軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

17 リュストア湖

***

アメリアの自室で、リーナは小さくなって椅子に座っていた。アメリアは薬箱から軟膏を取り出し、リーナの手を取る。改めてよく見ると、指先のあかぎれは水仕事による荒れだとすぐに分かった。毎日冷たい水に晒される洗濯担当の下女の手だ。

(まあ……これは……?)

だが、あかぎれよりも気になるものがあった。手の甲に、細い傷が一本走っている。鞭で打たれたような、鋭い跡だった。腕に目を移せば、ミミズ腫れのような火傷の跡がいくつも残っている。

(水仕事では、こんな傷はつかないはず)

この前初めて会った時、リーナは寒い外廊下の掃除をしていた。今は洗濯担当をしているようだが、何か引っ掛かる。アメリアは表情を変えずに、軟膏を丁寧に塗り始めた。

「痛い?」

「い、いいえ……」

「そう」

それ以上は聞かなかった。聞いても、今のリーナは答えられないだろう。この怯え方は、痛みだけからくるものではない。

傷のひとつひとつに丁寧に軟膏を塗り、布でそっと覆う。火傷の跡には特に時間をかけた。リーナはされるがまま、ただ静かに俯いている。

「はい、終わりよ」

アメリアは小さな軟膏をリーナの手に握らせた。

「痛い時に塗るのよ。あなたのものだから」

リーナはしばらく手の中の軟膏を見つめていた。それからぱっと顔を上げ、深くお辞儀をする。

「奥様、ありがとうございます」

駆け足で廊下へ出ていくリーナの背中を見送りながら、アメリアはそっと息をついた。

(洗濯担当の下女が、なぜあんな傷を負うのかしら)

アメリアは窓の外に目を向けたまま、静かに呟いた。

「侍女長と、少し話をしてみましょうか」

侍女長のヘレナは実直な人だ。長くリュストア城に仕えてきた、信頼のおける女性だとロザリーからも聞いている。ただ、その下についている者たちが全員そうだとは限らない。

アメリアはそっと立ち上がり、ドレスの裾を整えて部屋を出た。今夜はユリシスが食卓に来てくれることも伝えておく必要がある。窓の外では、リュストアの午後の光が静かに城壁を照らしていた。

***

城の正面には馬車が二台並んでいた。アメリアが母からもらった外套を羽織って玄関を出ると、すでにユリシスが先に立っている。

「おはようございます、ユリシス様」

「……ああ」

あの夜、ユリシスは約束通り夕食の席に現れた。それから二人で、静かに食事をとったのだ。多くは語らなかったが、食事の終わり際にぽつりと「湖に、行かないか」と言った。もちろん、とアメリアは即座に頷いたのだった。

(突然着替えを手伝ったのは、少し短慮だったかもしれないわね)

弟の世話をしたという自負があったけれど、当然ユリシスの体型は幼い頃のエドマンドとは違う。逆にモタモタとしてしまって、ユリシスに迷惑をかけたかもしれない。そう考えると、どこか落ち着かない気持ちになるのだった。

「晴れてよかったですわね」

「ああ。アメリア、こちらに」

短い返事とともに、ユリシスが手を差し出した。アメリアはその手を取り、馬車へと乗り込む。

「いや〜〜まさにデート日和っすね!」

御者台の方からカイルの声が飛んできた。今日は彼が御者を担当するらしい。器用なことだ。周囲を見渡せば、騎士団の面々が一様にいい笑顔でこちらを見ている。

「カイル」

「はい! 黙るっす!」

ユリシスの低い一声で、カイルが即座に口を閉じる。馬車に乗り込んだアメリアは、くすりと笑いを漏らした。

「カイルはいつも賑やかですわね」

「……騒がしくてすまない」

「ユリシス様が、騎士団の方と良い関係を築けているということなのでしょう。すばらしいことですわ」

「そう、か」

ユリシスは短く答えて、窓の外へ視線を向けた。その横顔は無表情だったが、耳の先がほんのわずかに赤い。朝の冷気のせいだろうか。おそらく違うだろうとアメリアは思ったが、口にはしなかった。

