軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第40話 幻獣のフルコース

深淵の迷宮の最深部に、透き通るような青空——正確には疑似太陽の光——が広がっていた。

いつもの喧騒から少し離れた、湖畔の奥まった入り江。青白い発光苔と、自発光するクリスタルの群生が、水面に美しいグラデーションを描き出している。

「……本当に、信じられない場所ね。ダンジョンの底にこんな景色が広がっているなんて」

隣を歩く小島ハナが、ほうっと感嘆の息を漏らした。

今日の彼女は、いつもの窮屈そうなパンツスーツやブルーライトカット眼鏡を身につけていない。ざっくりとしたオフホワイトのニットに、歩きやすいデニムというラフな私服姿だ。少し色素の薄いブラウンの髪も、クリップではなく緩い編み込みにまとめられている。激務の象徴だった目の下のクマも、今日は綺麗に消えていた。

「ギルドのチーフアナリスト様が、平日に堂々とサボりか?」

「サボりじゃありません。溜まりに溜まった有給休暇を強制消化させられただけです。……それに、ヒロトさんの『最深部特別管理官』としての活動状況を直接視察するという、立派な名目もありますし」

ハナはツンと唇を尖らせたが、その表情はどこか柔らかい。

連日の対応で倒れる寸前だった彼女に、「たまには息抜きしに来い」と特別ゲートの権限を使って呼び出したのは俺だ。エミリアやユジンたちは気を利かせたのか、少し離れたキャンプサイトにあるクロエの巨大テントに集まって、ハクのブラッシング大会に興じている。ここには俺とハナの2人しかいない。事実上の、デートというやつだ。

「まあ、堅苦しい理屈はどうでもいい。今日はただ美味いものを食って、のんびりしていけ」

俺は入り江の平らな岩の上にレジャーシートを敷き、アイテムボックスから保温ボックスを取り出した。

中に入っているのは、今日のピクニックのために仕込んでおいた特製のサンドイッチだ。エミリアが採ってきた未知のフルーツと、濃厚な生クリームをたっぷりと挟んだフルーツサンド。それに、自家製のローストビーフをホースラディッシュのマヨネーズで和えて挟んだ、ガッツリ系のサンドイッチ。

「うわぁ……美味しそう。お昼からこんな贅沢していいのかしら」

「俺のキャンプじゃ日常茶飯事だ。ほら、紅茶も淹れたぞ」

俺が紙コップに温かいアールグレイを注いで手渡すと、ハナは両手でそれを受け取り、隣に腰を下ろした。柔らかな風が吹き抜け、湖面がキラキラと輝く。

ハナはローストビーフのサンドイッチを一口かじり、ふわりと幸せそうに目を細めた。

「んっ……お肉がすごく柔らかい。ツンとくる辛味が、お肉の旨味を引き立てて……すごく、美味しい」

「そりゃよかった。いつも画面越しで胃袋を刺激して悪かったからな。今日は直接、腹いっぱい食ってくれ」

俺が笑いかけると、ハナは少しだけ頬を染め、横目で俺を見上げた。静かな時間が流れる。激務から解放されたハナの表情には、彼女が本来持っている年相応のあどけなさが覗いていた。

湖面を撫でる風が心地よく、俺も手にしたカップの紅茶を一口飲んだ。

だが、その時だった。

ズゴゴゴゴゴゴッ……!!

突如、入り江の奥深くから、腹の底を揺らすような凄まじい地鳴りが響き渡った。穏やかだった湖面が爆発したように盛り上がり、数十メートルの水柱が天を衝く。

「きゃっ!?」

悲鳴を上げたハナが腰を抜かしかけたところを、俺は咄嗟に彼女の腕を強く引き寄せ、手近な巨大な岩の陰へと庇うように身を隠した。

水しぶきの中から姿を現したのは、巨大な水竜——アビス・リヴァイアサンだった。

全長は50メートルを下らないだろう。サファイアのように輝く青い鱗に覆われた流線型の巨体。鋭い牙が並ぶ巨大な顎。最深部のさらに未知の領域から迷い込んできたのか、圧倒的な魔力の波動が周囲の空気をビリビリと震わせ、呼吸すら苦しくなるようなプレッシャーを放っている。

