軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第35話 ハナ、ついに生飯テロを食らう

「……はぁぁ……」

空になった丼をテーブルに置き、小島・シャルロット・ハナは、底の見えない深い溜息をついた。

両手で大切そうに包み込んでいる湯呑みからは、食後のさんぴん茶の爽やかな香りが立ち昇っている。だが、彼女の意識はもはやそこにはなかった。

徹夜明け、しかも極度のストレスで冷え切り、ゼリー飲料しか受け付けなくなっていたはずの胃袋。そこに流し込まれた、豚骨と鰹の強烈なダブルスープ。限界まで煮込まれてトロトロになったソーキの暴力的な旨味が、彼女の理性を、そして「ギルドのチーフアナリスト」としての堅牢な鎧をドロドロに溶かしてしまっていた。

ブルーライトカット眼鏡の奥の瞳は焦点が合っておらず、口元はだらしなく緩んでいる。深夜の配信管理センターで、画面越しに何度この男の料理を見せつけられ、身悶えしてきたことか。視覚と聴覚だけの「生殺し」だった日々が報われた圧倒的な多幸感に、彼女はただひたすら浸っていた。

「ハナさん、すっごく美味しそうに食べてましたね! 見てるこっちまで、なんだかもう一杯おかわりしたくなっちゃいます!」

「ちょっとエミリア、さっき自分の分もペロリと平らげていたじゃありませんの。少しはレディとしての自制心を保ちさいな」

「だって、ヒロトさんのご飯は別腹ですから!」

キャンピングチェアからエミリアが無邪気な声を上げ、クロエが呆れたように扇子で口元を隠す。

その賑やかなやり取りに、ハナの肩がビクッと跳ねた。

「……っ、こホン!」

ハナは慌てて咳払いを一つ落とし、姿勢を正して眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。頬にはまだ微かな朱が差しているが、一瞬で「飯テロの被害者」の顔を消し去り、冷徹で理知的なチーフアナリストの顔つきに戻る。その切り替えの早さは、さすがプロフェッショナルと言うべきだろう。

「ごちそうさまでした。……大変、素晴らしいお味でした」

「そりゃよかった。激務明けの胃袋には少し重かったかと思ったが、綺麗に食ってくれて何よりだ」

かまどの前で自分の分のコーヒーを淹れていたヒロトが、穏やかな声で返す。

ハナはタイトなパンツスーツのポケットから特殊な魔力暗号が施されたタブレット端末を取り出し、手元で数回スワイプした。

「さて。先ほどお伝えした『アビス・ラビリンス最深部特別管理官』の件ですが……あなたの特権について、少し補足させてください」

「特権? ここに引きこもってキャンプを続けていいって許可をもらっただけで、俺は十分なんだがな」

「ギルドとしては、そうもいきません。あなたは今や、人類にとって計り知れない利益をもたらす存在です。ダンジョンに対する恐怖心の緩和、そして未知の生態系や素材の安全な観測。あなたの生活環境を保護するためなら、ギルドはあらゆるリソースを割く用意があります」

ハナは淡々と告げ、タブレットの画面をヒロトに向けた。

そこには、転移ゲートの特殊な申請フォームが表示されていた。

「管理官の特権の一つに、『指定した人物をこの最深部へ招待するための特別ゲートを開く権限』があります」

「招待、ねぇ」

「ええ。月に数回という制限はありますが、あなたが望む人物を安全に呼び寄せることが可能です。……例えば、あなたの無実を証明してくれた恩人など」

その言葉に、ヒロトはコーヒーのマグカップを口に運ぼうとしていた手を止めた。

「恩人? 『赫き剣』の連中の悪事がバレたのは、ギルドが優秀だからじゃないのか?」

「私たちが動く決定打となったのは、外部からの匿名のタレコミがあったからです。非常に精緻な魔力残滓の解析データと、あいつらがあなたを囮にした瞬間の完璧な検証動画。それらがなければ、ギルドの重い腰をこれほど迅速に上げることは不可能でした」

ハナの言葉に、ヒロトはわずかに目を丸くした。

自分の知らないところで、誰かがAランクという権力者を相手に危険な橋を渡し、潔白を証明してくれていたというのだ。

「……アカウントを辿った結果、Eランクの探索者であることが判明しました。村田琴美さん。……あなたのチャンネルを爆発的に拡散させた、あの切り抜き動画の作成者でもあります」

ヒロトは静かに口元を引き締め、パチパチと爆ぜる焚き火の火を見つめた。

Eランクといえば、かつての自分と同じ、底辺の探索者だ。そんな彼女が、どれほどの覚悟で自分のために動いてくれたのか。想像に難くない。

「……直接、礼を言わないとな」

ヒロトはタブレットに視線を戻し、ハナに頷きかけた。

「その特権、今すぐ使ってもいいか? 彼女をここに呼んでくれ」

「承知しました。彼女には『ギルド公式の特別記録アシスタント』という名目を与え、本部の転移ルームから直接こちらへ繋ぎます」

ハナが手際よく本部へ通信を繋ぎ、手配を進めていく。

★★★★★★★★★★★

それから三十分後。

キャンプサイトから少し離れた平地に、紫色の転移ゲートが開いた。

シュガッ、と光が収束し、そこから一人のおずおずとした人影が現れた

ダボッとしたサイズの合わないパーカーに、大きな丸眼鏡。栗色のボブヘアを揺らしながら、彼女――村田琴美は、周囲の非現実的な光景に圧倒されたように立ち尽くしていた。ギルド本部に突然呼び出され、有無を言わさずゲートに押し込まれた彼女は、自分が今どこにいるのかすら正確に把握できていないようだった。

