軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

03.

朝の診察が始まる前に、屋敷の使用人が来た。

二十代前半だろうか。栗色の髪を後ろで束ね、辺境伯家の紋章入りのエプロンを着けている。背筋が伸びていて、所作が整っている。ただ、その目には隠しきれない色があった。

——なぜ私がここに、と書いてある。

「ミリアと申します。閣下のご命令で、こちらのお手伝いに参りました」

丁寧な口調だった。完璧に丁寧だった。それが逆に、感情のなさを際立たせている。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

トーコは特に気にした様子もなく言った。

「まず、待合室の椅子を並べ直してもらえますか。患者が増えてきたので、もう少し数を足したい」

「……はい」

ミリアが動き出す。その背中を、ガルドが胡乱な目で見送った。

「先生、ああいう子は信用できんぞ」

「仕事をしてくれれば十分です」

「しかし——」

「ガルドさん、今日の薬草の在庫確認をお願いします」

ガルドは一瞬口を開け、それから渋々頷いた。

午前の診察が始まった。

ミリアは待合室の案内と記録を任された。最初は要領を得ない様子だったが、飲み込みは早い。三人目の患者が来る頃には、名前と症状を手際よくまとめて渡してくるようになっていた。

——仕事はできる。

トーコはそれだけ確認して、診察に集中した。

ミリアの方は、診察室の様子を時折覗いていた。気づかれていないと思っているのだろうが、トーコには筒抜けだ。

何を探っているのかは、だいたい想像がつく。

辺境伯に取り入ろうとしている女が、どんな手を使っているのか。怪しい治療で患者を騙していないか。そういったことを、確認しに来ているのだろう。

別に構わない。見ていればわかる。

トーコは次の患者を呼んだ。

昼過ぎ、薬の荷物が届いた。

「こちらに運んでいただけますか」

ミリアが木箱を持ち上げた。重さは相当あるはずだ。それでも彼女は顔色を変えず、棚の前まで運んでいく。

置いた瞬間、僅かに表情が歪んだ。

ほんの一瞬だ。すぐに元に戻った。

トーコの目が、静かに細くなった。

「ミリアさん」

「はい」

「腰、いつからですか」

ミリアが固まった。

「どう、してそれを? 鑑定スキル? あなたは無紋なのに?」

「私は魔力を持ちません。それゆえに、特別な魔力への感受性があるんです」

人体を流れる魔力。健康な体ならば、スムーズに流れる。

しかしたとえば体に不調があると、その部分の流れが滞るのだ。

人は重いものを持ち上げるとき、無意識に魔力を足など下半身に集める。それによって体を強化し、物を持ち上げる体。

しかしトーコの目には、ミリアの体を流れる魔力が、腰のあたりで滞ったのが見えたのである。

これは腰に重大な不調を抱えてるというサインだ。

そして、もうひとつ。

魔力は精神から発せられるエネルギーである。怒り、悲し、憎しみ、そういった強い感情の発露が、そのまま魔力量の大小に影響される。揺れに変わる。

魔力の揺れる様から、トーコは相手の感情がある程度わかるのだ。

ミリアが重いものを持ち上げる時、彼女の魔力は苦痛の揺れ方をしていた。

そして、自分がそのことを指摘した時、魔力は驚きの揺れを見せた。

以上のことから、トーコはミリアに、腰の不調があると見抜いたのである。

(無紋なのに、そんなことがわかるだなんて……すごい)