「ひっ……! な、に……嘘、神話級……逃げなきゃ、ヒロトさん……!」

ハナは俺の腕を強く掴み、パニックに陥ったようにガチガチと歯の根を鳴らしている。ギルドのチーフアナリストとしての冷静さは吹き飛び、純粋な恐怖に顔を青ざめさせていた。

俺はハナを背に庇いながら、威嚇するように鎌首をもたげたリヴァイアサンを睨みつけた。逃げる算段を立てなければならない。だが、俺の視線はどうしても、水竜の「腹部」に釘付けになってしまっていた。

「……おい。あそこの腹の肉、めちゃくちゃ綺麗なサシが入ってないか?」

「……え?」

「背中の肉も分厚い。それにあのホホ肉、煮込んだら絶対にトロトロになるぞ。……極上の食材だ」

俺の脳内ではすでに、目の前の絶望的な脅威が「動く最高級肉のブロック」に変換されていた。

俺は岩から身を乗り出し、大きく息を吸い込んで叫んだ。

「エミリア! ユジン!!」

俺の声に呼応するように、少し離れたキャンプサイトの方角から、2つの影が弾丸のような速度で湖畔へと飛び出してきた。

「何事ですかおじさん!?」

「ちょっと、何よあのデカブツ!」

抜刀したエミリアと、短剣を構えたユジンだ。

「あれを狩る! ただの討伐じゃない、食材の調達だ!」

「しょ、食材って……あの神話級をですか!?」

「肉に傷をつけるな! 首の付け根だけをピンポイントで凍らせて一撃で活け締めにしてくれ! 焦がすのは絶対NGだ!」

「む、無茶言わないでくださいよ!?」

エミリアが悲鳴のような声を上げながらも剣を構え直す。

「文句言ってる暇はないわよ! 私が隙を作るから、あんたは合わせなさい!」

ユジンが超高速の機動で水竜の視界へと飛び込み、激しい斬撃の残像で意識を強引に引きつける。リヴァイアサンが苛立たしげに咆哮を上げ、巨大な顎でユジンを噛み砕こうと首を伸ばした、まさにその一瞬。

「……っ、【絶対零度・白銀の刃】!!」

死角から空高く舞い上がったエミリアの魔剣から放たれた極低温の冷気が、水竜の首の付け根だけを正確に凍結させた。直後、彼女の体重と落下速度を乗せた一閃が、凍りついた急所を音もなく切断する。

ズズゥゥン……ッ!

リヴァイアサンは悲鳴を上げる間もなく、一滴の血も無駄にすることなく、湖畔の浅瀬に完璧な状態で崩れ落ちた。

「よし、完璧な活け締めだ! さっそく解体するぞ!」

俺は腕まくりをし、愛用の牛刀をアイテムボックスから取り出してリヴァイアサンの巨体へと歩み寄る。岩の陰で唖然として座り込んでいるハナを振り返り、笑いかけた。

「デートの途中で悪いが、少し待っててくれ。とびきりのフルコースを食わせてやる」

★★★★★★★★★★★

2時間後。

クロエのテントの前に設置されたロングテーブルには、信じられない光景が広がっていた。

「さあ、アビス・リヴァイアサンのフルコースだ」

俺が次々と大皿を並べていく。

1品目は『リヴァイアサンの炙りカルパッチョ』。

最も脂の乗った腹肉を薄切りにし、表面だけを生活魔法でサッと炙って香ばしさを出す。そこにエキストラバージンオリーブオイル、岩塩、そしてエミリアが採ってきた柑橘系の果汁をたっぷりと絞った。

