軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

14.

セラが週に三度来るようになって、ひと月が経った。

最初は軽傷者の対応だけだったが、今では問診を一人でこなし、記録をつけ、処方薬の受け渡しまでやっている。ノートには細かい字で、トーコが説明したことが全部書いてあった。

今日は後輩を連れてきた。

「ここを見せたくて……トーコ先生。ダメでしたか」

「構いません」

後輩は十六か七くらいだろうか。銀の治癒師紋が手の甲に見えている。丸い頬で、緊張した様子でトーコを見ていた。

「ミラといいます。よろしくお願いします」

「トーコです。はじめまして」

トーコは診察室に二人を通した。

午前の診察が始まると、ミラはセラの隣に立ち、全てを目で追っていた。

血液検査の手順。魔力視での確認。問診の取り方。説明の仕方。

患者が帰るたびに、小声でセラに聞いていた。

「なんで血を調べるんですか」「あの色の違いは何を意味しているんですか」「先生は今、何を見ていたんですか」

セラが丁寧に答えていた。三ヶ月前の自分が言われたことを、今度は自分が説明している。

ミリアがお茶を持ってきながら、トーコに小声で言った。

「なんか、増えましたね」

「そうですね」

「先生、嬉しそう」

「そんなことはありません」

「目が少し、柔らかいですよ」

トーコは答えなかった。

昼前、見慣れない夫婦が来た。

三十代の男と、大きなお腹を抱えた女性だ。女性は体格がよく、顔色もいい。初産ではなさそうだ。

「先生に診てほしくて。前の二人は治癒魔法で産んだんですが、今回はどうも様子が違くて」

「いつ頃から」

「三月ほど前から、動きがおかしいというか」

トーコは女性に診察台に横になってもらい、魔力視を開いた。

腹部の奥、胎児の位置を確認する。

彼女は他者の魔力が見える。体内には別の人間、すなわち赤子の魔力を見るのだ。

——逆子だ。

頭が上にある。このままでは産道に足が先に来る。正常分娩では、まず出てこない。無理に引き出そうとすれば、母子どちらかに重篤な損傷が出る。

「帝王切開が必要です」

夫の顔が変わった。

「……なんですか、それは」

「お腹を切って、赤ちゃんを取り出す処置です。赤ちゃんの向きが逆になっていて、このままでは産道から出てこられません」

女性が、夫の手を握った。

「お腹を……切る」

「はい。適切に処置すれば、お二人とも助かります」

夫が立ち上がった。

「そんなことをして、妻が死んだらどうするんだ」

「死なせません」

「保証できるのか」

「全力を尽くします。腹を切る処置は、私が前世で何度もやってきました。安全に行えます」

「前世……?」

「私には、別の世界での記憶があります。その世界では、この処置で何千何万という命が助かっています」

夫の目に、不信の色が濃くなった。

「つまり、魔法でもないし、神の奇跡でもない。ただの……刃物で腹を切ると、そういうことか」

「そうです」

「そんなものを、妻に受けさせられない!」

「しかしこのままでは」

「聖女様に診てもらう。神の奇跡なら、赤ちゃんの向きだって直せるはずだ」

女性が、少し不安そうにトーコを見た。

「……先生、向きは、魔法では直せないんですか」

「向きを無理に変えようとすれば、へその緒が絡まる危険があります。今の時期では、難しい」

「先生。あんた、妻も子供も殺す気でしょう」

夫が低く言った。

「名前も知れない、紋もない女が、妻の腹に刃物を入れる。そんなことを許すわけがない」

「……そのような意図はありません」

「もういい。行くぞ!」

女性が夫に促されながら、立ち上がった。出ていく前に、一度だけトーコを振り返った。

その目に、何かが揺れていた。

扉が閉まった。

ミラが、固まっていた。

セラが、唇を噛んでいた。

トーコは静かに、カルテに記録をつけた。

「……先生、いいんですか」

ミラが、小さな声で言った。

「仕方ありません」

「でも、赤ちゃんが」

「信じてもらえなければ、処置できません」

トーコはカルテを閉じた。

「信じてもらえるまで、言葉を尽くすしかない。それでも聞いてもらえなければ、待つしかない」

「待つって……」

