作品タイトル不明
第九話 婚約式の時刻表には、感情を書き込めません
休務日の翌朝、私は王家婚姻登録院へ出勤した。
正式には、まだ臨時補佐である。
けれど、受付の職員は私を見ると、ごく自然に一礼した。
「アリシア補佐、おはようございます」
その呼び方に、少しだけ足が止まりそうになった。
公爵令嬢でも、誰かの婚約者でもない。
補佐。
私の仕事に対する呼び名。
それが、まだ少しくすぐったかった。
「おはようございます」
私は礼を返し、二階の確認室へ向かった。
廊下には、今日の登録予定が掲示されている。
正式婚約式が二件。
婚姻式が一件。
婚約内約の受理が四件。
延期願いが一件。
本人意思確認の面談が二件。
そして、赤い札が一つ。
時刻変更願い。
赤い札は、急ぎの確認が必要なものに付けられると聞いていた。
私は足を止め、掲示板の前でその札を見た。
午後三刻。
ラングレー伯爵家令嬢クラリスと、モーガン侯爵家嫡男エリオットの正式婚約式。
時刻変更願いあり。
理由、花婿側親族都合。
花婿側親族都合。
その曖昧な書き方だけで、少し嫌な予感がした。
病ではない。
天候でもない。
本人の急用でもない。
親族都合。
それが正式な婚約式の時刻を動かす理由として出ている。
「早いですね」
背後から声がした。
振り向くと、登録院の女性書記官ユリアが書類を抱えて立っていた。
今日も髪をきっちりまとめ、表情はほとんど動かない。
けれど、目元には少しだけ笑みがあった。
「おはようございます、ユリアさん」
「おはようございます。休務明けに掲示板を見る方は、だいたい仕事が増えます」
「見ない方がよかったでしょうか」
「いいえ。見てしまったなら、もう遅いです」
私は思わず笑ってしまった。
「赤札は、例の件ですか」
「はい。ラングレー伯爵家とモーガン侯爵家の婚約式です」
「親族都合とありますが」
「正確には、花婿の母君が、式の直前に家族だけで祈りの時間を取りたいと申し出ています」
「祈りの時間」
「ええ」
ユリアは、確認室へ歩きながら説明した。
「式の開始を一刻遅らせたい、と」
「一刻」
「さらに、その祈りの時間には花嫁を入れず、モーガン家のみで行いたいそうです」
「花嫁を入れず」
「はい」
私は資料を受け取りながら、眉を寄せないようにした。
婚約式直前。
花婿家だけの祈り。
開始時刻を一刻遅らせる。
それだけ聞けば、単なる家内行事のようにも見える。
けれど、正式婚約式の時刻は、すでに神殿、両家、公証人、登録院で共有されている。
一刻遅らせるということは、その全員の時間を動かすということだ。
「理由は、何でしょう」
「花婿の母君が、息子を手放す前に心を整えたい、と」
「……」
「お気持ちは分かります」
ユリアは淡々と言った。
「ただし、婚約式の時刻表には書けません」
私は資料の表紙を見た。
進行予定。
午後三刻、参列者入場。
午後三刻半、本人意思最終確認。
午後四刻、婚約式開始。
午後四刻半、署名。
午後五刻、登録印確認。
午後五刻半、両家挨拶。
きれいに組まれた時刻表だった。
そこへ突然、一刻の「母君の心を整える時間」を入れろと言われている。
「ヴィクトル様は」
「確認室でお待ちです」
「もう、ですか」
「赤札が出たので」
当然のことのように、ユリアは答えた。
その当然さが、やはりこの場所らしかった。
確認室に入ると、ヴィクトル様はすでに時刻表を見ていた。
その横にはミレーヌ女官長。
小礼拝堂担当の神官マルタもいる。
昨日までの私は、こういう場を見ると少し身構えていた。
自分が全部を答えなければならないような気がしたからだ。
けれど今は違う。
それぞれの人が、自分の役目を持って座っている。
私は、その一つとして呼ばれている。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が顔を上げた。
「はい」
「赤札は見ましたか」
「はい」
「では、所感を」
所感。
初日に比べて、問いが早い。
少しだけ戸惑ったけれど、私は時刻表を見ながら答えた。
「一刻の変更は大きすぎます」
「理由は」
「神殿、公証人、登録院、両家の参列者全員に影響します。さらに、同じ小礼拝堂で夕刻に別の婚約内約祝福があります。後ろの式にも響きます」
「はい」
「また、花婿家だけで祈る時間を式直前に入れると、花嫁側から見れば、自分が外に置かれた形になります」
「はい」
「その時間中、花嫁は待たされます」
言ってから、少しだけ胸の奥が痛んだ。
待たされる。
その言葉は、まだ私の中で新しい傷に触れる。
けれど、仕事の中では避けてはいけない言葉だった。
「続けてください」
ヴィクトル様が静かに言う。
私は頷いた。