だが、彼女の視線が、かまどの前に立つ長髪の巨漢を捉えた瞬間。

「ひっ……!」

琴美は短い悲鳴を上げ、その場にカチンと硬直した。

丸眼鏡の奥の瞳孔が限界まで開き、小刻みに肩が震え始める。画面越しに何百回、何千回と擦り切れるほど見つめ続けてきた「神」が、今、圧倒的な解像度と存在感を持って目の前に立っている。配信の画面では伝わりきらなかった、一九〇センチ近い長身。丸太のような腕。そして、空間を支配するような絶対的な安心感。

「あんたが、村田琴美か。俺はヒロトだ」

ヒロトが歩み寄り、気さくに声をかける。

その低く落ち着いた声が鼓膜を震わせた瞬間、琴美の脳内の許容量は限界を突破した。

「あ、ほ、本物……っ!? 画面越しじゃない、えっ、実在……3D……!? 息遣い、それに焚き火の匂いが……あああっ、情報量が多すぎて処理が……っ!」

「なんだかひどく震えてるな。転移酔いか? それとも、少し寒かったか?」

限界オタクとしてショートを起こしている琴美の様子を、ヒロトは単純な体調不良だと勘違いしたらしい。彼はスッと自分の着ていた厚手のマウンテンパーカーを脱ぎ、琴美の小さな肩にふわりと掛けた。

「ひゃんっ!?」

「まあ、立ち話もなんだ。ちょうど三時のお茶にしようと思ってたところだ。少し歩くが、風通しが良くて落ち着ける場所がある。案内するよ」

ヒロトに背中を優しく押され、琴美は魂が抜けたような、それでいてガチガチに強張ったロボットのような足取りで歩き出した。

彼が着ていたパーカーから漂う、微かな焚き火の匂いと、スパイスの残り香。それが琴美の嗅覚を容赦なく刺激し、心臓の鼓動が耳の奥で狂ったように鳴り響いている。

(むりむりむり! 推しの匂い! 推しの体温! これデート!? 違う、お茶!? 私、しんじゃうの!?)

脳内でパニックサイレンが鳴り響く中、琴美の顔は茹でダコのように真っ赤に染まっていった。

★★★★★★★★★★★

キャンプサイトから十分ほど森を歩き、開けた高台に出た。

眼下には青白く光る湖の全景が広がり、天井の疑似太陽が柔らかな午後の光を投げかけている。他の女性陣は気を利かせてくれたのか、ここにはヒロトと琴美、そして足元をトコトコとついてきた豆柴サイズのハクしかいない。

手頃な太さの倒木に二人が並んで腰を下ろすと、ヒロトはアイテムボックスから、使い込まれたダッチオーブンと木製のプレートを取り出した。

「あんたが色々と動いてくれたおかげで、俺はこうしてここで平穏にキャンプを続けられてる。本当に感謝してるよ」

ヒロトはそう言いながら、プレートの上に小さな陶器の器を置いた。

ダッチオーブンの余熱を利用して直前まで焼き上げていた、特製のフォンダンショコラだ。その横には、アイテムボックスの冷気で保管されていたバニラアイスが添えられている。

「温かいうちに食べてくれ」

差し出されたスプーンを受け取り、琴美はプルプルと震える手でフォンダンショコラに切れ目を入れた。

サクッとした表面が割れると、中から熱々で濃厚なチョコレートが、溶岩のようにとろりと溢れ出す。カカオの芳醇でほろ苦い香りが、一気に周囲に広がった。

琴美は溢れ出した熱いチョコレートと、冷たいバニラアイスを一緒にすくい、そっと口に運ぶ。

「……っ!!」

琴美の目が、限界まで見開かれた。

熱い。冷たい。甘い。でも、少し苦い。

相反する二つの温度と味が口の中で混ざり合った瞬間、琴美の脳内で何かが弾け飛んだ。今まで画面越しに想像することしかできなかった「推しの手料理」の暴力的なまでの美味しさが、キャパオーバー状態の彼女の思考能力を吹き飛ばしたのだ。

「あ……あわわ……っ、ほえ……」

口の端に少しだけチョコレートをつけたまま、琴美の口から語彙力を喪失した変な声が漏れる。

「どうだ? 甘すぎなかったか?」

隣から覗き込むように尋ねるヒロトの声。

琴美は、動画編集の時に見せるような鋭い考察力も、プロ顔負けの分析力もすべて投げ捨てて、ただひたすらに涙を浮かべて首を横に振った。

「やばいです……しんじゃいます……おいしすぎて、むりです……っ」

「そうか、そりゃよかった。ゆっくり食ってくれ」

泣きそうな顔でチョコレートをすくう琴美を見て、ヒロトは満足げに苦笑し、自分用のコーヒーを淹れ始めた。

澄んだ湖の風が吹き抜ける中、神話級の魔獣が足元で心地よさそうに大きな欠伸をする。琴美のスプーンと陶器が触れる微かなカチャカチャという音だけが、静かな最深部の森に響いていた。