軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第33話 え、なんかあった?

昨夜、仕込んでおいた猪肉のニンニクスタミナ焼きで山盛りの白飯をかき込んだ心地よい満腹感の余韻は、一晩明けた今でもほんのりと腹の底に残っていた。

野性味あふれる猪肉に、ガツンと効かせたニンニクと甘辛い特製ダレ。あの食欲を煽る暴力的な匂いを思い出すだけで、また少し腹が減ってくるような気がする。

深淵の迷宮の最深部。はるか上空の岩盤に張り巡らされた疑似太陽が、穏やかな午後の光を投げかける中、俺はキャンプサイトから少し離れた森の中を歩いていた。今日の昼飯の仕上げに使うための、自生する香草を探すためだ。

足元には青白い発光苔が絨毯のように広がり、巨木の根元にはシダに似た古代の植物が鬱蒼と茂っている。危険な魔物の気配は全くない。俺の足元をウロチョロしているハクが放つ圧倒的な縄張りの匂いが、この一帯からすべての外敵を遠ざけているからだ。

「……ヒロト、歩くの速い」

背後から、気怠げな声が聞こえた。

振り返ると、オーバーサイズのパーカーの袖を余らせた久美子が、少しだけ唇を尖らせて立っていた。普段はテントの隅やキャンピングチェアの上で猫のように丸まって動かない彼女だが、今日は俺が森へ入る準備をしていると、無言でふらふらとテントから出てきて、そのまま俺の後ろについてきたのだ。

「お前が遅いだけだ。普段からゴロゴロしてるから体力が落ちるんだぞ」

「探索者だから、体力はある。……ただ、無駄なエネルギーを使いたくないだけ」

久美子はそう言い訳しながら、近くにあった手頃な高さの倒木にどさりと腰を下ろした。パーカーのフードをすっぽりと被り、もう一歩も歩きません、という強い意志を全身から発している。

俺は苦笑しながら彼女の隣に座り、アイテムボックスから保温ボトルを取り出した。小さな紙コップに、熱いほうじ茶を注いで手渡す。ついでに、タッパーに入れておいた素焼きのクルミとアーモンドも少しだけ添えてやった。

「ほら、飲め」

「……ん」

久美子は両手で紙コップを包み込むように持ち、ふーふーと息を吹きかけてから、ちびちびと音を立てて飲んだ。ほうじ茶の香ばしい湯気が、彼女のアッシュブロンドの前髪をかすかに揺らしている。クルミを小動物のように齧る姿は、Aランクの凄腕レンジャーというよりは、ただの迷子の子供のようだ。

「テントに残ってればよかったのに。エミリアたちもいるんだし、退屈はしなかっただろ」

「……テント、うるさい。みんな、画面見てキャーキャー言ってた」

久美子は紙コップを見つめたまま、ぽつりとこぼした。

「ヒロトの横は、静か。無駄な音がないから、好き」

それは、彼女なりの最大限の好意の表現なのだろう。俺は香草を探す手を止め、静かに息を吐いた。

確かに、この森は静かだ。発光苔の微かな瞬きと、遠くで風が木々を揺らす音しか聞こえない。地上で荷物持ちとして酷使されていた頃には、こんな風に誰かと並んで、ただ静寂を味わうような時間は一秒たりともなかった。

「……そうか。じゃあ、もう少し休んだら戻るか。そろそろ鍋の火加減も見たいしな」

「ん。そうする」

久美子は目を細め、ほうじ茶の温かさを全身で味わうように、小さく息をついた。

★★★★★★★★★★★

小一時間ほど森を散策し、いくつか手頃な香草を採取してからキャンプサイトに戻ると、そこは久美子の言っていた通り、妙な熱気に包まれていた。

「あ、おじさん! 帰ってきましたね!」

真っ先にこちらに気づいたエミリアが、自分の通信端末を握りしめたまま駆け寄ってきた。その後ろでは、ユジンが腕を組んで満足げに頷いており、クロエも優雅に扇子を揺らしている。籐子に至っては、なぜか虚空に向けてガッツポーズをしていた。

「なんだ、やけに騒がしいな。魔物でも出たか?」

「『なんかあったか』じゃないわよ、おじさん!」

ユジンが呆れたような声を上げ、ずいっと前に出てきた。

「ギルドの公式発表があったのよ! あの『赫き剣』の連中、故意の仲間殺し未遂と数々の規約違反で、正式にAランク剥奪、永久追放からの逮捕が決まったわ! 琴美の切り抜き動画が決め手になったみたいね」

「わたくしの弁護士チームも少し圧力をかけましたけれど、これで完全にトドメを刺せましたわね。あのような輩は、二度と社会に復帰できませんわ」

クロエが扇子をパチンと閉じ、誇らしげに胸を張る。

「……え、なんかあったのか?」

俺は思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。

昨日、レオンたちがこのキャンプサイトへ勝手に転移してきたのは事実だ。だが、今の俺にとっては、あいつらが地上でどんな処罰を受けようが、どうでもいいことだった。それよりも、かまどの上で熱を蓄えている鉄鍋の中身の方が、俺の胃袋にとってはよほど切実な問題なのだ。

