軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

02.

目が覚めると、枕元に温かい塊があった。

シルフィだ。小さな身体を丸め、規則正しく寝息を立てている。

きゅ……きゅ……。

翠色の鱗が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。魔力視を薄く開くと、淡い光がそこにある。穏やかで、満ち足りた色だ。

起こすのも悪い。トーコは静かに身を起こし、外套を羽織って外に出た。

デッドエンドの朝は早い。

東の空が白み始めた頃、すでに鉱夫たちの声が遠くに聞こえていた。治療院の裏手に回ると、軒下に並べた薬草の鉢が朝露に濡れている。

柄杓で水をやっていると、通りかかった鍛冶師の老人が手を上げた。

「よう、先生。今日も早いな」

「おはようございます」

「これ、うちの畑のやつだ。たいしたもんじゃないが」

差し出されたのは、籠いっぱいの卵だ。

「ありがとうございます。いただきます」

「なに、娘の足の具合がよくなったんで、そのお礼だよ」

老人は照れくさそうに手を振り、行ってしまった。

少し歩くと、今度は村の女性が声をかけてくる。

「先生、牛乳いかがですか。今朝搾ったばかりですよ」

「いただきます」

「先生には本当にお世話になってるから。お代はいらないわ」

断ろうとしたが、女性はもう次の客に向かっていた。

トーコは卵の籠と牛乳瓶を抱えて、治療院に戻った。

魔法コンロの前に立ち、鍋に牛乳を注ぐ。

卵を二つ割り、野菜を刻む。特別なものは何もない、簡単な朝食だ。それでも前世の記憶にある調理の手順は今も染みついていて、手が勝手に動く。

香りが広がり始めた頃、寝室の方でもぞりと音がした。

「きゅー」

目を細めたシルフィが、よたよたと台所に入ってきた。魔力視に映るのは、眠そうな、けれどどことなく期待に満ちた光だ。

——ご飯の匂いで起きた、ということだろう。

「おはよう」

小皿にシルフィの分を取り分けてやると、小さな舌がちょこちょこと動いた。

「きゅ!」

満足げな声だ。魔力視の光が、明るく跳ねる。

「美味しい?」

「きゅー!」

トーコは少しだけ笑い、自分の朝食に向かった。

食器を片付けていると、戸を叩く音がした。

開院前だ。こんな早くに、と思いながら戸を開けると、若い母親が青ざめた顔で立っていた。腕の中に、ぐったりした幼い子供を抱えている。

「先生……子供が、昨晩から熱が下がらなくて」

「中へどうぞ」

診察台に寝かせると、子供は薄く目を開けた。顔が赤く、呼吸が浅い。

トーコは魔力視を開きながら、額に手を当てた。

「街の聖女様に。高いお金を払って治していただいたんですが、夜になってまた熱が出てきてしまって」

魔力視に映るのは、治癒魔法の残滓と、その奥で燻る濁った光だ。

——やはりそうか。

「聖女様が悪いわけではありません」

トーコは母親に向き直り、説明した。

「治癒魔法は、細胞の回復を強く促す力です。傷を塞いだり、骨を繋いだりするのには向いている。でも感染症は、体の中に入り込んだ菌が原因です。細胞をいくら元気にしても、菌そのものを取り除かなければ、熱は繰り返します」

母親が、不安そうに子供を見た。

「では……どうすれば」

「菌をやっつける薬を飲ませます。それと、水分が足りていないので補充します」

トーコは棚から小瓶を取り出した。ガルドと二人で調合した、この世界の薬草と医学知識を使った抗菌薬だ。前世の知識をもとに配合した、今のところデッドエンドにしか存在しない薬である。

それと、もう一つ。細い管と小さな袋でできた道具を取り出すと、母親が目を丸くした。

「それは……何ですか」

「点滴といいます。薬と水分を、少しずつ血の中に直接送り込む方法です」

母親が、息を呑んだ。

処置は一刻ほどで終わった。点滴の袋が空になる頃には、子供の顔色が明らかに戻っていた。額の熱も下がっている。うっすらと目を開けた子供が、か細い声で「おかあさん」と呼んだ。

