作品タイトル不明
第39話 スタンピードの元凶を……食べる?
空中に紫色の転移ゲートが開き、エミリア、ユジン、籐子、クロエ、ハナが次々と最深部のキャンプサイトに降り立った。
地上で発生した大規模なスタンピードの防衛戦。彼女たちの装備には無数の傷や魔物の返り血がこびりついており、激戦の疲労が色濃く滲んでいる。しかし、その表情はどこか晴れやかだった。
「お疲れさん。地上の状況はどうだった?」
かまどの前で夕食の仕込みをしていた俺が声をかけると、エミリアが剣を鞘に収め、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「なんとか鎮圧できました。スタンピードの群れは完全に散らして、防衛ラインも維持しています」
「……でも、妙だったわね。群れを統率しているはずのボス格の気配が、途中からフッと消えたのよ。おかげで残党の処理は楽だったけど」
ユジンが首を傾げながら、短剣の血振りをしている。
その時、森の奥からズリ、ズリッという重々しい摩擦音が近づいてきた。
「……ただいま。ヒロト、お土産」
木々の隙間から姿を現したのは、しんがりを務めていたはずの久美子だった。普段からルーズなパーカーの袖を余らせている華奢な彼女が、自分自身の体積の10倍はあろうかという巨大な肉のブロックを、太い蔓で縛って片手で引きずりながら歩いてきた。
ズスンとそれを地面に下ろすと、周囲の空気が微かにビリッと張り詰めるのを感じた。
深紅の赤身に、大理石の彫刻のように美しい純白のサシが細かく入っている。
キャンピングチェアで作業をしていた籐子が手元の計測器を向け、作業用ゴーグル越しに目を見開いた。
「ちょっと、これ……第59階層にしか生息記録がない、アビス・ベヒーモスの魔力波長じゃない! まさか、あんたが?」
「……うん。地上の群れを操ってた元凶、こいつだったみたい。第59階層の隠しエリアで指示出しの隙を見せたから、後ろから頸椎に短剣をスッと。……一瞬だったから、痛くなかったと思う」
久美子は小さな欠伸をしながら平坦な声で言った。
「それに、ギルドの古文書で『肉が超美味い』って読んだ記憶があったから。……ヒロトに焼いてほしくて」
疲労困憊のはずの防衛戦のさなか、元凶を突き止めるだけでなく、ちゃっかり極上の食材として持ち帰ってくる。彼女のブレない姿勢に、ハナが呆れたようにため息をつきつつも、その口角はわずかに上がっていた。
俺はしゃがみ込み、その肉の断面をまじまじと観察した。
「こいつはすげえな。指で触れただけで、俺の体温で脂が溶け出してる。赤身の繊維もきめ細かくて、これほど見事な肉は地上の高級和牛でもお目にかかれないぞ」
「本当? 美味しくなる?」
久美子がわずかに瞳を輝かせる。
「ああ。だが、このレベルの肉は下処理で味が決まる。少し硬い筋があるから丁寧に取り除いて、マリネ液に漬け込んで肉を柔らかくする必要があるな」
俺は即座に包丁を取り出し、巨大なブロック肉の解体に取り掛かった。
刃を入れると、吸い付くような弾力と共に濃厚な脂の香りが立ち上る。赤ワイン、すりおろした玉ねぎとニンニク、そして少量の蜂蜜を合わせたマリネ液を大きなボウルに作り、極厚に切り分けた肉を次々と沈めていく。玉ねぎの酵素が肉のタンパク質を分解し、信じられないほど柔らかく仕上げてくれるのだ。
「よし。肉の旨味を最大限に引き出すために、このまま3時間ほど漬け込む。夕飯には幻のステーキが食えるぞ」
俺が手を洗いながら宣言すると、足元で伏せていたハクが「ワフッ!」と歓喜の声を上げて尻尾を振った。
「あの、おじさん!」
背後から少し上擦った声がして振り返ると、そこにはエミリアが立っていた。泥だらけだった軽装鎧をすでに脱ぎ、ゆったりとした白いブラウスに淡いブルーのロングスカートという、年相応の綺麗な装いに着替えている。クロエのテントでシャワーを借りて、洗練された衣服を見立ててもらったのだろう。
「お肉が仕上がるまで、3時間ありますよね。なら……私と、少しお出かけしませんか。その……お散歩、です!」
少し頬を染めながら、エミリアは両手を前でぎゅっと握りしめている。
周囲で籐子やユジンがニヤニヤと笑い合う気配を感じたが、俺はエミリアの誘いに頷いた。
「そうだな。ずっと火の前にいるのもなんだし、少し歩くか」
エミリアと並んで、最深部の森を15分ほど歩いた。
やがて木々が途切れ、目の前にドーム状の開けた空間が現れる。岩肌一面に、淡く発光する青や紫のアビス・クォーツが群生しており、まるで満天の星空を閉じ込めたような幻想的な光景が広がっていた。天井の隙間から差し込む光が水晶に反射し、空間全体がきらめいている。
「先日、食材を探していた時に見つけたんです。すごく綺麗だから、おじさんと一緒に見たくて」