「来てくれれば、やります」

ミリアが「先生」と小声で言った。

「何ですか」

「……何でもないです」

午後の診察が始まった。

夜が深くなった。

セラとミラは帰っていた。ガルドも戻った。

ミリアだけが、治療院に残っていた。

トーコが「帰っていいですよ」と言っても、「もう少し記録の整理をします」と言って動かなかった。

トーコは奥の部屋で、道具の準備をしていた。

縫合針、縫合糸、麻酔薬、消毒薬。帝王切開に必要なものを、一つずつ確認しながら並べていく。

使わなければ、それでいい。

しかし使う必要が出たとき、間に合わなければいけない。

シルフィが傍で、じっとしていた。

魔力視に映るのは、静かな翠の光だ。

——待っている、という色だった。

深夜を過ぎた頃、戸を叩く音がした。

あの夫だった。顔が、昼間とは別人のように青ざめていた。

「妻が……陣痛が始まって、でも赤ちゃんが出てこなくて……協会の聖女様に診ていただいたんですが、魔法をかけても向きが変わらなくて、もう……」

声が震えていた。

「妻を、助けてください!」

トーコは道具箱を手に取った。

「わかりました。案内してください」

女性は宿の一室に横たわっていた。

陣痛が来るたびに、体が強張る。顔に脂汗が滲んでいる。しかし赤ちゃんは出てこない。足が先に来て、産道で詰まっている。

トーコが魔力視で確認した。

母体の消耗が始まっていた。時間がない。

「これから処置します。麻酔をかけます。眠っている間に終わります」

女性が、荒い息の合間に言った。

「……先生、お願いします」

夫が、壁際で立っていた。何も言わなかった。

シルフィが部屋に結界を張った。

ミリアが助手に入る。道具を並べ、麻酔薬を準備する。

女性が眠りに落ちた。

トーコは器具を取った。

迷わなかった。

処置が終わったのは、それから一刻後だった。

赤ちゃんの産声が、部屋に響いた。

夫が、崩れるように膝をついた。

「……泣いた。泣いてる」

「元気な男の子です」

トーコが赤ちゃんを夫の腕に渡した。小さな顔が、しわしわで赤い。

「妻は?」

「処置は無事終わりました。しばらく安静が必要ですが、動けます」

夫が、赤ちゃんを抱いたまま、頭を下げた。

「昼間は……失礼なことを言いました」

「構いません」

「構わないはずがない。私が、私のせいで……妻が死んでいたかもしれない」

「無事でしたから、いいんです」

夫が、涙をこぼしながら赤ちゃんを見ていた。

ミリアが、こっそり目元を押さえていた。

治療院に戻ったのは、夜明け前だった。

道具を洗い、器具を片付ける。

しばらくして、セラが来た。いつもの時間より早い。

「先生、顔色が……昨夜は」

「少し仕事がありました」

「昨日の妊婦さんですか」

トーコが頷くと、セラが息を呑んだ。

「無事でしたか」

「無事でした。元気な男の子でした」

セラが、胸に手を当てた。

そこにミラが飛び込んできた。

「先生、昨夜の方が……! 無事だったって聞いて……!」

「よく聞きましたね」

「宿場の人が話していて……先生が夜通し待機していたって、ミリアさんが言っていました」

ミリアが「あ」と言った。

「トーコ様……バラしてしまいました」

「別にいいです」

ミラが、まっすぐトーコを見た。

「先生は……来るとわかっていたんですか。だから待っていたんですか」

「来るかもしれないと思っていました」

「信じていたんですか、あの旦那さんを」

「妻のことを思っているのは、わかりました。時間が経てば、来ると思いました」

ミラが黙った。

しばらくして、ゆっくりと言った。

「私も……先生みたいな医師になりたいです」

トーコは少し、ミラを見た。

「なれます」

「……本当ですか」

「あなたには、ちゃんと患者を見る目があります。今日も、ずっと見ていた」

ミラが、目を赤くした。

セラがその隣で、ふわりと笑った。

ミリアが「また増えた」と小声で言った。

ガルドが戸口で腕を組み、ぼそりと言った。

「賑やかになったな」

「そうですね」

シルフィが「きゅ」と鳴いた。

魔力視に映るのは、満ち足りた翠の光だ。

——この治療院に、また一人、根付いていく。そんな気がした。

朝の光が、デッドエンドの石畳に伸びていた。