軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

01.

祝宴の光が、広間を金色に染めていた。

シャンデリアの魔石が煌々と輝き、招待客たちの笑い声が天井高く舞い上がる。テーブルには色とりどりの料理が並び、楽団の奏でる弦楽が空気を甘く揺らしていた。

ハルト家の次女、シィナの成人の儀。その手に輝く金紋は、見る者すべての目を奪った。

「なんと美しい【聖女紋】だ」

職業(ジョブ) 紋。紋章ともいう。

それは、一五歳の成人の儀式を迎えたとき、神より授かる聖なる紋章。

その紋章に刻まれた性質の力を、天の神から与えられる。剣士紋を授かれば、一夜にして天才剣士に。

魔法使い紋なら、修練を積まずとも多彩な魔法が扱えるようになる。

紋章には金、銀、銅の三つのクラスが存在する。聖女紋のランクは金。すなわち、最上位の紋章といえた。

シィナは世界最高レベルの治癒魔法が、使えるようになったというわけである。

「さすがハルト家の血筋。将来は王宮付きの治癒師も夢ではありませんな」

賛辞が波のように押し寄せる中、トーコは広間の端に立っていた。

招待客の誰も、彼女に話しかけなかった。

それでいい、とトーコは思っている。祝宴の喧騒も、注がれるシャンパンの泡も、自分には関係のない世界の出来事だ。

外套の内側で、小さな温もりがもぞりと動いた。

魔力視を緩く開くと、淡い翠色の光が揺れている。シルフィの魔力だ。不満でも退屈でもなく、ただ静かに、トーコに寄り添っている。

(慰めてくれるのね、シルフィ。いつもありがとう)

言葉にはしない。ただそう思いながら、外套の上から軽く手を当てた。翠の光が、ほんの少し明るくなった。

そのとき、父の侍従が静かに近づいてきた。

「トーコお嬢様。旦那様がお呼びです」

書斎の扉が閉まると、室内の空気が変わった。

暖炉の火だけが揺れる薄暗い部屋に、父とトーコ、そして婚約者のセドリック侯爵子息が揃っていた。

父は机の前に立ち、トーコを見た。その目に、かつてあった期待の色はもうない。

「単刀直入に言う」

低い声だった。

「シィナが正式にハルト家の後継者となった。お前には、今日限りでハルトの名を返上してもらう」

トーコは答えなかった。

セドリックが、居心地悪そうに咳払いをした。

「トーコ嬢……その、私からも申し上げなければなりません。婚約の件ですが、白紙に戻させていただきたく」

「わかりました」

即答だった。

父が僅かに眉を上げる。懇願されると思っていたのかもしれない。あるいは、泣き崩れるか。

どちらも、するつもりはなかった。

(ああ、やっと終わった)

トーコの胸の中で、静かに何かが解けていく。

この身体に生まれた時から、トーコには前世の記憶がある。遠い異国、日本という国で外科医として生き、過労で倒れ、気がつけばこの世界に産声を上げていた。

魔力はゼロだった。職業紋も出なかった。

それだけで、すべてが決まった。

名門治癒師の家に生まれながら、魔力も紋章も持たぬ子として。五歳の魔力測定の日から、父の目が変わった。以来十二年、補助係として、記録係として、日陰の場所で働き続けた。

