作品タイトル不明
09.
天導協会からの通達が届いたのは、朝の診察が終わった頃だった。
ガルドが封書を持ってきて、渋い顔で差し出した。
「治癒師不在の辺境への支援として、聖女を一名派遣する、だそうだ」
「そうですか」
「支援、という名目だがな」
ガルドが腕を組んだ。
「監視だろう。先日の件で引き下がったはいいが、諦めたわけではない、ということだ」
「そうでしょうね」
トーコは通達を読んで、棚に置いた。
ミリアが首を傾げた。
「どんな方が来るんでしょう」
「来ればわかります」
「先生、怖くないんですか」
「やましいことは何もありません」
シルフィが肩の上で「きゅ」と鳴いた。
◇
三日後、馬車がデッドエンドに着いた。
治療院の前で止まった馬車の扉が開き、小さな足が降りてきた。
小柄な少女だった。白い法衣を纏っているが、少し大きいのか、袖がわずかに余っている。目が大きくて、きょろきょろと周囲を見回している。荷物を抱えたまま、おずおずと治療院の看板を見上げた。
「あ……あの……天導協会より、セラと申します……こちらが、トーコ先生の治療院で……合っていますでしょうか……」
声が小さい。
ガルドが戸口で腕を組み、じっと見た。ミリアが隣で「か、可愛い……」と小声で言った。
「合っています。どうぞ」
トーコが扉を開けた。
◇
待合室に通すと、セラは椅子に座りながら、きょろきょろと診察室の方を覗いていた。棚に並んだ器具を見て、目を丸くする。血液検査の遠心分離機を見て、少し青ざめる。
「こ、これは……」
何か言いかけて、止まった。
「邪道な、と言いたいですか」
「い、いえ……そういうわけでは……」
セラが俯いた。
「協会から、先生のことを……その……調べてくるように、と言われていまして」
「そうですか」
「す、すみません……正直に言ってしまいました……」
「正直に言ってくれた方が、助かります」
トーコがお茶を持ってきた。ハーブを煎じたもので、湯気が立っている。
「どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
セラが両手でカップを受け取り、一口飲んだ。
「……いい香り」
目が、少し柔らかくなった。
シルフィがトーコの肩から飛び降り、セラの膝の近くに着地した。セラが固まった。
「し、神獣……!」
「きゅ」
シルフィが翠色の目でセラを見た。
セラが恐る恐る手を伸ばすと、シルフィはじっとしていた。指先が鱗に触れる。
「……柔らかい」
魔力視に映るシルフィの光が、穏やかに揺れている。
——気に入った、ということだろう。
◇
お茶が半分ほど減った頃、治療院の戸が勢いよく開いた。
鉱山の作業員らしき男が二人、仲間を抱えて飛び込んできた。
「先生、頼む……落石で頭を打って……!」
男の額から、血が流れている。
「診察台に」
トーコが即座に動いた。
セラが立ち上がりかけた。聖女として、反射的に動こうとしたのだろう。しかし傷から流れる血が目に入った瞬間、足が止まった。
顔が蒼白になっていく。手が、細かく震え始めた。呼吸が浅くなる。
「す……すみ……っ」
声が出ない。膝が、折れそうになっている。
ミリアが気づいて、セラの腕を支えた。
「椅子に座って。ここにいていいですから」
トーコは処置に集中しながら、一度だけセラを見た。
魔力視に、萎縮した光が見える。怯えて、固まっている。
今は患者が優先だ。
処置は十分ほどで終わった。頭部の裂傷を縫合し、止血を確認する。男の意識ははっきりしていた。脳への影響もない。
「しばらく安静にしてください。動けるようになったらガルドさんのところへ」
「ありがとうございます、先生……」
作業員たちが頭を下げて、処置室の方へ移動した。
待合室に戻ると、セラがまだ椅子でうずくまっていた。ミリアが傍に座り、背中に手を当てている。
「す、すみません……役に立てなくて……」
「椅子に深く座ってください。背もたれに寄りかかって」
トーコが静かに言った。セラが言われた通りにする。
「ゆっくり息を吐いて。吐くことだけ考えてください」
「……はい」
「吐いて。ゆっくり。急がなくていいです」
しばらく、トーコはセラの傍に座っていた。何も急かさなかった。ただ、傍にいた。
少しずつ、セラの呼吸が整っていった。顔に血の気が戻ってくる。
◇
落ち着いてから、トーコは問診を始めた。
「こういうことは、よくありますか」
「……はい。昔から」
「どんなときに起きますか」
「知らない場所に一人でいるとき……人が多い場所……急に大きな音がしたとき。あと」
セラが少し間を置いた。
「治癒魔法を使おうとするとき。血を見たとき」
トーコが魔力視を開いた。
セラの体内を流れる魔力は、明るくて澄んでいる。量も十分だ。落第と言われるほど魔力が少ないわけではない。ただ、その流れが——どこかで固まっていた。萎縮したように、出口の手前で縮こまっている。
「血液検査をしていいですか。指先に少し針を刺します」
「は、はい……」
検査の結果に、身体的な異常はなかった。