2品目は『リヴァイアサンのホホ肉の赤ワイン煮込み』。

よく動かすホホ肉は筋が多いが、極・生活魔法の圧力調理で数時間分の煮込み工程を数分に短縮。クロエが提供してくれた最高級の赤ワインとデミグラスソースで、箸で切れるほどトロトロに仕上げてある。

そしてメインの3品目は『リヴァイアサンの極厚レアステーキ』。

赤身の旨味が強い背肉を、厚さ5センチにカット。分厚い鉄板で表面をカリッと焼き上げ、中は美しいロゼ色のレアに。熱々の肉の上には、ガーリックバターと特製の焦がし醤油ソースがジュワッと音を立てて絡みついている。

「……これ、さっきのあの魔獣の……?」

ハナが信じられないものを見るような目で、ステーキの断面を見つめた。

「四の五の言わずに食ってみろ。冷めるぞ」

ハナは恐る恐るナイフとフォークを手に取り、分厚いステーキを切り分けて口に運んだ。

その瞬間、彼女の動きがピタリと止まり、瞳が限界まで見開かれた。

極上のマグロの大トロのように魚の繊維がほどけていくのに、和牛の赤身のような力強い噛みごたえと旨味が同居している未知の食感。噛み締めた瞬間にジュワッと溢れ出すサラリとした脂の甘みが、ガーリックバターのパンチ力と焦がし醤油の香ばしさによって完璧に引き立てられている。

「な、なにこれ……! お肉なのに、口の中で解けて……旨味が……っ!」

ハナは我を忘れ、何かに取り憑かれたように次々とステーキを口に運び始めた。

ふと横を見ると、エミリアはカルパッチョをご飯に乗せ、「脂が……炙った脂が甘いですぅぅ!」と半泣きになりながら白飯を掻き込んでいる。

ユジンはホホ肉の煮込みのソースをバゲットで拭い取りながら、「ちょっとクロエ様、そのワインこっちにも回してよ」と要求していた。

当のクロエは「これはわたくしの持ち込みですわ!」と言い返しつつ、優雅な所作を保ったまま凄まじい速度で極厚ステーキを切り分けている。

足元では、ハクが巨大な木桶に入ったリヴァイアサンの骨付き肉に顔を突っ込み、バキバキと凄まじい音を立てて骨ごと噛み砕いていた。

俺もステーキを一口かじり、その出来栄えに満足して頷く。激しい戦闘の後の、極上の食材。この圧倒的な美味さは、ダンジョンでしか味わえない。

岩の上に立てかけた端末の画面に目をやると、同接カウンターは50万という未知の領域に突入し、コメント欄はかつてないほどの熱狂とモチベーションの爆発に包まれていた。

『嘘だろ……あのリヴァイアサンって、あんなサシ入ってんのかよ!?』

『美味そう……ヤバい、画面見てるだけでヨダレが止まらない』

『倒せば食えるのか。あのバケモノ、倒せばあんな極上の肉が食えるんだ!』

『Fランクのおっさんが食ってて、俺たちに食えないはずがない!』

『よし! 俺のパーティーも今日から魔獣を食材として狩るぞ! 中層のボス狩りに行く!!』

猛烈な勢いで流れていくコメントの濁流を眺めながら、ハナが赤ワイン煮込みを口に運びつつ、深い溜息をついた。

「……また、世界中のダンジョンの生態系と、ギルドの業務がパニックになるわね」

「悪かったな、仕事を増やしちまって。でも、美味いだろ?」

「……ええ。悔しいくらいに」

ハナは呆れたようにふっと笑い、最後の一切れのステーキを口に運んだ。

ナイフとフォークを皿の上に静かに置くと、彼女は少しだけ元気を取り戻した顔で立ち上がる。

「さて、お腹もいっぱいになったし、午後からはもう一仕事できそうね」

「あんまり無理はするなよ。……食後のコーヒー、淹れるか?」

俺がかまどの火にケトルを乗せると、ハナは「ええ、ブラックでお願い」と柔らかく微笑んだ。