その時間は無駄ではなかった。前世の知識と、この世界で積み上げた経験が、今のトーコを作っている。

「荷物は、もうまとめてあります」

父が何か言う前に、トーコは一礼して書斎を出た。

屋敷の正門を抜けると、夜風が頬を撫でた。

トーコは振り返らなかった。

外套の内側でシルフィが小さく羽ばたく。魔力視に、静かな翠の光。

——行こう、と言っている気がした。

「ええ」

トーコは前を向いて、歩き出した。

王都の冒険者ギルドは、朝から騒がしかった。

受付カウンターに並ぶ冒険者たちは皆、腕に鮮やかな職業紋を輝かせている。剣士紋、弓兵紋、魔導士紋。それぞれが自らの力の証だ。

「次の方どうぞ」

受付の女性は愛想よく顔を上げ、そしてトーコの手元を見て、表情が微妙に曇った。

無紋。

その一点で相手の評価が変わる瞬間を、トーコは何百回と経験してきた。もう慣れた。

「登録をお願いします。医療補助として活動したいので」

「……医療補助、ですか」

「縫合、投薬、外傷処置ができます」

受付が何か言いかけたとき、トーコは掲示板に目を向けた。

一枚の依頼書が、端の方に貼られている。

——【長期依頼】辺境・デッドエンドにおける医療補助。治癒師不在につき、外傷処置・投薬ができる者を求む。報酬応相談。——

「これを受けます」

受付が目を丸くした。

「あの、デッドエンドは……治癒師がどなたも赴任を拒否されている場所で。魔物の出現頻度も高く、外傷患者が絶えない辺境です。それを、お一人で……」

「一人ではありません」

トーコは外套の内側に手を当てた。シルフィの魔力が、穏やかに応える。

「行き先は決まりました」

治癒師が来ない街。魔法に頼れない場所。それはつまり、自分の技術が最も必要とされる場所だ。

デッドエンドは、名前ほど終わった街ではなかった。

鉱山を抱える辺境の街は活気があり、朝から鉱夫たちの声が飛び交っている。ただ、よく見れば、曲がった指で荷を担ぐ男がいた。引きずるような歩き方の女がいた。

トーコの目に、歪んだ魔力の残滓が滲んで見える。

トーコは生まれつき魔力が無い代わりに、不思議な体質を持っていた。

それは、他者に流れる魔力を、見ることができるという能力。魔法がない代わりに、天が与えてくれたギフトともいえる。

トーコの魔力ゼロの目は、見えていた。

治癒魔法をかけた跡だ。しかし、治っていない。

根治ではなく、表面だけを塞いだ処置。魔力で強引に組織を再生させた結果、内部の構造が歪んだまま癒着している。慢性的な後遺症が、この街のそこかしこに積み重なっていた。

この世界には、たしかに、魔法、あるいは 魔法薬(ポーション) で治療を行うことができる。でもそれは、現代医療と比べると、はっきり言って雑の一言である。大雑把すぎるのだ。

医療とは、その個人の体質や持病、そして何よりその人個人のケガ病気の状況に応じて、適切な選択肢をとらねばならぬというのに。

神の奇跡である治癒魔法は、ただ傷を塞ぐ、病を止めるだけ。その他のことなんてまったく気を遣わないのである。

(やることが、山積みね)

宿を探して石畳を歩いているそのときだった。

街の中心部が急に騒がしくなった。

人が集まり、緊張した声が飛び交う。馬の嘶きと、金属音。

トーコは人垣を掻き分けた。

広場に、男が横たわっていた。

鎧を纏った大柄な男だ。右肩から腹部にかけて、深い裂傷が走っている。魔物の爪によるものだろう、鎧ごと引き裂かれていた。

随行の兵士たちが青ざめた顔で取り囲む中、一人の治癒師が男の胸に両手を押し当て、懸命に魔力を注いでいた。術者の額に脂汗が滲んでいる。

「止まらない……! なぜ止まらないんですか……!」

治癒師の声が震えていた。魔力切れが近い。

トーコは男を見た。

魔力視が、鮮明に告げる。表層の傷は塞がりかけている。しかし深部、腹腔の内側で出血が続いていた。治癒魔法の光は、皮膚と筋層の表面で止まっている。神の奇跡は、届くべき場所に届いていなかった。