「ちょっと、自分のことでしょう!? もう少し嬉しそうにするとか、スッキリした顔をするとかないの!?」

「いや……お前たちが代わりに怒ってくれたのはありがたいが、俺はもう終わったことより、今の昼飯の方が大事なんだよ」

俺が頭を掻きながら答えると、女性陣は一斉に深々とため息をついた。

「本当におじさんって、自分のことなのにマイペースすぎるわ……」

「まあ、それがヒロトの強みでもありますわね。あのような小悪党の末路など、わたくしたちの至福の時間には一切関係ありませんもの」

クロエが苦笑しながら場を収めようとした、その時だった。

「クゥーン……」

俺の足元で、豆柴サイズになったハクが、石造りのかまどをジッと見つめながら、切なそうな声を上げた。その視線の先には、分厚い鉄の蓋がされた魔導ダッチオーブンが鎮座している。

「おっと、そうだった。そろそろいい頃合いだな」

俺は袖を捲り上げ、かまどの前に立った。

その行動に、女性陣の表情が一変する。赫き剣のニュースなど頭から吹き飛び、全員の視線がダッチオーブンへと吸い寄せられた。

「おじさん、それって……もしかして」

「ああ。昨日、お前たちが昼飯で食べた煮込みハンバーグだが……実はあれは、まだ『完成』じゃなかったんだ」

俺がそう告げると、エミリアが「ええっ!?」と悲鳴のような声を上げた。

「あ、あんなに美味しかったのに、完成じゃなかったんですか!?」

「一晩寝かせたことで、ソースの味がすっかり肉に馴染んだはずだ。こいつが本当の完成品だ」

俺は籐子が作った全自動魔導燻製機の横で、弱火でじっくりと再加熱していたダッチオーブンの重い蓋に手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。

蓋の隙間から細く漏れていた蒸気が解放され、濃厚な香りを孕んだ熱気が一気に立ち昇った。

昨日の鮮やかな赤ワイン色だったソースは、一晩寝かせたことでより深く、漆黒に近い艶やかなデミグラス色へと変化している。グツグツと沸き立つソースの海の中で、巨大なハンバーグが静かに鎮座し、その表面から溶け出したチーズがソースと美しいマーブル模様を描いていた。

立ち昇る香りは、昨日とは次元が違った。

赤ワインの酸味の角が取れ、肉の脂の甘み、香味野菜の奥深いコクが、一つの調和となって鼻腔を圧倒する。

「……っ!」

ユジンが息を呑み、エミリアはすでに両手で口を覆って震えている。先ほどまで気怠そうにしていた久美子すら、いつの間にか最前列に陣取り、瞬きもせずに鍋の中を見つめていた。

「よし、食うぞ。昨日の残りのバゲットも軽く炙ってある」

俺は手早くそれぞれの皿に巨大なハンバーグを取り分け、とろみのついた極上のソースをたっぷりと回しかけた。ハクの巨大な木桶には、味付けなしで別に煮込んでおいた肉の塊を放り込んでやる。

「「「いただきます!」」」

誰が号令をかけたわけでもないのに、女性陣の声が見事に揃った。

エミリアがフォークでハンバーグを切り崩し、ソースをたっぷりと絡めて口に運ぶ。

一口含んだ途端、彼女の碧眼が大きく見開かれ、すぐさま蕩けたように細められた。

「んんんっ……! な、なんですかこれ……! 昨日のと全然違います! ソースの味がすっごく濃くて、お肉が口の中でとろけちゃいます……!」

「本当ね……! 昨日の荒々しい感じも良かったけど、このコクの深さは反則よ。ご飯がいくらあっても足りないわ!」

ユジンもクールな表情を崩し、無言で次々とハンバーグを口に運んでいる。

俺も自分の分を口に入れた。

確かに、一晩寝かせた効果は絶大だ。肉の旨味とソースのコクが互いに高め合い、口の中で爆発的な相乗効果を生み出している。バゲットで皿のソースを一滴残らず拭き取って食べたくなる、悪魔的な仕上がりだった。

ふと横を見ると、久美子が自分の皿を抱え込むようにして、黙々とハンバーグを口に運んでいた。

彼女は言葉を発しないが、その口の端にはたっぷりとソースがついており、時折「……んっ」と幸せそうに目を細めている。森で一緒にほうじ茶を飲んでいた時の静かな顔とは違う、ただ食欲に素直な子供のような顔だ。

「おい久美子、口の周りソースだらけだぞ」

俺が呆れて指摘すると、久美子は食べる手を止めず、ペロリと舌を出して口の端を舐め取った。

「……ヒロト。これ、毎日食べたい」

「バカ言え、こんな手間のかかるもん毎日作れるか」

俺が苦笑して返すと、久美子は少しだけ不満そうに目を伏せたが、すぐにまたハンバーグへと意識を戻した。

目の前にある極上の飯と、それを美味そうに平らげてくれる賑やかな居候たち。そして足元で腹を見せて寝転がる神獣。

俺は小さく息を吐き、残りのハンバーグをバゲットに乗せて、大きく口を開けた。