作品タイトル不明
第37話 ダンジョン異常発生の兆候
深淵の迷宮、最深部。
昼下がりのキャンプサイトには、地下とは思えないほど穏やかな時間が流れていた。
ヒロトが昼食後に振る舞った手作りクレープの甘い余韻が、まだかすかに空気に溶け込んでいる。発光苔が青白い光を放ち、地底湖の湖面が静かに波打つ静寂の空間。激戦を潜り抜けてきたSランク探索者たちは、誰もが思い思いの場所で装備の手入れをしたり、心地よい満腹感の中で微睡んだりして、次の階層へ向かうための貴重な休息を取っていた。
その平和な静寂を、突如として場違いな電子音が無遠慮に切り裂いた。
小島・シャルロット・ハナがジャケットの胸ポケットに忍ばせていた、ギルド本部の最上位暗号通信端末からの緊急着信音だった。
膝にブランケットを掛け、タブレット端末でこれまでのマッピングデータを整理していたハナの表情から、一瞬にして穏やかな色が抜け落ちる。冷徹なチーフアナリストの顔へと切り替わった彼女は、即座に通信に応答した。
「私よ。状況は?」
『チーフ! 緊急事態です! 関東、関西、および東北の主要ダンジョン三箇所で、同時に異常な魔力変動を観測しました! 下層に生息しているはずのモンスター群が、一斉に中層エリアへの上昇を開始しています!』
通信越しに響くオペレーターの声は、恐慌をきたす寸前のように張り詰めていた。バックグラウンドでは、本部のメインルームであろう場所で無数のアラートがけたたましく鳴り響き、職員たちの怒声が飛び交っているのが聞こえる。
「……スタンピードの初期兆候ね。魔力波形のパターンは?」
『過去最大級だった七年前のスタンピード発生時のデータと、九十パーセント以上一致しています! このままの速度で上昇を続ければ、あと数時間、早ければ二時間弱で地上への溢れ出しが発生する可能性があります!』
「わかった。本部は直ちに規定プロトコルに移行、各防衛ラインの維持に全力を注ぎなさい。私たちもすぐに対処するわ」
ハナが通信を切ると同時に、周囲で寛いでいた女性陣の空気が完全に一変していた。
先ほどまで甘いスイーツの味に頬を緩ませ、他愛のない雑談に花を咲かせていたエミリアやユジンの顔から、年相応のあどけなさが消え去っている。そこにいるのは、数多の修羅場を潜り抜けてきた、むき出しの刃のような探索者たちだった。
「私たちがこの最下層近くに集まっているタイミングで、地上で三箇所同時の異常発生……。ただの自然現象や偶然にしては、あまりにも出来すぎているわね」
ユジンが長い黒髪を苛立たしげに払い、腰に帯びた短剣の柄にそっと手を添えながら低く呟いた。
「クロエ、貴女のところの私兵を動かせる?」
「ええ。すでに防衛ラインの補強に回るよう、念話で当主権限の指示を出しましたわ。一族の精鋭には前線を死守させます。……ですが、日本のトップランカーである貴女たちが不在のままでは、いずれ戦線は崩壊しますわね」
クロエが優雅な所作で扇子を閉じながらも、その視線は鋭くハナへ向けられていた。
「チーフ、私たちすぐに地上へ戻ります。転移ゲートの再設定をお願いできますか」
エミリアが立ち上がり、凛とした声で要求した。彼女の手はすでに、自身の背丈ほどもある大剣の柄を固く握りしめている。
だが、ハナは眉間を深く揉み込みながら、極めて苦々しい表情で首を横に振った。
「無理よ。先ほどの通信データから、地上側の転移施設周辺にも異常なレベルの魔力干渉が起きていることが確認できたわ。空間座標が激しく乱れている状態よ。今ゲートを開けば、どこか異空間に放り出される危険性が高い。安全な転移路を確立するには、干渉波を相殺するシミュレーションを回す必要がある。……私の全処理能力を使っても、最低で一時間はかかるわ」
「一時間……!」
重苦しい焦燥感が、目に見えるほどの物理的な重圧となってキャンプサイトを包み込んだ。
Sランク探索者である彼女たちは、スタンピードが地上に到達した際の凄惨な光景を、過去の経験から誰よりもリアルに想像できる。自分たちが一時間遅れるということは、防衛ラインが後退し、街が破壊され、逃げ遅れた一般市民や下級探索者が無数に犠牲になることを意味する。一分一秒が、そのまま人命に直結するのだ。