エミリアが少し誇らしげに微笑み、手頃な平たい岩の上に腰を下ろした。俺もその隣に適度な距離を空けて座る。
澄んだ冷たい空気が流れ、水晶の青い光がエミリアの横顔を美しく照らしていた。
「……さっきの防衛戦、結構きつかったんです」
しばらくの沈黙の後、エミリアが膝を抱えながらポツリと口を開いた。
「数が多くて、氷の魔法を連発して。昔だったら、あんな風に激戦を終えた後は、ただただ疲れて、泥みたいにベッドに倒れ込むだけだったのに」
エミリアはそこで少し言葉を切り、恥ずかしそうに視線を落とした。
「今は……戦いながら、『帰ったら何が食べられるんだろう』って、そればっかり考えちゃって。なんだか、自分がすごく食い意地張ってるみたいで、恥ずかしいです」
彼女の等身大の告白に、俺は思わず小さく吹き出してしまった。
「笑うことないじゃないですか!」
「悪い悪い。でも、健全でいいことじゃないか。腹を空かせて帰ってくる場所があるってのは、戦う理由としては悪くないだろ」
俺は水晶の光を眺めながら、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「俺だって、ただ自分のために飯を作るより、誰かが美味そうに食べてくれる方が張り合いがあるからな。だから、食い意地を張るのは大いに結構だ。……ただ、怪我だけは気をつけてくれよ。怪我してちゃ、飯の味も落ちるからな」
「……はいっ」
エミリアは顔を上げ、パッと花が咲いたような笑顔を見せた。
トップ探索者の彼女と、しがない荷物持ちだった俺。本来なら交わるはずのなかった俺たちが、こうして肩を並べて同じ景色を見ている時間は、決して悪いものではなかった。
キャンプサイトに戻ると、マリネ液に漬け込んでいたアビス・ベヒーモスの肉は完璧な状態に仕上がっていた。
赤ワインと玉ねぎの酵素が肉の繊維を優しくほぐし、深紅の肉はさらに艶やかな色合いに変化している。
「よし、焼くぞ」
俺は極厚の鉄板をかまどに乗せ、『極・生活魔法』で温度を均一に上昇させる。
切り取っておいた上質な牛脂を引き、十分に熱せられた鉄板の上に、厚さ5センチはある巨大なステーキ肉を並べた。
ジュワァァァァッ!!
凄まじい肉の焼ける音と共に、芳醇な香りが爆発的に広がった。野性味の中にどこか澄んだ甘さを感じる、未知の脂の匂いだ。
表面にこんがりと香ばしい焼き目をつける。そこから生活魔法の干渉領域を展開し、内部にじっくりと熱を浸透させていく。肉の旨味を完全に閉じ込め、中心部は美しいロゼ色のレアに仕上げるのだ。
焼き上がった肉を木のボードに移し、アルミホイルを被せて数分間休ませる。その間に、肉汁が残った鉄板にすりおろした玉ねぎ、ニンニク、醤油、赤ワイン、そしてエシレバターを投入し、一気に煮詰めて特製のシャリアピンソースを完成させた。
「幻のステーキだ。冷めないうちに食え」
切り分けた肉にたっぷりのソースをかけ、木皿に乗せて差し出す。
エミリアがフォークに分厚い肉を刺し、大きく口を開けて頬張った。
噛み締めた瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。肉の脂が舌の上で溶け、圧倒的な赤身の旨味が押し寄せる。特製ソースの甘みと酸味が脂のくどさを消し去り、肉本来の味を極限まで引き立てていた。
エミリアは言葉を発することもなく、ただただ感極まったようにポロポロと涙をこぼし、震える手で無心に次の肉を口へと運んでいる。
その隣では、普段は小食なはずの久美子とユジンが、信じられない速度で肉を切り分け、皿の上の陣地を奪い合うようにしてフォークを交錯させていた。
「ちょっと久美子、それ私の分!」
「……早い者勝ち。この端っこの脂、最高」
クロエはエレガントな所作を保とうと努力してはいたが、結局は我慢しきれずに赤ワインのグラスとフォークを交互に持ち、頬を赤らめながら夢中で咀嚼している。ハナも眼鏡を曇らせながら、ただひたすらに胃袋へ肉を流し込んでいた。
足元では、ハクが自分用の木桶に入った数キロの肉に顔を突っ込み、バクバクと凄まじい勢いで平らげ、空になった器を鼻先で小突いておかわりを要求してきている。
岩の上に立てかけた端末の画面では、同接数が200万を超え、視聴者たちのコメントが滝のように流れ続けていた。
俺はそんな賑やかな光景を横目に、自分のステーキを切り分けて口に運んだ。
噛むたびに溢れる旨味が、一日の疲労をじんわりと溶かしていく。
焚き火の炎がパチパチと爆ぜる音が、涼しい夜風の音と混ざり合う。エミリアが涙目を拭いながら「おかわりありますか?」と空の皿を差し出してくるのに苦笑しながら、俺は次の肉を焼くために再び鉄板へと向き直った。