軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

29.

グランの左目の処置が終わったのは、翌週のことだった。

両目が揃って見えるようになったグランは、診察台から降りながら言った。

「久しぶりに、両目で見る世界だよ。空の色が、こんなに青かったとは忘れていた」

「安静期間が終われば、普通の生活に戻れます」

「ありがとう」

グランが、短く言った。

それだけだった。

トーコも「お大事に」と答えた。

それだけのはずだった。

十日ほど後、見慣れない男が治療院を訪ねてきた。

四十代の、恰幅のいい男だ。商人らしい装いをしている。手に、分厚い書類の束を持っていた。

「トーコ先生とお見受けします。商業ギルド、辺境支部長のカサルと申します」

「どうぞ」

「グラン様からご紹介いただきまして」

トーコが少し、目を動かした。

「グランさんから」

「はい。先生のお話を伺いまして、ぜひ一度お目にかかりたいと。実は、少々ご相談があって参りました」

男が、書類を広げた。

「この治療院の規模を、大きくするお手伝いをさせていただけないかと」

「……規模を、大きく」

「はい。グラン様からお聞きしたんですが、こちらはいつも患者が並んでいて、先生お一人でやりくりされているとか。建物も手狭で、入院が必要な患者を置くスペースもない、と」

「それは、そうですが」

「商業ギルドとして、資金を出させていただきたいのです。建物の拡張、器具の調達、人手の確保。必要なものを、できる限り」

トーコは、男を見た。

「なぜ商業ギルドが」

「辺境の医療が充実すれば、働く人間が増えます。怪我や病気で仕事を休む者が減れば、商いも安定する。先生の治療院は、この街の経済にとっても大事な場所です。それが一つ」

男が続けた。

「それと、グラン様のご紹介ということで。グラン様のお頼みを断れる者は、この辺境にはおりません」

ミリアが後ろで「やっぱり……」と小声で言った。

翌日、ライナルトが来た。

いつものように、定期検診の名目だったが、診察が終わると書類を取り出した。

「話がある」

「はい」

「治療院を、大きくしないか」

トーコが、少し間を置いた。

「昨日、商業ギルドの方が来ました」

「知っている。話を合わせた」

「合わせた……」

「商業ギルドが資金を出す。私が土地を出す。建物は新しく建てる。入院できる部屋を作り、処置室を複数用意し、薬の調合室も広くする」

ライナルトが、淡々と言った。

「この街に、ちゃんとした病院が必要だ。治療院では手狭になっている。あなたもわかっているだろう」

「わかっています。でも、そんな大きな話に」

「大きくなければ、意味がない」

ライナルトが、トーコを見た。

「あなたがこの街に来てから、死ぬ者が減った。後遺症で働けなくなる者が減った。遠くから患者が来るようになった。それだけの実績がある。それを支える場所が、今の治療院の規模では足りない」

「でも、私は」

「何が不安だ」

トーコが少し、考えた。

「私一人では、大きな施設は回せません」

「人を増やせばいい」

「すぐには無理です」

「すぐでなくていい。時間をかけて作ればいい」

「……費用が」

「出す」

「土地が」

「出す」

「……」

「他に何かあるか」

トーコが、しばらくライナルトを見た。

「……分不相応です」

「なぜ」

「私はただの、辺境の医師です」

ライナルトが、少し口元を動かした。

「ただの、とは言わせない」

「……」

「あなたはこの地の、なくてはならない存在だ。それに見合う場所を作る。それだけのことだ」

トーコは、しばらく答えなかった。

窓の外で、スノウが日向で丸まっているのが見えた。

待合室から、患者の声が聞こえてくる。

ミリアが廊下で記録をつけている気配がした。

「……セラさんやミラさんが、もっとここで学べるようになりますか」

「そうなる」

「ガルドさんの調合室が広くなりますか」

「そうなる」

「入院が必要な患者を、帰さなくてよくなりますか」

「そうなる」

トーコは息を吐いた。

「……わかりました」

「受けてくれるか」

「患者のためになるなら」

ライナルトが頷いた。

「それでいい」

夕方、八宝斎が飛び込んできた。

「トーコちゃん、聞いた! 病院作るって!」

「話が早いですね」

「グランさんから聞いた。嬉しくて来ちゃった。私も手伝う。器具はぜんぶ私が作る」

「ありがとうございます」

「お礼はいらないよ。トーコちゃんの器具を作るのは、楽しいから」

八宝斎が、目を輝かせた。

「手術室、どんな設計にする? 照明はこうした方がいい、換気はこうした方がいい、処置台の高さは……」

「今日はまだ何も決まっていません」

「わかってるけど想像が止まらなくて。ねえ、入院室は何部屋にする? 薬の棚は壁一面がいいよね。あと検査室と処置室は分けた方が絶対いい」

ミリアが「八宝斎さん、楽しそう……」と言った。

「楽しいよ。こういう仕事、大好き」

タカトが戸口で、静かに立っていた。

「ダーリンも来てたんですか」

「八宝斎が走って出たので」

「止めなかったんですか」

「止められない」

タカトが、淡々と言った。

ミリアが小声で「ヒモじゃない、わかってる」と言った。

翌日、ガルドに話した。

「調合室が広くなります」

「……そうか」

「棚も増やせます。薬草の保管場所も確保できます」

「そうか」

「嬉しくないですか」

「嬉しいよ」

ガルドが、ぽつりと言った。

「ただ……先生が来たとき、廃屋を借りてここを始めたのを覚えていてな。あの小さな治療院が、こんなことになるとは」

「ガルドさんのおかげです」

「俺は薬草を調合しただけだ」

「それが必要でした」

ガルドが、しばらく棚を見ていた。

「……賑やかになったな」

「そうですね」

「もっと賑やかになるんだろう」

「なると思います」

ガルドが、ふんと鼻を鳴らした。

それが、ガルドなりの喜び方だとトーコはわかっていた。

夜、一人になってから、グランに短い礼状を書いた。

治療院を大きくすることになりました。きっかけをいただきありがとうございます、と。

書いてから、少し考えた。

デッドエンドに来たとき、廃屋を借りて、ガルドと二人で棚を作った。あの頃は、ここまでになるとは思っていなかった。

おばあちゃん、と、心の中で呼んだ。

私が救えなかった分、たくさんの人を救うと誓った。その場所が、少し大きくなる。

それでいい、と思った。