馬車はゆっくりと城を離れ、街道を北へ向かって進み始めた。なだらかな丘が続き、低い草原の向こうに針葉樹の森が広がっている。空は高く澄んでいて、雲が白く流れていく。

「リュストアは本当に空が広いですわ」

王都でこんな風に空を見上げたことがあっただろうか。侯爵家でも王城でも、ぱっと思い出すのはいつも室内の景色だ。アメリアの呟きに、ユリシスが静かに頷いた。

「王都は建物が多い。ここに来た時、空が広くて驚いた」

「ユリシス様も、そう感じましたの? 一緒ですわね」

珍しく自分のことを話してくれた。アメリアはそれを掬い上げるように、穏やかに続けた。

「領地を賜る前は、リュストアには来たことがなかったのですか?」

「ああ。東や西の国境地帯には行ったが、ここは見るだけだった」

第二王子でありながら、ユリシスがいたのは前線だ。その武神のような強さは、冷遇されていても陰ることはない。

(それでも、この方はちゃんとここに根を下ろそうとしている)

城に来た使用人たちへの気遣い、毎朝欠かさない鍛錬、領地の帳簿を丁寧に確認する姿。誰かに認められるためではなく、ただ自分の責務を果たそうとしているのだ。

──足を引っ張ろうとする者も、紛れているようだが。

「リュストアは、これからもっと良くなると思いますわ」

ユリシスがこちらを見た。

「……なぜ」

「だって、わたくしたちがそうしますもの」

ユリシスはしばらく黙っていた。金の瞳が揺れ、何か言いたげに口が開きかけて、また閉じる。それからゆっくりと窓の外へ視線を戻した。

「君が言うなら、そうかもしれない」

小さな声だった。けれどその顔は、城にいる時よりも少しだけ柔らかく見えた。

「ユリシス様。到着まで、リュストアのこれからのことをお話ししませんか? あちらでも少し学んできましたの」

アメリアはユリシスにそう提案した。避けられていたせいで、しっかりとした話ができていなかったのだ。

アメリアとしては、このリュストアを豊かにしたいと考えている。そしてきっと、ユリシスもそうだろうと確信している。

「……手始めに、領地の東側の道を整備したいと思っている」

少しの沈黙が続いてから、ユリシスが口を開いた。

アメリアはこれまで学んだ知識を総動員して、この地のことを考える。

「東側ですか。かつては交易路として使われていたはずなのに、ここ数年で通行量がかなり減っているのでしたわね?」

アメリアの言葉に、ユリシスが僅かに目を見開く。

「アメリアも、知っているのか」

「はい。妃教育で、王国の主要な交易路については一通り学びましたの。リュストアの東街道はかつて北方交易の要だったと。それに弟が商会を立ち上げる際、交易路の話をよく聞かせてくれました」

商人にとって交易路は重要だ。道自体の整備もそうだが、治安も重要。山賊や盗賊が出る場所では商品の輸送に大きなマイナスになってしまう。

「そうだ。そしてその東街道が今ではほとんど機能していない。そこを改善したいと思っているんだ」

「道が整えば人が動き、物流も栄えますものね。痩せた土地と言われていますけれど、交易路さえ整えばリュストアの立地は悪くないはずです」

言葉がするすると出てきた。エドマンドと夜遅くまで話し込んだこと、学んだ王国の経済の仕組み。それらが今、ここで役に立っている。

(いけないわ)

ふいに、アメリアは口を閉じた。

気付けば目の前のユリシスが、呆気に取られたような顔をしている。

フレデリックに、同じようなことを話したことがあった。何か気になることを見つけて、つい分析を口にしてしまった時、彼は笑みを崩さないままこう言ったのだ。

――君はそういうところが、可愛げがないな。

それ以来、アメリアは空気を読んで口をつぐむことを覚えた。

「アメリア、どうかしたか」

低い声に、アメリアははっと顔を上げた。ユリシスがこちらをまっすぐに見ている。

「いいえ、なんでもありませんわ」

ユリシスは一拍おいてから、静かに続けた。

「他にも気になることがあれば、教えてくれるとありがたい」

アメリアは瞬きをした。

「……よろしいのですか? わたくし、でしゃばりすぎかと思いまして」

「なぜだ? 君のように思慮深い人がいてくれて、私は助かっている」

飾りもない、ただ真っ直ぐな言葉がアメリアに返ってくる。

(ユリシス様は、そのようにおっしゃってくださるのね)

胸の奥で、何かがほどけるような感覚があった。ずっとどこかで息をひそめていたものが、すっと楽になるような。

「ありがとう、ございます」

アメリアはふわりと微笑んだ。ユリシスは短く頷いて、また二人は湖までの道程でリュストアについての話に花を咲かせたのだった。