作品タイトル不明
第34話 ギルドの公式認定
深淵の迷宮の最深部に、鰹と昆布の華やかな香りと、豚骨の力強いコクが入り混じった出汁の匂いが漂っていた。
はるか上空の分厚い岩盤に張り巡らされた疑似太陽が、穏やかな午後の光を湖畔のキャンプサイトに投げかけている。湖面から吹き抜ける風はひんやりと冷たいが、俺の目の前にある石造りのかまどからは、赤々と熾る炭火の熱が心地よく伝わってきた。
俺は二つの寸胴鍋の火加減を微調整しながら、中身の仕上がりを確認した。
一つは、豚骨をネギと生姜でじっくりと煮出し、アクを徹底的に取り除いた澄んだ清湯スープ。もう一つは、大量の厚削り鰹節と日高昆布から取った香りの強い和風出汁だ。
これを合わせれば極上のダブルスープになるが、肝心のメインとなる具材と、それに負けない力強い麺の手持ちがアイテムボックスに見当たらず、どう仕上げるか思案していたところだった。
「スープの仕上がりは完璧なんだがな……」
俺が鍋に蓋をして立ち上がった、その時だった。
キャンプサイトから少し離れた平地の空間が、陽炎のように不自然に歪んだ。直後、シュガッという空気を焦がすような音と共に、紫色の転移ゲートが空中に開く。
キャンピングチェアで武器の手入れをしていたエミリアと、木陰でうたた寝をしていたユジンが、反射的に立ち上がってそれぞれの得物に手をかけた。先日、『赫き剣』の連中が不法侵入してきた記憶が、彼女たちの警戒心を無意識に高めているのだ。
だが、足元で丸くなっていたハクは、耳をピクッと動かしただけで、すぐに興味を失ったようにあくびをし、再び顎を前足に乗せた。敵意や殺気がない証拠だ。
「待て、エミリア、ユジン。武器を下ろせ。見知った顔だ」
俺が制止すると同時に、転移ゲートから一人の女性が姿を現した。
仕立ての良いチャコールグレーのパンツスーツに、綺麗にまとめられた少し色素の薄いブラウンの髪。黒縁のブルーライトカット眼鏡をかけたその姿は、泥と血にまみれた探索者たちが跋扈するダンジョンの底にはおよそ似つかわしくない。
探索者ギルド日本支部、配信管理部門チーフアナリストの、小島ハナだった。
彼女は周囲をぐるりと見渡し、エミリアたちが武器を収めたのを確認すると、静かな足取りで俺の前に歩み寄り、深々と一礼した。
「お疲れ様です、山本さん。……エミリアさんやユジンさんたちも、先日の騒動ではギルドとしてご不便をおかけしました」
「ギルドのお偉いさんが、また直々に最深部までご足労とはな。あのレオンって奴らの事後処理なら、もう終わった話だろ?」
「ええ、あちらの件は滞りなく。本日は、ギルド本部からの正式な通達をお持ちしたんです」
ハナは胸ポケットから重厚な黒い封筒を取り出し、両手で俺に差し出した。
「本日付で、山本博人さんを『アビス・ラビリンス最深部特別管理官』に任命いたします」
「……特別管理官?」
「はい。実質的にSランク探索者と同等の権限と、ギルドからの最優先の保護を保証するものです。先日のような心無い者たちが、あなたのキャンプを不当に荒らすことを未然に防ぐための、法的かつ物理的な防壁とお考えください」
ハナは淡々とした事務的な口調で告げた。どうやら、ギルド側も俺のこの異常な配信環境を保護する方針に舵を切ったらしい。
「なるほどな。だが、俺は面倒な仕事は引き受けないぞ。ここで美味い飯を食って、静かに暮らしたいだけだ」
「ご安心ください。管理官としての具体的な義務は一切ありません。今まで通り、そこでキャンプをして……その、美味しいご飯を作って、配信を続けていただければ結構です」
ハナはそう言って小さく息を吐き出すと、転移ゲートの方を振り返り、パチンと指を鳴らした。
ゲートの奥から、車輪のついた巨大な銀色の保冷ボックスが押し出されてくる。表面にはギルドのロゴが印字されていた。
「それに本日は、視察と物資転移のテストも兼ねています。先日の……美味しい煮込みハンバーグをご馳走になったお礼も兼ねて、沖縄支部から取り寄せた食材をお持ちしました」
ハナが保冷ボックスのロックを外して蓋を開けると、中には製麺所の名前が入った袋入りの生麺や、真空パックされた巨大な豚肉のブロック、色鮮やかな波かまぼこなどがぎっしりと詰まっていた。
「宮古そばの生麺と、新鮮な生のソーキ肉のセットです。もしよろしければ、お昼ご飯にでも使っていただけないかと……」
ハナはわずかに視線を泳がせながら、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その視線が、俺の背後にあるかまど――正確には、そこから漂う出汁の匂いの源に、何度もチラチラと向かっている。
よく見れば、彼女の目の下には薄いクマが浮かんでおり、パンツスーツにもわずかなシワが寄っている。連日の事後処理に追われていた疲労が、その表情に濃く滲み出ていた。
きゅるるるぅぅぅ……。
静寂の最深部に、ハナの腹の虫の音が信じられないほどの音量で鳴り響いた。
エミリアが目を丸くし、ユジンが呆れたようにため息をつく。ハナの知的な顔立ちが、一瞬にして耳の先まで真っ赤に染まった。
「あ、あの、これは……その、転移の酔いで胃が……」
「……昼飯、まだだったのか」