治癒魔法の欠点。使い手の【魔法使いとしての練度】が、そのまま治癒の精度に直結するということ。

そして治癒魔法使いは、治癒の魔法が使えるものであり、【人体構造】や治療知識があるわけでもない。

ようは、(治癒)魔法のプロであっても、体を治す知識を持ったスペシャリストではないのである。

だから、治癒魔法が通じない時点で、もう手詰まりになってしまうのだ。

このまま時間が経てば、失血で命が尽きる。

「どきなさい」

低く、しかし静かな声だった。

周囲が振り返る。無紋の、若い女が立っている。

「何者だ」

兵士の一人が手を伸ばしかけた。

「医師です」

トーコは兵士の手をかわし、男の傍に膝をついた。荷袋を開き、器具を並べ始める。

シルフィが静かにトーコの肩から飛び立った。

小さな翼が広がると、見えない風が渦を巻いた。清潔で、塵一つ混じらない空気の膜が、音もなく周囲を包んでいく。

風の神獣であるシルフィの作った、無菌結界である。

兵士の一人が囁いた。

「……あの方が誰かご存知か」

「辺境伯だ」 別の兵士の声が掠れていた。「ライナルト辺境伯閣下だ……」

場の空気が、さらに緊張した。

しかしトーコの手は止まらなかった。患者は患者だ。地位も紋章も、今この瞬間には関係がない。

「内部に出血箇所が二つあります。治癒魔法は届いていません」

トーコは傷口を確認しながら、落ち着いた声で周囲に告げた。

「これから縫合します」

「……縫合?」

兵士の一人が、聞き慣れない言葉を繰り返した。

「傷を、糸で縫い合わせます。直接、出血を止める処置です」

静寂が落ちた。

糸で、縫い合わせる。

その言葉の意味を、その場の誰もがすぐには理解できなかった。治癒魔法とは神の奇跡だ。術者が魔力を注げば、傷は塞がる。組織が再生する。それがこの世界の医療の全てだった。

傷に糸を通すなどという発想は、誰の頭にも存在していなかった。

「……人体に、糸を」

老兵が呻くように言った。

「そんなことをすれば、傷が広がるだけではないか」

「広がりません」

トーコは細い針を取り出した。前世から持ち越した技術の結晶、この世界では存在しないはずの医療器具だ。

「正確に縫えば、出血は止まります。感染を防ぐ処置も同時に行います」

治癒師が、震える声を上げた。

「そのような荒唐無稽な……! 魔力もない者が、閣下に刃物を……!」

「あなたの魔力は、もう残っていません」

トーコは顔を上げずに言った。

「魔力切れのまま術を続ければ、術者が倒れます。そうなれば、表層の処置も崩れる。内部出血は続いている。時間がありません」

誰も、反論できなかった。

治癒師が、ゆっくりと後ろに退いた。

トーコは針を持った。

(始めます)