ミリアはトーコの技術に驚く反面、居住まいを正し言う。

「……問題ありません」

「そう見えません」

「本当に、大丈夫です。仕事に支障はありませんので」

トーコはしばらく彼女を見た。

魔力視を開くと、脊椎の周辺に歪んだ光がある。治癒魔法の残滓が幾重にも重なって、その奥で何かが圧迫されている。

「診察台に座ってください」

「先生、私は——」

「仕事中に倒れられると、私が困ります」

ミリアが唇を結んだ。しばらく間があって、ゆっくりと診察台に腰を下ろした。

「治癒魔法で痛みだけ抑えてきたんですね。ずっと」

背中を確認しながら、トーコは静かに言った。

ミリアは答えなかった。

「いつからですか」

「……二年、ほど」

「原因は何かありましたか」

「荷物の運搬で、腰を痛めて。治癒魔法をかけてもらったら痛みが取れたので、そのまま働いていました」

トーコは魔力視で脊椎の状態を丁寧に確認した。

椎間板が変形し、神経を圧迫している。

いわゆる椎間板ヘルニアというやつだ。

治癒魔法は痛みの信号だけを塞いでいた。根本の問題には、まったく触れていなかった。

「辺境伯の屋敷で働くために、隠していたんですか」

ミリアがわずかに息を呑んだ。

「……隠していたのが、わかりますか」

「だいたい」

短い沈黙があった。

「……クビになりたくなかったので」

今度は、取り繕いのない声だった。

「弟が、三人いまして。下はまだ八つで」

それだけ言って、ミリアは口を閉じた。続きは言わなかった。言わなくても、だいたいのことはわかった。

トーコは向き直った。

「手術で治せます」

「!? ど、どんな」

「椎間板が神経を圧迫しています。それを取り除けば、痛みは消えます。根治です」

「根治……」

ミリアがその言葉を、ゆっくりと繰り返した。

「治りますか。本当に」

「治します」

断言だった。

ミリアが初めて、素の顔になった。

施術はその日の夕方に行うことになった。

処置室に入る前に、ガルドがミリアに小瓶を差し出した。

「これを飲め」

「……何ですか」

「麻酔薬だ。先生が調合した」

ミリアが小瓶を受け取り、中身を見た。淡い緑色の液体だ。

「飲んだら、どうなりますか」

「眠くなる。施術の間、眠ったままでいられる」

「痛みを、感じないということですか」

「ああ。治癒魔法で使う気絶の術とは違う。ちゃんと、ただ眠るだけだ」

ガルドが続けた。

「気絶の術は脳に直接働きかけるから、後で頭が痛くなったり、記憶が飛んだりする。先生の麻酔薬は、そういう後遺症がない」

「……飲んでも、大丈夫なんですか」

「俺が保証する。先生の薬で、ここまでひどくなった患者は一人もいない」

ガルドが珍しく、まっすぐな目で言った。

ミリアがトーコを見た。

「眠っている間、呼吸は……」

「シルフィが管理します」

トーコが答えた。

ミリアがシルフィを見た。肩の上の小さな神獣が、翠色の目でまっすぐ見返してくる。

「き……きゅ」

「風の神獣ですから。清潔な空気を、眠っている間も絶やさず送り込めます。あなたの呼吸は、施術の間ずっとシルフィが守ります」

ミリアが、しばらくシルフィを見つめた。

シルフィはじっと、動かなかった。

「……わかりました」

ミリアが小瓶を傾けた。

シルフィが静かに肩から飛び立ち、翼を広げた。清潔な風の膜が、音もなく処置室を包んでいく。

眠りに落ちたミリアの傍で、シルフィがゆっくりと羽ばたいている。一定のリズムで、穏やかに。眠る人の呼吸に合わせるように。

魔力視に映るシルフィの光は、静かで揺るぎない。

——任せて、と言っている気がした。

「お願いします」

トーコは器具を手に取った。

脊椎の周辺は繊細な場所だ。神経の束が走っている。ミリ単位の精度が求められる。トーコの手は一切ぶれなかった。

ガルドが息を呑んだ。

「……こんな場所まで、見えるのか」

「見えています」

魔力視が、神経の走行を鮮明に映し出している。どこを傷つけてはいけないか。どこに圧迫の原因があるか。前世の解剖知識と、この目が、完璧に重なる。

一つ、また一つ。

圧迫していた組織が、正確な位置に戻っていく。

処置が終わった頃、外はすっかり暗くなっていた。

深夜、ミリアが目を覚ました。

処置室の隣、簡易の寝台に寝かされていた。腰に鈍い感覚はあるが、あの刺すような痛みがない。二年間、ずっとあったはずの痛みが。

薄暗い部屋の隅で、灯りが揺れていた。

トーコが椅子に座り、カルテに何かを書いている。

「……先生」

トーコが顔を上げた。

「起きましたか。痛みはありますか」

「あります。でも、前の痛みとは違う。処置の傷の痛みだと、わかります」

「それなら正常です」

トーコが立ち上がり、脈と体温を確認した。

「寝ていないんですか」

「経過を見ています」

「私のために……?」

「患者の術後経過を確認するのは当然のことです」

ミリアは少しの間、トーコを見た。

灯りに照らされたその横顔は、疲れているはずなのに、落ち着いている。急かしている様子も、嫌がっている様子も、まったくない。ただ、ここにいる。患者の傍に。

「……先生は、変わっていますね」

「そうですか」

「こんな夜中まで、見ず知らずの使用人の傍に」

「見ず知らずではありません。今日から私の患者です」

ミリアが、静かに目を伏せた。

翌朝、ミリアは自分の足で立った。

腰に手を当て、おそるおそる体を動かす。前屈み。横に曲げる。振り向く。

どこも、痛くない。

二年間、忘れていた感覚だった。

「……あ」

声にならない声が出た。

目に、じわりと熱が集まった。堪えようとしたが、間に合わなかった。

「……泣いていいですよ」

トーコが、淡々と言った。

ミリアは両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。肩が揺れる。

しばらくして、ミリアが顔を上げた。目が赤い。それでも、どこかすっきりした顔だった。

「……なんで、こんなにしてくれるんですか」

「あなたが患者だからです」

「でも私、先生のこと疑ってました」

トーコが少し、首を傾げた。

「辺境伯閣下に取り入ろうとしてる、怪しい人だって。最初からずっと、そう思ってました」

「知っています」

ミリアが目を丸くした。

「……気にしていなかったんですか」

「患者を疑いで選んでいたら、医師は務まりません」

それだけだった。言い訳でも、責めでもなく。ただ、そういうものだという声で。

ミリアが、ゆっくりと立ち上がった。

そして深く、頭を下げた。

「改めて……よろしくお願いします。今度は本当に、先生のお役に立ちたくてここにいます」

トーコが小さく頷いた。

そのとき、棚の上からふわりとシルフィが飛び降りた。そのままミリアの頭の上に、ちょこんと着地した。

ミリアが固まった。

「え……あ……乗って、る……?」

「きゅ」

魔力視に映るシルフィの光は、穏やかな翠色だ。

——認めた、ということだろう。

「大丈夫ですよ。噛みません」

「か、噛まないことは……わかるんですけど……!」

ミリアが泣き笑いの顔で固まっている。

ガルドが戸口で腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。

「賑やかになったな」

「そうですね」

トーコは次の患者のカルテを手に取った。

治療院に、新しい声が加わった朝だった。