「昨日から各国のギルドやメディアへの対応で、固形物は栄養ゼリーしか……いえ、これは私の個人的なスケジュール管理の甘さが……」
ハナは早口で弁解しようとしたが、俺は保冷ボックスからソーキ肉の塊を取り出しながら言葉を遮った。
「ちょうどいい。出汁だけは完璧に仕上がっていて、麺と具材をどうするか迷っていたところだ。このソーキ肉を使って、すぐに昼飯にしてやる。座って待ってろ」
「本当ですか……! でも、ソーキ肉って、柔らかくなるまで数時間煮込まないと……」
「普通ならな。だが、ここには便利な魔法がある」
俺は分厚いホーロー鍋に油を引き、切り分けた生のソーキ肉を投入した。ジュワッと音を立てて表面に香ばしい焼き目をつけていく。
そこにたっぷりの泡盛、黒糖、醤油、そして薄切りの生姜を流し込み、蓋を閉めた。
俺は鍋の周囲に両手をかざし、『極・生活魔法』を行使した。
微細な魔力操作によって、ホーロー鍋そのものを高圧の魔力結界で密閉する。内部の圧力を限界まで高めつつ、煮汁の温度が沸点を超えても気化しないギリギリのラインをキープする。さらに浸透圧のベクトルを肉の内部へと強制的に向けることで、数時間分の煮込み工程を数分へと圧縮するのだ。
わずか十分後。
魔力結界を解いて蓋を開けると、黒糖と醤油が焦げたような甘く重厚な香りが、爆発的に周囲に広がった。
最初は硬かったソーキの軟骨は、魔法による高圧調理で箸の先が抵抗なくスッと通るほど半透明のゼラチン状に変化している。煮汁が適度に煮詰まり、赤身の部分には琥珀色の照り輝くタレがしっかりと絡みついていた。
「よし、肉の仕上がりは完璧だ」
俺は二種類のスープを丼の中で合わせ、沖縄の海塩とわずかな薄口醤油で味を調える。
隣の大鍋で沸かしたたっぷりの湯に、宮古そばのストレートの細平麺を投入する。短い茹で時間でサッと引き上げ、平ザルを使って勢いよく湯切りをした。
熱々のスープが張られた丼の中に麺を落とし、トングを使って巨大なソーキを二つ、三つと麺の上に盛り付ける。横には波かまぼこの薄切りを添え、たっぷりの青ネギと紅生姜を乗せた。
「特製ソーキそばだ。熱いうちに食え」
俺がハナの前に湯気を立てる丼を置くと、彼女は無言で割り箸を割った。
レンゲでスープをすくい、ふーふーと息を吹きかけてから口に運ぶ。
直後、ハナは小さく息を呑み、目を見開いた。
鰹節の強い香りと塩気が舌を打ち、すぐ後ろから豚骨の重厚なコクが波のように押し寄せてくる。熱々のスープが空っぽの胃袋に流れ込み、彼女はたまらず、箸でストレートの平麺を持ち上げて一気にすすった。
ズズッ、ズズズッ!
滑らかな喉越しと、しっかりとした弾力。麺に絡みついたダブルスープの旨味が、口の中で弾ける。
ハナはそのままメインのソーキに箸を伸ばした。
持ち上げただけで自重で崩れそうなほど柔らかい肉塊に、思い切りかぶりつく。
黒糖の深い甘み、醤油の香ばしさ、そして泡盛がもたらす芳醇な風味が、肉の繊維からジュワッと溢れ出した。ゼラチン状に変化した軟骨が舌の上でトロトロに溶け、肉の旨味と甘辛いタレが、あっさりとしたスープと混ざり合っていく。
ハナはスーツの袖を気にする余裕もなく、無心になって麺と肉をすすり続けた。咀嚼するたびに額にうっすらと汗が滲み、熱さと美味さに目を潤ませながら、ひたすらに丼に向かい合っている。
「少し味が単調に感じてきたら、これを入れてみろ」
俺はアイテムボックスから小さなガラス瓶を取り出し、ハナの横に置いた。
透明な液体の中に、真っ赤な小さな唐辛子が幾つも沈んでいる。
「沖縄の島唐辛子を、泡盛に漬け込んだ『コーレーグース』だ。数滴垂らすだけで、味が引き締まる」
ハナは言われるがままに、丼に数滴の液体を垂らした。
熱に乗って、アルコールの芳香と唐辛子の鮮烈な香りがふわりと立ち昇る。
再びスープを一口。
「……っ!」
ハナの動きが一瞬だけ止まった。
ピリッとした鋭い辛味と泡盛の風味が、まろやかだったスープの輪郭を鮮やかに切り裂き、直後に豚と鰹の旨味がさらに際立って押し寄せてくる。
彼女はむせそうになるのを必死に堪えながら、箸のスピードをさらに上げて残りの麺を掻き込み始めた。
周囲でも、ユジンやエミリアたちが自分の丼を受け取り、盛大な音を立てて食事を始めていた。
「んんーっ! お肉がとろとろで甘いですっ! このスープもすごくホッとします!」
「ちょっとおじさん、この辛い調味料、私の丼にもっと入れて!」
「入れすぎるとむせるから気をつけろよ、ユジン。久美子、お前もネギだけ残さずにちゃんと食え」
「……ん。お肉、美味しい」
「わたくしはこのような太い麺をすするのは初めてですけれど……このお出汁と豚肉の相性、素晴らしいですわね」
足元では、ハクが自分用の巨大な木桶に入ったネギ抜きのソーキそばに顔を突っ込み、ガツガツと無我夢中で咀嚼している。
湖畔を吹き抜ける風の中、ただひたすらに麺をすする音と、食器がぶつかる音だけが心地よく響き渡った。
ハナは最後の一滴までスープを飲み干し、空になった丼を両手で抱えたまま、ふぅ、と長く息を吐き出した。
額に汗をかき、満足そうに口元を緩めるハナに、俺は氷を入れた冷たいさんぴん茶のグラスを差し出した。