作品タイトル不明
16 押し入ります
ユリシスが食事の席から姿を消して、五日が経った。
それからもアメリアは変わらず城の管理を進め、使用人たちに声をかけながら日々を送っている。
廊下を歩いていると、向こうから赤髪が勢いよく近づいてきた。
「あ、奥様! ごきげんいかがっすか!」
「ええ、おかげさまで。カイルこそ、今日も元気そうね」
「っす! 朝から鍛錬してたんで、腹ぺこっすけど!」
カイルはにかっと笑った。何も変わらないその屈託のなさが、今のアメリアにはむしろ心地よかった。
「ユリシス様は? 今朝の鍛錬はいかがでしたか」
「あー……」
カイルの笑顔がほんの少し曇った。表情の揺らぎはほんの一瞬だったが、それを見逃すアメリアではない。
「いつも通りっすよ。ただ、なんか最近……鍛錬の量が増えてる気がするっすね」
「そう」
「まあユリシス様のことっすから、色々と考えることがあるんじゃないっすかね!」
「そうね。ありがとう、カイル」
「っす! では俺、飯食いに行くっす!」
また元の調子に戻ったカイルが、軽い足取りで去っていく。アメリアはその背中をそっと見送った。
表向きは何も変わらない。ロザリーもカイルも、アメリアが動じていないことに安堵しているようだった。それでも、気になることがある。
「ロザリー」
アメリアは少し声を落として、後ろに控える侍女に話しかけた。
「ユリシス様の身の回りのお世話は、誰がしているのかしら?」
ロザリーは周囲をさりげなく確認してから、同じように声を潜めて答えた。
「……それが、どなたもついていないようなのです」
「まあ」
「旦那様が断っておられるようで。お食事も執務室まで運ぶだけで、お部屋の掃除もご自身でなさっているそうです」
アメリアはしばらく黙ったまま考えた。ユリシスが使用人を遠ざけているのは、呪いを恐れさせまいとする気遣いからだろう。誰かが傍にいれば、また何か起きた時に「呪いのせいだ」と怯えさせてしまう。そう思っているに違いない。
だがそれは、あまりにも自分を後回しにしすぎている。
「そう」
アメリアは静かに前を向いたまま、ぽつりと呟いた。しばらく黙って歩いてから、ふと足を止める。
「ロザリー、ごめんなさい。わたくしちょっと用事を思い出したわ」
「え? アメリア様、どちらへ」
「すぐ戻るわ。あなたは騎士団にいつもの差し入れをお願いね」
アメリアはにっこりと微笑んで、踵を返した。向かう先は城の北側、日当たりの悪い区画だ。なぜかそんな所に、彼は自室を設けているのだという。
ロザリーの声が聞こえたが、アメリアはもう歩き出していた。
廊下を進むにつれ、空気がひんやりと冷えてくる。昼間でも薄暗く、使用人の姿もほとんど見当たらない。
(ここが、ユリシス様のお部屋ね)
扉の前に立ったアメリアは、意を決して軽くノックをした。
だが、返事がない。もう一度。今度は少し強めに叩く。
「……誰だ」
すると、怪訝そうな低い声が聞こえた。
「ユリシス様。アメリアですわ」
アメリアが事もなげに答えると、少しだけ沈黙が落ちた。それから、部屋の中でどたっと鈍い音がする。続いて何かが動く気配があった。探しているのか、ひっくり返したのか。
「な、なんの用だろうか」
声が、心なしか上擦っている。
「ユリシス様に、大切な用事がございまして」
「今は少し、待ってくれると」
「入りますわね」
問答無用だ。アメリアは構わず扉を開けた。
部屋の中では、ユリシスが上衣を脱ごうとしている最中だった。鍛錬から戻ったばかりなのか、黒髪がわずかに乱れている。脱ぎかけの上衣が肩口に引っかかったまま動きを止めた彼は、扉の前に立つアメリアを見て目を丸くした。
「ア、アメリア!? 今は……!」
「失礼いたしますわ、ユリシス様」
鍛え抜かれた胸元が惜しげもなく覗いている。剣を振り続けた体は無駄なく引き締まっていて、肩から腕にかけての筋肉の流れは彫刻のようだった。アメリアは一瞬だけそちらに視線を向けてから、特に動じた様子もなく部屋の中へ進んだ。
「使用人をおつけにならないと聞いたので、わたくしが参りましたわ」
扉を閉めると、ユリシスは上衣を抱えたまま明らかに狼狽えている。頬にうっすらと赤みが差しているのは、鍛錬の熱がまだ残っているからだろうか。
