を降りると、冷たい風が頬を撫でた。
湖はもっと遠くにあると思っていたが、岸辺まではすぐだった。水際に立つと、さきほど馬車から見た景色とはまるで違う迫力がある。水面は鏡のように凪いでいて、対岸の山々がそのままくっきりと映り込んでいた。
「本当に美しいですね……!」
「ああ、そうだな」
幻想的な風景にアメリアがそう零すと、隣に立つユリシスが静かに頷いた。その目はまっすぐ湖を見つめている。岸辺には小さな桟橋があり、一艘のボートが繋がれていた。カイルが先回りして縄を解いている。
「さあさあ、お二人でどうぞっす!」
「二人で?」
アメリアが問い返すと、カイルはにかっと笑った。
「俺たちは岸で待ってるっす! 騎士団も皆そうっす! ねっ!」
振り返ると、騎士たちが一斉に頷いていた。温かな笑みが並んでいる。
「わかったわ」
「アメリア様、危険はないでしょうか? ボートなど、万が一転覆でもしたら……」
ロザリーが日傘を差したまま、心配そうに眉を寄せる。
「でも、とても楽しそうだわ。何事も挑戦してみましょう」
今日は外に行くから、動きやすいデイドレスを身に纏っている。目を輝かせるアメリアを見て、岸辺に寄せたボートへとユリシスが先に乗り込んだ。
「アメリア。少し揺れるが慌てないように」
「はい。わかりました」
頷いたアメリアは、ユリシスの手を取って慎重に乗り込んだ。初めてのことでボートがゆらりと揺れ、アメリアは思わずユリシスの腕を掴む。
「大丈夫か」
「え、ええ。大丈夫ですわ。少し揺れましたね」
ユリシスは無言でオールを手に取り、ゆっくりと漕ぎ始めた。最初はぎこちなかったが、すぐに安定する。さすがというべきか、何をやらせても様になる人だ。ボートが岸から離れるにつれ、騎士たちの声が遠くなっていく。
(とても綺麗……)
湖の上は静かだった。オールが水を掻く音だけが、穏やかに響く。水面を渡る風が冷たく、それでも清々しい。周囲の山々が水に映り、空との境が曖昧になっていった。
「わたくし、穏やかな時間はとても好きです」
アメリアは静かに微笑んだ。ユリシスはオールを動かしながら、ちらりとアメリアを見る。
「水の上が怖くはないか?」
「慣れてしまえばそうでもありませんわ。それに」
アメリアは水面に指先をそっと触れさせた。冷たく、澄んでいる。
「ユリシス様がいらっしゃるから、大丈夫です」
ユリシスの手がわずかに止まった。アメリアはそれに気づかないまま、のんびりと景色を眺めている。空の青と山の緑と水の銀色が、ゆっくりと流れていった。
(――あっ)
ふと、水面に小さな影が走ったのが見えた。銀色の魚が、水草の間にすいと消えていく。
「ユリシス様、今、お魚が!」
アメリアは思わず身を乗り出した。王都の池にいた鯉とは違う、素早く小さな魚。間近で見るのは初めてだった。ふと視線を感じて顔を上げると、オールを漕ぐ手が止まっている。金の瞳が、真っ直ぐにアメリアに注がれていた。
はしゃいでしまった、と頬が熱くなる。アメリアは慌てて背筋を伸ばし、膝の上でそっと手を組み直した。
「お……お見苦しいところをお目にかけました」
「君も、そうやってはしゃぐのだな」
ユリシスがぽつりと言った。初めて見るものを見た、というような声音だった。
「……子供っぽいと、お思いでしょう」
「いや。君のそんな一面も、愛らしいと思うが」
金の瞳が、静かにアメリアを見ている。揶揄でも社交辞令でもなく、ただ思ったことをそのまま口にしたという飾りのない声だった。
次の瞬間、ユリシス自身がはっとしたように視線を逸らす。耳の先が、見間違いようもなく赤い。
「……すまない。口が過ぎた」
「い、いいえ……」
アメリアも慌てて目を伏せた。頬の熱が、今度は耳まで伝わっていく。
(愛らしい、ですって)
膝の上の手をそっと握りしめる。耳馴染みのない言葉だ。いつも澄ましているとか、可愛げが無いとか。家族以外に言われるのはそんな言葉ばかりで。まあそれも笑顔で見つめ返したら、何も言ってこなくなったのだけれど。
二人を乗せて、ボートは岸を離れてゆく。
のどかな景色を見つめてしばらく経った頃。
(まあ、水鳥だわ)
湖面にぷかぷかと愛らしい鳥が進んでいるのを見つけた。その様子を微笑ましく見守っていたときだった。
突然、その鳥が羽を広げてアメリアの近くを横切ったのだ。
「きゃあ!」
アメリアは思わず声を上げる。反射的に立ち上がりかけた瞬間、ボートが大きく傾いだ。水面がばしゃりと音を立て、アメリアの体が前のめりになる。
「アメリア!」
鋭い声とともに、腕をぐっと引かれる。不安定なボートの上で、アメリアはユリシスに抱き留められていた。金の瞳が真正面にある。距離が、近い。
「立つと、危ない」
低く、息を詰めたような声だった。
「っ、も、申し訳ありません……!」
アメリアは慌てて体を起こし、座り直した。ユリシスの手がゆっくりと離れていく。頬が熱い。
ユリシスはアメリアが安定したことを確認すると、また静かにオールを手に取った。その耳の先が、心なしか赤い。
「いや。あれは驚いても仕方がないことだ。君は……これまでこうした外出はしなかったのか」
その問いに、ふとこれまでのことを考える。
「そうですわね。フレデリック殿下はボート乗りがお嫌いだとおっしゃっていましたから」
言ってから、アメリアは少し首を傾げた。そういえば、遠乗りも、市場への外出も、殿下は好まなかった。いつも室内か、整えられた庭園の中だけだった。それも近年ではなかったような気もする。
「そうか」
ユリシスはそれ以上何も言わない。ようやく落ち着きを取り戻したアメリアは、静かに揺れる湖面を眺めた。
(ゆっくりとした時間が、とても良いですわね)
ハプニングはあったが、リュストア湖にくることができてよかった。これからこの地で頑張るのだという気力がますます湧いてくる。
「ユリシス様。連れてきてくださって、本当にありがとうございます」
アメリアは心から微笑む。
「……私も、君と来られてよかった」
少し間を置いてから、ユリシスもためらいがちに口を開く。
その声は、いつもより柔らかかった。