「ちっ……なら、物理で階層をぶち抜いて上るまでよ。こんなところで一時間も指を咥えて待ってられるか!」
ユジンが全身から濃密な殺気を膨らませ、床を蹴って跳躍しようと深く腰を落とした、まさにその瞬間だった。
トントントン、トンッ。
硬い木のまな板を、規則正しく包丁が叩く小気味良い音が響いた。
「……お前ら、少し落ち着け」
振り返ると、ヒロトがいつの間にか石造りのかまどの前で、太い大根を拍子木切りにしているところだった。彼の背中は、背後で渦巻く殺気や切羽詰まった焦燥感など全く意に介していないかのように、ただ淡々と、一定のリズムで作業を進めている。
「焦って動いて、罠に嵌まったり魔力切れを起こしたりすれば元も子もない。一時間あるなら、腹を据えて飯を食う時間が十分にある」
「おじさん! 今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃ……!」
「腹が減っては戦はできん。それに、血に飢えた顔のままじゃ、本来の力は出せないぞ。特にユジン、お前は今、焦りで視野が極端に狭くなっている。その状態で飛び出せば、真っ先に足元を掬われるぞ」
ヒロトは包丁を動かす手を止めることなく、静かに、だが逆らうことを一切許さない、圧倒的な大人の余裕でそう言い放った。
「……っ」
図星を突かれたユジンは、悔しそうに唇を強く噛んだ。ヒロトの言うことが理にかなっていることは、彼女の理性が一番よく理解していた。極度の緊張状態や焦りは、探索者のパフォーマンスを著しく低下させ、致命的な判断ミスを誘発する。だが、地上で危機に瀕している人々を思うと、感情がそれに追いつかないのだ。
ヒロトは切り終えた大根をガラスボウルに移すと、アイテムボックスから小さな陶器の壺を取り出した。
「まずはこれで口をさっぱりさせろ。頭の熱を冷ますんだ」
ヒロトが小鉢に取り分けたのは、数日前に仕込んでおいた大根の浅漬けだった。透き通るような大根の白さと、添えられた柚子皮の鮮やかな黄色のコントラストが目に美しい。
言われるがまま、ハナが一切れ口に運ぶ。
パリッ、ポリッ。
静かな空間に、小気味よい破砕音が響いた。
大根の瑞々しい食感とともに、冷たく心地よい甘みと塩気が口内に広がる。噛むほどに昆布の深い旨味が滲み出し、ふわりと香る柚子の風味が鼻を抜けていく。そして、後から追いかけてくる微かな鷹の爪の刺激が、ぼんやりとした頭の輪郭をはっきりとさせるようだった。
「……美味しい。すごく、落ち着く味ね」
ハナの強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。それに釣られるように、エミリアたちも小鉢の浅漬けに手を伸ばし、コリコリという音を立て始める。冷たい野菜の水分が、乾ききっていた喉と、ささくれ立っていた心を少しずつ潤していく。
「次はスープだ。少し待ってろ」
ヒロトは別の鍋で、自家製の豚バラ燻製ベーコンと、キャベツの芯に近い甘みの強い部分を、鶏ガラベースのスープでコトコトと煮込んでいた。ベーコンから溶け出した極上の脂がスープの表面できらきらと輝き、燻製の香ばしい匂いが周囲に漂い始める。
だが、メインはこれからだった。
ヒロトは分厚い鉄の中華鍋をかまどの火にかけ、『極・生活魔法』で火力を限界まで引き上げた。ごうごうと燃え盛る炎が鍋底を舐める。
鍋肌からうっすらと白い煙が立ち昇るのを確認し、多めの油をなじませる。
そこへ、薄切りにした豚バラ肉を一気に投入した。
激しい飛沫を上げて油が爆ぜ、肉の焼ける暴力的な匂いが空気を震わせる。ヒロトは素早い手付きで重い中華鍋をあおり、肉の脂が透明になり、表面がカリッとするまで一気に火を通していく。
「ここからが勝負だ」
豆板醤、甜麺醤、微塵切りのニンニクと生姜、そして粗く挽いた赤花椒を、鍋の縁に沿って滑り込ませた。
高温の油と香辛料が激突した瞬間、むせ返るほど濃厚で、凶暴なまでのスパイシーな香りが爆発的に立ち上った。
「っ……! な、何この匂い……!」
ユジンの鼻腔がピクンと動き、先ほどまでの張り詰めた殺気が嘘のように、その視線は完全に中華鍋へと釘付けになっていた。辛味成分が混じった煙に目を細めながらも、ごくりと喉を鳴らす。