その場の誰もが、息を止めて見ていた。

針が、傷口に入る。

悲鳴を上げた者がいた。目を背けた者もいた。しかしトーコの手は一切ぶれなかった。前世で数え切れないほど繰り返してきた動作が、指の記憶に刻まれている。

一針、また一針。

糸が傷を引き寄せ、断裂した組織が正確な位置に戻っていく。出血が、目に見えて減っていく。

老兵が、呻いた。

「……塞がっていく」

「魔法を使っていないのに」

「傷が、閉じている……」

ざわめきが広がる。しかし誰も、邪魔をしなかった。邪魔をしてはいけないと、本能的に理解していた。

処置が終わったのは、日が傾きかけた頃だった。

トーコが立ち上がり、器具を布で拭う。

「出血は止まりました。縫合部位の感染に注意してください。経過が順調なら、七日で動けます」

静寂の中に、その言葉が落ちた。

兵士の一人が、喉を鳴らした。

「……本当に、治るのか」

「治ります」

断言だった。

ライナルト辺境伯が目を開けたのは、翌朝のことだった。

宿の一室、清潔な寝台の上。傍らに椅子を引いて、トーコが 記録(カルテ) を書いていた。

男が身じろぎする気配に、トーコは顔を上げた。

「目が覚めましたか。痛みはありますか」

ライナルトは天井を見つめ、それからゆっくりとトーコに視線を移した。

整った顔立ちをした男だった。銀がかった黒髪に、深い色の瞳。鎧を脱いだ今も、その身体には戦場を生き抜いた者の静けさが漂っている。

「……お前が、治したのか」

「はい」

ライナルトは気づく。治癒魔法の残滓が存在していないことに。信じられないと思いつつも、彼女に尋ねた。

「魔法を使わずに」

「使えませんので」

トーコは淡々と答えた。

ライナルトは暫く彼女を見ていた。それから、静かに手を伸ばした。

トーコの手に、大きな手が重なる。

「命を拾ってもらった」

低く、穏やかな声だった。

「名を聞かせてくれ」

「トーコと申します。冒険者登録をしたばかりの、医師です」

ライナルトが僅かに目を細めた。

「トーコ」

ただそれだけを、もう一度繰り返した。

「覚えた。ありがとう」

「この街での活動を許可する。必要なものがあれば申し出るといい」

快復の兆しを見せたライナルトはそう言った。

辺境伯のお墨付きは絶大だった。昨日まで訝しげな目を向けていた街の人間が、一夜にして態度を変えた。

トーコは街外れの廃屋を借り、治療院の設営を始めた。

埃を払い、棚を作り、器具を並べていると、戸口に白髪の老人が現れた。

「あんたが、辺境伯を治したという医師か」

「そうです」

「……ガルドという。薬師をやっている」

老人は腕を組み、トーコの並べる器具を眺めた。

「見たことのない道具ばかりだ」

「見たことがない治療をするので」

ガルドは暫く黙って、それからふんと鼻を鳴らした。

「薬草の調達なら、俺の方が詳しい。邪魔にならんなら手を貸してやる」

「助かります」

こうして、治療院は静かに産声を上げた。

噂はすぐに広まった。

辺境伯を救った無紋の医師。魔法なしで治す、見たことのない手術。

後遺症を抱えた鉱夫が来た。治癒魔法で塞いだはずの傷が膿んでいる漁師が来た。何年も痛みを抱えたまま働き続けてきた人々が、おずおずと戸を叩いた。

トーコは一人ひとりを診た。

魔力視で状態を把握し、前世の知識と現地の素材を掛け合わせて処置する。シルフィが結界を張り、ガルドが薬草を調合する。

小さな治療院が、少しずつ街に根を張っていった。

ある昼下がり、見慣れない馬車が治療院の前に止まった。

見慣れない馬車が治療院の前に止まった。

紋章を見て、ガルドが小声で言った。

「……ヴェルナー侯爵家だ。王都でも指折りの大貴族だぞ」

降りてきた初老の男は、明らかに場慣れしていない様子で周囲を見渡した。辺境の治療院など、これまでの人生で足を踏み入れたことがないのだろう。

「トーコ先生とおっしゃる方はおられますか」

男の声には、焦りが滲んでいた。

「デッドエンドに腕の立つ医師がいると聞きまして。娘が……娘が、どうしても」

馬車の中に、若い女性が横たわっていた。

トーコは無言で近づき、魔力視を開いた。

腹腔の深部に、濁った赤の塊。慢性的な出血と、それを無理に塞いだ治癒魔法の歪みが幾重にも重なっている。

「いつからですか」

「半年ほど前から体調を崩しまして。王都の治癒師に診ていただいたのですが……ハルト家の先生にも、最終的には匙を投げられてしまいました」

トーコは娘の腹部にそっと手を当てた。

「手術になります。今すぐ」

「手術……?」

「時間がありません。中に運んでください」

処置が終わったのは、二刻ほど後のことだった。

侯爵は待合の椅子に座ったまま、ずっと祈り続けていた。

扉が開き、トーコが出てきた。

「終わりました。出血は止まっています。安静にしていれば、一月後には普通に動けます」

侯爵が立ち上がり、そのまま膝をついた。

「……ありがとうございます。ありがとうございます……!」

老いた大貴族が、辺境の治療院の床に額をつけている。

トーコは静かにそれを見た。

「お大事にしてください」

侯爵は顔を上げ、目元を拭いながら言った。

「ハルト家にもお願いしたのですが、あちらは……最近、どうも様子が違いまして。以前は王都一と言われた治癒師の名家だったのに、優秀な方々が次々と離れていくようで」

「そうですか」

「腕のある方がいなくなると、こうも違うものかと……先生のような方が、もし王都にいてくださったなら」

「私はデッドエンドの医師です」

トーコは穏やかに、しかし迷いなく言った。

「ここに、私を必要としている患者がいます」

侯爵が、深く頭を下げた。

シルフィがトーコの肩に戻り、小さく翼を畳んだ。

魔力視に、穏やかな翠の光。

——よくやった、と言っている気がした。

「仕事をしただけよ」

トーコは小さく呟き、次の患者のカルテを手に取った。