軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第38話 ヒロトのキャンプ、絶対防衛圏

ズズズンッ、と。深淵の迷宮の最深部を、重く、腹の底を揺らすような地鳴りが突き抜けた。

はるか上空の岩盤に張り巡らされた疑似太陽の光が微かに瞬き、青白い発光苔が群生する静かな湖畔の空気が、ビリッと張り詰める。

キャンピングチェアで愛用の大剣の手入れをしていたエミリアが、弾かれたように立ち上がった。少し離れた場所で魔道具のメンテナンスをしていた籐子も、作業用ゴーグルを額に押し上げ、空を睨みつける。

「……上の階層から、信じられない質量の魔力が押し寄せてきてるわ。スタンピードの余波が、物理的な重圧になってこの最深部まで干渉してきてるのね」

籐子が手元の計測器の針が振り切れているのを見つめ、忌々しげに舌打ちをした。

その言葉を裏付けるように、分厚い岩盤の天井のあちこちに、稲妻のような黒い亀裂が走り始めた。ミシミシという岩が悲鳴を上げる音が響き、パラパラと小石や土砂が湖面に向かって降り注いでくる。

「チーフ! ゲートの開通はまだなの!?」

ユジンが両手に短剣を構え、背後で通信端末を操作しているハナに鋭い声を飛ばす。

「あと数分! 空間座標の乱れが酷すぎて、地上への安全な転移路を固定するのに手間取ってるわ!」

ハナは額に冷や汗をにじませながら、キーボードを叩く指の速度を限界まで引き上げている。

次の瞬間だった。

凄まじい轟音と共に、上空の岩盤の一部が大きく崩落した。

開いた巨大な大穴から、濁流のように魔物の群れが降り注いできたのだ。

丸太のように太い四本の腕を持つ猿型の魔獣、全身が鋭い鉄の棘に覆われた大蛇、毒々しい紫色の体液を口元から滴らせる大蜘蛛。いずれも上層や中層に生息しているはずの魔物たちだが、スタンピードの異常な魔力流によって空間の座標が歪み、あろうことか最深部の天井に直接繋がる裂け目からなだれ込んできたらしい。落下した大蜘蛛の体液が地面の岩をジュウジュウと溶かす異臭が周囲に立ち込める。

「くっ……! ゲートが開くまで、ここを死守します!」

エミリアが地を蹴り、落下してくる魔物の群れに向かって跳躍した。

空中で魔剣を水平に薙ぎ払う。振り抜かれた剣身から絶対零度の冷気が爆発的に広がり、落下中の魔物たちの群れを一瞬にして巨大な氷の塊へと変えた。凍りついた魔物たちが地面に激突し、粉々に砕け散る。

だが、裂け目からは次から次へと新たな魔物が降り注ぎ、湖畔の平地を黒い波のように埋め尽くそうとしていた。

「数が多すぎるわよ! 物理法則を無視して湧いてきてるじゃない!」

ユジンが舌打ちをし、黒い残像を残すほどの超高速で戦場を駆け抜ける。エミリアの氷結を免れて着地した魔物たちの死角へ音もなく潜り込み、両手の短剣で首筋や心臓などの急所を次々と正確に切り裂いていく。エミリアが広範囲を氷魔法で面制圧し、ユジンが漏れた魔物を的確に処理する。最高峰の探索者二人の流れるような連携が、キャンプサイトへの侵入を前線でギリギリ食い止めていた。

「わたくしのキャンプサイトに土足で踏み入るなど、万死に値しますわ! 全軍、迎撃なさい!」

豪華な特大テントの前で、クロエが扇子を振り下ろして怒りの号令をかけた。

彼女の背後に控えていた二頭の純白の霊獣が咆哮を上げ、魔物の群れへと猛然と突進する。巨大な爪が一撃で猿型魔獣の身体を引き裂き、口から放たれる凍てつく吹雪が蛇たちを吹き飛ばしていく。さらに、完全武装した私兵たちが一糸乱れぬ陣形を組み、魔力銃と長槍で分厚い防衛ラインを構築した。銃口から放たれる魔弾が弾幕となって降り注ぐ魔物を撃ち落とし、突破しようとする個体は幾重にも突き出された槍衾が貫く。