「だったらわたくしがお世話をいたします」
「な……それは、困る。君は関係――」
「ユリシス様」
アメリアは静かに遮り、まっすぐに彼を見た。
「わたくしはお飾りの妻でも構わないと申しましたが、夫が使用人もつけずにひとりで身の回りのことをしているのを、知らぬふりをするのは話が別ですわ」
ユリシスは言葉を失った。金の瞳が揺れ、何か言おうと口を開きかけては閉じる。
「アメリア……着替えは自分でできる」
「じっとしてくださいませ」
その一言に、ユリシスはぴたりと動きを止めた。アメリアは上衣を受け取り、慣れた手つきでしわを伸ばしながら袖を整える。幼い頃からエドマンドの着替えを手伝ってきた。泣き虫だった弟が嫌がるのをなだめながら、ボタンをひとつひとつ留めてやった記憶がある。要領は同じだ。
ただ、勝手が少し違った。エドマンドと比べると、ユリシスの体はひとまわりもふたまわりも大きい。ボタンの位置が高く、アメリアは自然と背伸びをする形になる。整えようとしても、なかなか手が届かない。
(これは少し、困りましたわね)
アメリアが内心首を傾げていると、ユリシスが無言でわずかに身をかがめてくれた。これは随分と作業がしやすい。
「ありがとうございます」
「………………」
嬉しそうに礼を言うアメリアにユリシスは何も言わず、ただじっとアメリアの手元を見つめている。
(そんなに見られると、なんだか緊張するわ)
先ほどまで狼狽えていたのに、今度は黙りこくっているのも気になる。謎の緊迫感に包まれながらアメリアが最後のボタンを留め終えたとき、廊下から足音がドタドタと近づいてきた。
「ユリシス様、鍛錬後の報告っす! 入るっすよ!」
勢いよく飛び込んできたのはカイルだった。それから三秒ほど、沈黙が落ちる。
「わあああ! す、すみませんっす! 自分はなにも見てないっす!」
来た時と同じ勢いで、カイルは廊下を全力で走り去っていった。顔を手で覆っていたけれど、危なくないのだろうか。
「これでお着替えは終わりですわね」
アメリアは片付けた上衣を椅子の背にかけ、部屋を見渡した。書類が山積みになった執務机、使い込まれた剣が立てかけられた壁際。質素だが、きちんと整えられている。やはり自分でやっていたのだろう。
「そういえば、洗濯もまさかおひとりでなさっているのですか?」
アメリアは一歩引いて、じとっとした目でユリシスを見上げた。
「……違う。下働きの者が取りにくる。あの籠に入れて外に出しておけばいい」
ユリシスが部屋の隅の籠を示した。なるほど、最低限の仕組みは整えているらしい。
「そうですか」
アメリアが籠に目を向けたちょうどその時、扉の外でおそるおそる足音が止まった。小さなノックが、一回。
「し、失礼いたします……洗い物を引き取りに参りました……」
か細い声とともに、隙間から覗いた顔に見覚えがあった。
「まあ、リーナじゃない」
アメリアが穏やかに名前を呼ぶと、少女はびくりと肩を跳ねさせた。それから恐る恐る部屋の中を確認して、ユリシスとアメリアの姿を認めた瞬間、みるみる顔が青ざめていく。
「も、申し訳ありません! 奥様がいらっしゃるとは思わなくて……出直します!
「いいのよ、リーナ。仕事をしにきたのでしょう。これをお願いするわね」
アメリアは部屋の隅の籠を持ち上げ、リーナへと手渡した。
「は、はい。奥様」
籠を受け取ったリーナの小さな手に、アメリアの目が止まった。指先が、かわいそうなくらい赤くなっている。
「リーナ、その手」
「え、あ……これは、その」
「痛むでしょう」
リーナは俯いて小さく首を横に振った。痛くないとは、とても思えない。
「ちょうどよく効く薬を持っているの。わたくしの部屋においでなさい、すぐ済むわ」
「で、でも、お仕事がまだあります」
「洗い物は後でいいわ」
アメリアはリーナに微笑みかけてから、ユリシスを振り返った。
「ユリシス様。今夜の夕食は、ご一緒してくださいますね」
問いかけというより、確認だった。
「……ああ」
「では、失礼いたします」
ユリシスの答えに満足したアメリアは、リーナを連れて部屋を出た。
歩きながらそっと少女の手を見つめる。
荒れた指先と、赤くなった手の甲。本当に水仕事の荒れ方だろうか——アメリアの中に、小さな疑問が灯っていた。