軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

15 城の澱み

「なんだか落ち着かない空気ね」

鏡の前に座り、ロザリーに髪を整えてもらいながら、アメリアはぽつりと呟いた。

あのあっさりとした婚礼の儀から早くも二週間が経とうとしているというのに、城の空気はなんだか澱んでいた。来た時よりも、使用人たちの顔が暗いように思う。

ロザリーは手を動かしながら、小さく眉を寄せる。

「婚礼の儀式から三日が経ったあたりから、妙な雰囲気になってきたように思います」

「そうね。最初は花瓶だったわ」

廊下の棚に飾られていた白磁の花瓶が、何の前触れもなく落ちた。近くにいた使用人が慌てて破片を拾い集め、その日は「棚の端に置きすぎていたのでしょう」と片付けられた。

「次は蝋燭でしたね」

深夜、城の廊下を照らす燭台の火がいくつも同時に消えた。風が入り込んだのかと窓を確かめたが、どこも閉まっていた。翌朝、使用人たちが青ざめた顔で報告してきた時、ロザリーは真っ先にアメリアの部屋へ飛んできたのだった。

「その翌日が給仕の転倒で、四日前が厨房でのボヤ騒ぎだったかしら。小さなことが続きすぎているわね」

「お嬢様、これは……」

「偶然でしょう」

アメリアは鏡越しにロザリーを見て、穏やかに微笑んだ。

「ですが、使用人たちの間では既に」

「ええ、知っているわ」

ロザリーの言わんとすることはわかる。

使用人たちの囁き声は、とうにアメリアの耳にも届いていた。やはり呪いがあるのだ。ユリシス殿下がこの城にいらっしゃるから。奥様まで巻き込まれなければよいが、と。

「……お嬢様は、怖くないのですか」

ロザリーが静かに問う。いつもの憤りではなく、純粋な心配が滲んでいた。

アメリアはしばらく鏡の中の自分を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。

「わたくしは、おかしいと思っているわ」

「おかしい、ですか?」

「ええ。呪いというものが本当にあったとして。どうしてそう都合よく、人が怯えるような形でばかり起きるのかしら」

ロザリーは手を止め、アメリアの言葉を噛み締めるように黙った。

「ひとつひとつは些細なことよ。でも積み重なれば、話は別だわ」

支度を終えて廊下へ出ると、すれ違った使用人たちがわずかに目を伏せた。アメリアが声をかければ笑顔を返してくれる。だが、その奥にある怯えは隠しきれていない。

「それに考えてもみて」

アメリアは鏡越しにロザリーの目を見る。

「これまで色々と細かい事故や怪我の報告があったけれど……一番大怪我をしそうな人たちは無事よ。カイルも毎日ピンピンしているでしょう」

「確かに、そうですね……!」

「ユリシス様だって、鍛錬場で毎朝剣を振っていらっしゃるわ。あれだけの方が、廊下の蝋燭が消えたくらいで怪我をするとは思えないでしょう」

ロザリーはぱちぱちと目を瞬かせた。

「言われてみれば、騎士団の方々も、皆さんいつも通りに訓練されていますし」

「そうなの。不思議だと思わない?」

アメリアはおっとりと首を傾げた。

「呪いというものがあるなら、もっと無差別に、もっと理不尽に降りかかるものではないかしら。でもここで起きていることは、どれも小さくて、でも誰かが怯えるには十分で、そして誰も本当には傷ついていない」

ロザリーの手がぴたりと止まった。

「それは……つまり」

「都合が良すぎるの。怯えさせることそのものが目的みたいだわ」

アメリアは鏡の中で静かに微笑んだ。その笑顔はいつも通り穏やかだったが、紅の瞳の奥には、何かをじっと見定めるような光が宿っていた。

「もう少しだけ観察してみましょう。きっと何か見えてくるはずよ」

アメリアの言葉に、ロザリーはぱっと目を輝かせる。

「はい! 私も動向を注視いたします! 怪しい者がいればすぐに報告しますね!」

力強く拳を握るロザリーの姿に、アメリアも微笑みを返す。

アメリアは鏡に映る自分の顔を見つめた。誰かが、この城で何かをしていることは間違いない。

非常に頭が痛い問題ではあるけれど、対応しない訳にはいかない。

この城での暮らしをよりよいものにするため、アメリアはまたいつもの笑顔をつくった。

その日の夕方、廊下でユリシスと行き合った。

ボヤ騒ぎがあった厨房の方から来たのだろう。騎士のひとりと何か短く言葉を交わし、それから顔を上げてアメリアと目が合った。

「ユリシス様、厨房の方は大丈夫でしたか?」

「ああ、大事ない」

ユリシスは頷いたが、その金の瞳はどこか険しかった。普段の静けさとは違う、内側に何かを抱えているような、重い沈黙だ。

しばらく間があってから、彼は口を開いた。

「アメリア」

「はい」

「……君が巻き込まれるのは、嫌だ」

低く、絞り出すような声だった。

それだけで、連続した小さな事故が呪いと呼ばれ始めていることを彼が知っていることを察した。

アメリアは瞬きをした。

「でも、わたくしは何ともありませんわ。これくらい大したことありませんもの」

「次は何が起きるか分からない」

ユリシスはアメリアの言葉を静かに遮り、それ以上何も言わなかった。ただまっすぐに、真剣な目でアメリアを見ている。

その眼差しの奥にあるものを、アメリアは読み取った。

怒りでも、苛立ちでもない。恐れだ。

誰かを傷つけることへの、深く根付いた恐れ。

(また、初めて会った時の目をしているわ)

自分のせいで誰かが不幸になると信じ込まされて、だから遠ざけることを覚えた。それがこの人の、唯一知っている守り方なのだ。

「俺には、近づかない方がいい」

それだけ言って、ユリシスは踵を返した。

その背中が、廊下の奥へ遠ざかっていく。歩幅は広く、迷いのない足取りだ。アメリアの方を振り返ることはなかった。まるで、振り返ってしまえば気が変わると知っているかのように。

アメリアはその背中が角を曲がって見えなくなるまで、じっと立ったままでいた。

(気遣いだと分かっているけれど)

胸の奥に、ずきりと小さな痛みが灯った。

あの瞳が脳裏から離れない。

──そしてそれからユリシスは、食事の席に現れなくなった。

食堂へ向かったアメリアを待っていたのは、静かに整えられたテーブルと、片側だけに置かれた朝食だった。向かいの席は空のまま、食器も出ていない。

三日目の昼過ぎ、ロザリーが茶を持ってきながら、控えめに口を開いた。

「……旦那様なりのご配慮だと思いますよ、お嬢様」

「そうね」

アメリアは穏やかに頷いた。ロザリーの言いたいことは、ちゃんと分かっている。ユリシスが悪意からそうしているのではないことも。

ロザリーが下がったあと、アメリアはひとり窓の外を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「でも、それでは……わたくしが来た意味がありませんわ」

誰に聞かせるでもない、小さな声だった。

支えたいのに、遠ざけられている。

これまでアメリアは、どんな場面でも感情に名前をつけることが得意だった。怒りも、諦めも、安堵も、すぐに整理できた。なのに今、胸の奥にある感情がうまく言葉にならない。

寂しい、というのとも少し違う。

ただ、あの向かいの席が空であることが、思っていたよりもずっと、気にかかった。

アメリアは小さく首を横に振る。カップを持ち直す。冷めかけた紅茶が、ほんのわずかに苦く感じた。