母親が泣き崩れた。

「神様……薬神様……!」

「大袈裟ですよ」

「大袈裟なものですか……! 先生、本当にありがとうございます……!」

トーコは処置道具を片付けながら、薬の飲ませ方を丁寧に説明した。三日分を包んで渡すと、母親はそれを両手で受け取り、また深く頭を下げた。

母子が帰っていく背中を見送り、扉を閉める。

振り返ると、待合室にはすでに数人の患者が座っていた。開院前から来て、静かに待っていたらしい。

「大丈夫でしたかい、あの子」

鉱夫の男が、心配そうに聞いた。

「ええ、もう大丈夫です」

「そうか、よかった」

男はほっとした顔で、また椅子に座り直した。

「みなさん、お待たせしました。今から診察を始めます」

待合室が、ほんのり和んだ気配になった。

午前の診察が終わったのは、昼が少し過ぎた頃だった。

器具を洗い、カルテを整理し、薬棚の在庫を確認する。やることは尽きない。

肩に、小さな重みが乗った。

「きゅー……」

シルフィだ。魔力視に映るのは、心配するような、くすんだ翠の光。

「大丈夫よ」

「きゅ」

今度は少し、低い声だった。——そういう話じゃない、と言っている気がした。

「何?」

「きゅー!」

シルフィが肩から飛び降り、入口の方へ向かった。そして戸口の柱のあたりでぺしぺしと翼を叩く。

トーコが近づくと、そこに一枚の紙が貼ってあった。

丁寧な字で、こう書いてある。

——【求人。医療補助できる方を募集。詳しくは院内まで】——

「……シルフィ、あなたが作ったの」

「きゅ」

誇らしげな声だ。翠の光が、ぱっと明るくなった。

トーコは暫くその張り紙を見つめた。

——なるほど。そういうことか。

「わかった。動いてみる」

シルフィが満足そうに、ふわりと肩に戻ってきた。

冒険者ギルドの受付には、顔なじみになった女性がいた。

「先生、今日はどうされましたか」

「人を探したいんですが。医療の補助ができる人を」

受付の女性が、困ったように眉を下げた。

「治癒師の方、ということですか。それは……なかなか難しくて。治癒師紋の持ち主は引く手あまたで、辺境には来たがらないんです」

「治癒師でなくても構いません。問診の補助や、患者の案内ができれば」

「もん、しん……?」

女性が首を傾げた。問診という言葉自体、この世界では馴染みが薄いのだろう。現に言葉のイントネーションが想定したものと違った。

「患者さんの話を聞いて、私に伝えてくれるだけでいいんです。あとは薬の受け渡しや、来院の記録をつけてもらえれば」

「ああ……そういう方でしたら、冒険者の中にもいるかもしれませんね。登録してみましょうか」

手続きを進めていると、ギルドの扉が開いた。

入ってきた人物を見て、受付の女性が姿勢を正した。

「ライナルト辺境伯閣下」

ライナルトは受付を一瞥し、それからトーコに目を向けた。

銀がかった黒髪。深い色の瞳。傷の具合を確認したのはつい数日前のことだが、もうすっかり動けるようになっている。

「仕事の依頼に来た」

「閣下のご依頼でしたら、窓口は奥の——」

「ここでいい」

ライナルトはトーコの隣に立った。

「先生にも聞いてもらいたい」

受付の女性が、そっと席を外した。

ライナルトがトーコを見た。その視線は静かで、押しつけがましくない。ただ、まっすぐだ。

「少し、話せるか」

「どうぞ」

「……忙しくしすぎている」

トーコは少し、間を置いた。

「仕事ですから」

「朝から晩まで一人で診て、器具を洗って、薬を作って。休んでいるのを見たことがない」

「見ていたんですか」

「街の者が話していた」

ライナルトが低く続けた。

「あなたが来てから、この街で死ぬ者が減った。それはわかっている。感謝もしている。だからこそ、言う」

トーコは黙って聞いた。

「倒れられては困る」

それだけだった。命令でも、説教でもない。ただ、静かな事実として告げる言い方だった。

「……先生が今日ここに来たのは、人を探しているからか」

「ええ。補助をしてくれる人を」

「ならば、うちの屋敷から雑務のできる使用人を回そう。医療の心得はないが、記録をつけたり、患者の案内をするくらいはできる」

「それは……ありがたいですが、お気遣いなく」

「気遣いではない」

ライナルトが、僅かに目を細めた。

「この街の医師が倒れれば、困るのは私だ。合理的な判断だ」

トーコはしばらく彼を見た。

魔力視に映るのは、落ち着いた深い青の光。嘘のない、真っ直ぐな色だ。

「……わかりました。お言葉に甘えます」

ライナルトが小さく頷いた。

窓の外で、デッドエンドの昼の光が石畳に伸びていた。

シルフィが肩の上で、きゅ、と小さく鳴いた。

魔力視に映るのは、温かくて、少し意地悪な翠の光だ。

——何が言いたいんだろうか。まったくもう。