「ふふん、私の出番ね。この間の『アビス・クォーツ』を組み込んだ自動迎撃システム、ここでテストさせてもらうわよ!」

籐子が白衣を翻し、小さなリモコンのスイッチを押し込んだ。

キャンプを囲むように配置されていた無数の金属杭が一斉に起動音を鳴らし、先端のクリスタルからまばゆい紫色の光線が網の目のように上空へ向かって発射される。センサーが敵対的な魔力波長のみを自動で感知し、空から降ってくる魔物の眉間や急所を、レーザーのような精度で容赦なく撃ち抜いていく。

激しい爆音、閃光、そして魔物たちの断末魔の叫び。

静かだった最深部の湖畔は、瞬く間に凄惨な激戦地帯へと変貌していた。

だが、その戦場の中央。

石造りのかまどを中心とした半径数メートルの空間だけは、周囲の喧騒が嘘のように穏やかな空気が流れていた。

エミリアたちやクロエの私兵、そして魔道具が生み出す圧倒的な弾幕が防壁となっているおかげで、魔物の死骸も、飛び散る体液も、舞い上がる土埃すら、俺の座るキャンピングチェアの周囲には一切届かない。

俺は深く腰掛けたまま、愛用の牛刀を砥石で静かに研いでいた。

シャッ、シャッ。

規則正しい刃擦れの音が、かまどの炎が爆ぜる音に混じって静かに響いている。

「……おい、ヒロト。お前、なんでそんなに落ち着いてるんだよ」

端末の画面から顔を上げたハナが、信じられないものを見るような目で俺を見た。

「俺は戦闘力ゼロの荷物持ちだからな。あいつらの邪魔をしないように、大人しく座ってるのが一番の自衛だ。それに、刃物はこまめに手入れしておかないと、いざという時に味が落ちるからな」

俺は牛刀の刃先を指の腹で軽く確かめ、満足そうに頷いた。

「味が落ちるって……あなた、外で降ってきてる魔物の群れを何だと思ってるのよ!」

「そりゃもちろん、新鮮な食材のデリバリーだろ。ほら、あそこを見てみろ」

俺が顎でしゃくった先では、久美子が激しい戦闘の合間を縫って、音もなく戦場を動き回っていた。彼女は籐子の光線で絶命したばかりの巨大な猪型の魔獣に近づくと、周囲の爆音を全く気にすることなく、一番肉質の良いバラ肉の部位だけを素早いナイフさばきで切り出し、自身のアイテムボックスへと次々に放り込んでいる。

「……あの子、こんな時までお宝泥棒してるの……?」

ハナが頭を抱えた。

先ほどの四本腕の巨猿が、防衛ラインの僅かな隙間を突き、強靭な脚力で跳躍してここまで入り込んできたらしい。

真っ赤な目を血走らせ、怒りに満ちた咆哮を上げて俺のいるキャンプサイトへ突進しようと、太い腕を振り上げた、その足元へ。

「ワフッ!」

小さな白い毛玉が、トコトコと歩み寄った。

豆柴の姿に縮んだハクだ。

ハクは巨猿を見上げるなり、ピーンと耳を立て、短い尻尾をパタパタと小刻みに揺らした。その瞳はキラキラと輝き、「遊ぼう!」とばかりにその場でピョンピョンと跳ね回っている。

巨猿は、足元でじゃれついてくる小さな犬を鬱陶しそうに叩き潰そうと、巨大な拳を振り下ろそうとした。

しかし、その拳は空中でピタリと硬直した。

巨猿の真っ赤な瞳が、極限まで見開かれる。

全身の毛が逆立ち、毛穴という毛穴から滝のように脂汗が吹き出し始めた。四本の巨大な腕がブルブルと痙攣したように震え、強靭なはずの足腰がガクガクと笑い出している。

目の前にいるのは、愛らしい姿の小さな犬だ。だが、巨猿の全神経が、本能の奥底で警鐘を鳴らし続けていた。目の前にいる存在は、自身の矮小な命など息を吐くより容易く消し飛ばせる、次元の違う「何か」であると。圧倒的な死の気配に当てられ、巨猿は身動き一つ取れず、情けない呻き声を漏らすことしかできなかった。

「……ガ、ガァァ……」

へたり込みそうになる巨猿。だが、全く遊んでくれないその態度に不満を覚えたのか、ハクが軽く跳躍し、巨猿の分厚い胸板に小さな前足をポンと当てた。

パァンッ!