ヒロトはさらに、あらかじめ油通ししておいた乱切りの茄子、ざく切りのキャベツ、短冊切りの人参を次々と鍋に放り込んだ。さらに薄切りにしたゴーヤーを加える。
炎が鍋を包み込み、具材が宙を舞う。魔法による完璧な温度管理のもと、野菜の水分を逃さず、表面だけに強烈な熱を加えていく。
最後に、新鮮なブロッコリのスプラウトをどっさりと乗せ、手首の返しで数回だけ鍋を振って味を全体に絡ませ、完成させた。
「特製、四川風肉野菜炒めだ。スープと一緒に、白飯でかき込め」
テーブルの真ん中にドンと置かれた大皿からは、麻と辣の入り混じった強烈な香りが湯気とともに立ち昇っている。テリのある濃厚な赤黒いタレを纏った豚肉と茄子。鮮やかな緑のゴーヤーとスプラウト。
「いただきますっ!」
エミリアが真っ先に白飯の丼を片手に持ち、豚肉とキャベツを一緒に口へ放り込んだ。
「んんっ……! 辛い! でも、美味しいっ!」
言葉はそれだけだった。理屈など必要なかった。ただ本能のままに白飯を掻き込み、再び箸を伸ばす。
ユジンも無言で食らいついた。タレをたっぷりと吸い込んだ茄子とゴーヤーを口に運び、強く目を閉じる。
「……っ! これよ、これ! この痺れ……最高!」
額に大粒の汗を浮かべながら、ユジンは恍惚とした表情で咀嚼を続ける。花椒の強烈な刺激が舌を痺れさせ、辛味噌の深いコクが押し寄せる。そこへゴーヤーの鮮烈な苦味が加わることで、強烈な味の波が押し寄せては引いていく。ひと噛みごとの痛烈な刺激が、焦燥感で凝り固まっていた彼女の神経を強制的に解きほぐし、全身の血流を沸騰させていく。
ハナもまた、チーフとしての重圧を一時的に脇に置き、無心で箸を動かしていた。 辛さで口内が火照り始めると、ベーコンとキャベツのスープをすする。野菜の甘みが溶け出した優しいスープが舌の痛みを和らげ、またすぐにあの強烈な辛味を欲してしまう。 少し離れた席では、琴美が丸眼鏡を曇らせながら、黙々と白飯のおかわりをよそっていた。 足元では、ハクが自分用の木桶に顔を突っ込んでいた。ハク自身も周囲の空気に当てられたのか、いつにも増して激しい勢いで尻尾を振りながら、自身の食事に没頭している。
あっという間に、大皿に山盛りになっていた四川風炒めも、炊きたての白飯も、すっかり空になった。
「ふぅ……食ったな。ほら、食後の茶だ」
食卓の熱気が冷めやらぬ中、ヒロトが人数分の湯呑みを置き、急須から琥珀色の液体を注いだ。
立ち昇るのは、深く焙煎された烏龍茶の香ばしい香りだ。
「熱いから気をつけろよ」
ハナは湯呑みを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと一口すする。
焙煎の効いた烏龍茶の深い渋みと、すっきりとした後味が、口内に残っていた中華の油分と香辛料の余韻を洗い流してくれた。温かいお茶が胃の腑に落ちていくのを感じながら、ハナは長く、深い息を吐き出した。
「……美味しい。すっかり、目が覚めたわ」
憑き物が落ちたような、すっきりとした顔つきになったハナが、再び通信端末を手に取る。
ユジンも、エミリアも、クロエも。先ほどまでの焦りや不安に満ちた顔は消え失せていた。そこにあるのは、冷静に状況を見極め、自らの役割を完全に理解した、本物の「トップランカー」としての鋭い眼差しだ。
「チーフ。ゲートの再設定の進捗は?」
エミリアの静かな問いに、ハナは端末の画面をスワイプしながら力強く頷いた。
「あと三分で開通するわ。第一陣は新宿、第二陣は大阪のダンジョンエントランスへ直接転移させる。……みんな、準備はいいわね?」
Sランク探索者たちは、それぞれが無言で己の武器を手に取り、立ち上がった。
エミリアが大剣を背負い直し、ユジンが短剣の刃を確かめる。クロエは扇子を静かに構え、琴美は杖の魔力伝導をチェックした。装備の最終確認を終えるかすかな金属音だけが、静寂の迷宮に響く。
彼女たちの背中にはもう一切の迷いがなく、ただ地上を救うという確かな決意と熱だけが宿っていた。
ヒロトは静かに片付けを始めながら、頼もしいその背中を黙って見送った。