トーコは静かに言った。
「心の病気です」
セラの目が、揺れた。
「体と同じように、心も傷つきます。強い恐怖や悲しみの体験が、後から症状として出ることがある。息が苦しくなる、手が震える、急に怖くなる。これは、あなたが弱いからではありません」
「病気、なんですか……私が」
「そうです。あなたのせいではありません」
セラが唇を噛んだ。
「ずっと……自分がおかしいんだと思っていました。聖女なのに、魔法が怖くて。みんなはちゃんとできるのに、私だけ」
「何か、きっかけがありましたか」
長い沈黙があった。
セラが、ゆっくりと話し始めた。
「三年前……まだ見習いの頃、患者さんの怪我を治そうとして。魔法を使ったら、上手くいかなくて……腕が、破裂してしまいました」
声が、細くなった。
「患者さんは助かりましたが、私のせいで余計な傷を作ってしまって。それから……魔法を使おうとすると、あのときの音が聞こえる気がして、手が止まってしまうんです」
トーコは黙って聞いた。
「それで落第と言われて。協会では、使えない聖女だって……今回も、どうせ邪魔になるだろうから辺境に行かせろ、って言われたんだと思います」
セラが俯いた。
「すみません……こんな話、聞かせてしまって」
「話してくれてありがとうございます」
ミリアが廊下で目を押さえているのが、視界の端に見えた。
◇
昼過ぎ、小さな女の子が母親に手を引かれて来た。
膝を擦り剥いている。転んだらしく、泥がついている。泣いていたのか、目が赤い。
「先生、娘が転んでしまって」
「診ます」
トーコが膝を確認した。擦り傷だ。深くはない。洗浄すれば十分だが、端が少しめくれている。
トーコはセラを見た。
「一つ、試してみませんか」
セラが目を丸くした。
「私が……ですか」
「ええ。私が隣で見ています」
「でも、また暴走したら……」
「私には魔力の流れが見えています。おかしくなりそうになったら、すぐに声をかけます」
セラが、女の子を見た。
女の子が、大きな目でセラを見上げている。
「……お姉ちゃん、聖女さん?」
「そう……です」
「じゃあ、治してくれる?」
セラが少し、息を呑んだ。
それから、ゆっくりと膝をついた。
「……やってみます」
セラが傷の前に両手をかざした。
魔力視に映るのは、萎縮した光だ。出口の手前で、止まっている。
「深呼吸して」
セラが息を吸った。
「急がなくていいです。魔力を一度に流そうとしないで。細胞一つひとつに届けるつもりで、少しずつ」
「細胞……」
「今、傷の端に光が届いています。そのまま。もう少しだけ、奥へ」
セラの眉が寄る。
「怖い……です」
「大丈夫。今、ちゃんと届いています。暴走していません」
トーコは見えているものをそのまま言葉にした。魔力の光がどこにあるか、どこへ向かっているか。セラの代わりに、地図を読んでいる。
「もう少し。傷の中心まで、あと少し」
セラの手が震えている。
「……こわい」
「見えています。大丈夫です。あなたの魔力は、今ちゃんとあなたの言うことを聞いています」
光が、細く、ゆっくりと、傷の中心へ流れていった。
傷口が、動いた。
ゆっくりと、端から中心へ向かって、皮膚が閉じていく。
女の子が、目を丸くした。
「……なおった」
母親が息を呑んだ。
「ありがとうございます……! 聖女様、ありがとうございます……!」
女の子が、セラを見上げてにっこりした。
「聖女さん、すごい」
セラの目から、涙がこぼれた。
声も出さずに、ただ、泣いた。肩が揺れる。手が、膝の上で握られている。
母子が帰っていく。扉が閉まった。
シルフィが静かにセラの膝の上に乗った。
「きゅ」
セラが、泣きながら、シルフィを両手で包んだ。
◇
「先生」
しばらくして、セラが顔を上げた。目が赤い。それでも、どこかすっきりした顔だった。
「本当のことを言います」
「どうぞ」
「協会に、先生の邪魔をしてこいと言われました。証拠を集めて、営業停止の理由を作れと」
「わかっていました」
「でも、来てみたら……」
セラが、治療院を見回した。棚に並んだ器具。整えられた診察台。廊下で聞き耳を立てているミリアと、薬棚の前で知らないふりをしているガルド。
「邪魔なんて、できないです。先生は、ちゃんと治療してる」
「監視したいなら、してください」
トーコが静かに言った。
「やましいことは何もありませんから」
セラが、少しだけ笑った。初めて見る顔だった。
「……また、来てもいいですか」
「どうぞ。患者はいつでも」
「患者として、来ます」
セラが立ち上がり、深く頭を下げた。
「今日は……ありがとうございました。出直してきます」
馬車が見えなくなってから、ミリアがため息をついた。
「かわいかった……」
「仕事中です」
「わかってますよ。でも、かわいかった」
ガルドがお茶を一口飲んで、ぼそりと言った。
「また賑やかになるな」
「そうですね」
肩の上でシルフィが「きゅ」と鳴いた。
魔力視に映るのは、満ち足りた翠の光だ。
——また一人、この治療院に根付いていく。そんな気がした。