乾いた破裂音が響いた。

ただのじゃれつきにしか見えないその一撃で、数トンはある巨猿の身体が、まるで蹴り飛ばされたゴムボールのように真横へ吹き飛んだ。巨猿は悲鳴を上げる間もなく、猛烈な風切り音を立てて湖の遥か沖合まで一直線に飛んでいき、特大の水柱を上げて水面へと沈んでいく。

「キュゥン!」

ハクは「もっと遊ぼう」とばかりに、水しぶきに向かって短い足で楽しそうに駆け出していった。

その光景を目の当たりにした周囲の魔物たちが、一斉に動きを止め、目に見えない巨大な恐怖に怯えるように後ずさりしていく。

「……なんなのよ、この光景」

ハナが呆然と呟いた。

それから数十分後。

天井の裂け目はエミリアの広範囲な氷魔法によって完全に塞がれ、魔物の降下は完全に収まった。

最深部の湖畔には、無数の魔物の死骸が散乱し、元の静寂が戻りつつあった。エミリアもユジンも、息一つ乱さずに武器の汚れを払って鞘に収めている。クロエの私兵たちも陣形を解き、籐子は満足げにデータの収集を終えていた。

ハクは湖からずぶ濡れになって戻ってくると、ブルブルと身震いをして水を弾き飛ばし、俺の足元に丸くなって大きなあくびをした。

「チーフ! ゲートの再設定、完了しました! いつでも地上へ飛べます!」

通信端末からオペレーターの緊迫した報告が響き、ハナが大きく頷いた。

「よくやったわ。みんな、行くわよ。ここからは私たちの本来の仕事だわ」

ハナの言葉に、Sランクの探索者たちが一斉に表情を引き締め、転移ゲートの放つ青白い光の渦へと向かおうとした。

「おい、ちょっと待て」

俺は研ぎ終えた牛刀を片手に持ち、キャンピングチェアからゆっくりと立ち上がった。

「ん? どうしたの、おじさん。まさか、一緒に行きたいなんて言わないわよね?」

ユジンが不思議そうに振り返る。

「んなわけないだろ。俺はここで留守番だ」

俺はかまどの傍らから、先ほどまで作業の合間に包んでいた紙の束をいくつか持ち上げた。

「さっき大盛りの炒め物を食ったばかりで体力は万全だろうが、地上の戦いがどれだけ長引くか分からん。最前線の防衛戦じゃ、悠長に座って飯を食う暇もないだろうからな。昨日、久美子が仕入れてアイテムボックスで寝かせておいた猪肉で、特製のカツサンドを作っておいた」

俺は丁寧に油紙で包まれた弁当を、エミリアたちに向かって放り投げた。

「片手で食える。分厚いカツの衣はサクサクのままだし、魔力回復の特製ソースもたっぷりと染み込ませてある。腹が減っては戦はできん。小腹が空いたら囓って、最高のコンディションで地上の厄介事を片付けてこい」

その言葉を聞いて、エミリアの顔がパッと輝いた。満腹のはずなのに、油紙の隙間から漂う香ばしいソースと肉汁の匂いに、ユジンもクロエも、そしてハナも、先ほどまでの張り詰めた緊張を解いて思わず表情を和らげる。

「ありがとうございます、ヒロトさん! 必ず、無事に帰ってきます!」

包みをしっかりとポーチにしまい込み、エミリアが力強く頷く。

それを合図に、最高峰の探索者たちは次々と転移ゲートの眩い光の中へと飛び込んでいった。

俺は小さくなっていく彼女たちの背中を見送りながら、ゆっくりとキャンピングチェアに腰を下ろし、再び砥石に牛刀を当てた。