「花婿の母君の感情を軽んじるべきではありません。息子の正式婚約に思うところがあるのは自然です」
「はい」
「ですが、その感情を理由に、花嫁本人と関係者全員の時刻を動かすことはできません」
「結論は」
「一刻の開始遅延は認めない方がよいと思います」
「代替案は」
私は時刻表を見た。
ただ却下するだけでは、おそらく反発が大きくなる。
必要なのは、感情を時刻表から追い出すことではない。
感情を、式を壊さない形に置くことだ。
「祈りの時間を、式の前ではなく、前日または当日の午前に移します」
「ほかには」
「花婿家だけで行うなら、登録院の時刻表外で。神殿内の小祈祷室を使う場合は、正式婚約式とは別枠で申請」
「花嫁の扱いは」
「婚約式直前に花嫁を待たせる形は避けます。もし式当日に行うなら、両家合同の短い祈りにするべきです」
「よろしい」
ヴィクトル様は頷いた。
その短い言葉で、肩の力が少し抜ける。
ミレーヌ女官長が、私の案に少し言葉を足した。
「花婿の母君には、午前の小祈祷室を提案しましょう。息子を手放す前の祈りとして、神殿側が正式に受けます。ただし、婚約式の開始時刻は動かさない」
「文面は、感情を否定しない形で」
マルタ神官が言った。
「神殿として、母君の祈りそのものは尊重します」
「はい」
私は頷いた。
「ただし、時刻表には入れない」
ヴィクトル様が、こちらを見る。
「その通りです」
彼は、手元の紙へ一行を書いた。
婚約式の時刻表には、感情を書き込めない。
あまりにもそのままの一文だったので、私は少しだけ目を瞬いた。
「その一文も記録するのですか」
「内部記録です」
「随分はっきりしていますね」
「はっきりしていない内部記録は、後で使えません」
「確かに」
「ただし、相手方への文面にはそのまま書きません」
「それは安心しました」
ユリアが、横で小さく咳払いをした。
たぶん笑いをこらえたのだと思う。
そこへ、受付から伝令が来た。
モーガン侯爵夫人が、すでに登録院へ来ているという。
早い。
そして、少し厄介だと思った。
こういう申し出は、紙で出したあと、本人が来ると押し切れると考える人がいる。
けれどここは、王家婚姻登録院だ。
「面会します」
ヴィクトル様が言った。
「ミレーヌ女官長、マルタ神官、ユリア書記官。アリシア嬢も同席を」
「私も、ですか」
「時刻表への影響を説明する補佐として」
「承知しました」
「ただし、決裁は私がします」
「はい」
その一言がありがたかった。
私は説明する。
けれど、最終的な線を引くのは監督官であるヴィクトル様。
役目が明確であれば、怖さは少し減る。
面会室に入ると、モーガン侯爵夫人はすでに座っていた。
深い緑のドレス。
手元には、白いレースのハンカチ。
目元は少し赤い。
年の頃は四十代半ばだろうか。
美しい方だが、今は不安と苛立ちで表情が硬くなっていた。
「レオニス大公子殿下」
彼女は立ち上がり、一礼した。
「急な申し出をお許しください」
「申し出は受け取りました」
ヴィクトル様は、向かいに座る。
「本日は、午後四刻開始予定の正式婚約式についてですね」
「はい」
「開始を一刻遅らせたいとのこと」
「ええ」
「理由は、花婿家のみの祈りの時間を式直前に設けたいから」
「その通りです」
侯爵夫人はハンカチを握った。
「息子は、私にとって一人息子なのです。正式婚約をすれば、いずれはラングレー伯爵家の娘を妻に迎え、家も変わっていきます。その前に、家族だけで心を整える時間が欲しいのです」
声は切実だった。
嘘ではないのだろう。
息子を手放す寂しさ。
家に新しい人を迎える不安。
その感情は、否定されるべきものではない。
ミレーヌ女官長が穏やかに言った。
「侯爵夫人のお気持ちは、理解いたします」
「でしたら」
「ただし、婚約式の開始時刻は動かせません」
侯爵夫人の顔が強張る。
「なぜです」
ヴィクトル様が、私へ視線を向けた。
説明を、という合図だった。
「モーガン侯爵夫人」
私は一礼してから口を開いた。
「本日の正式婚約式は、午後四刻開始で神殿、公証人、王家婚姻登録院、両家に共有されています」
「存じています」
「午後三刻半から、花嫁候補と花婿候補の本人意思最終確認があります」
「それは、少しくらい」
「その後、署名、公証、登録印確認、両家挨拶が続きます。さらに、同じ小礼拝堂で夕刻に別の祝福式が予定されています」
「……」
「一刻遅らせると、後続の式にも影響します」
「ですが、息子の婚約式です」
「はい」
私は頷いた。
「だからこそ、花嫁候補であるクラリス・ラングレー令嬢を、式直前に一刻待たせる形にはできません」
侯爵夫人の手が止まった。
「待たせる、だなんて」
「花婿家だけで祈りを行い、その間、花嫁側は控え室で待つことになります」
「それは」
「婚約式の直前に、花嫁候補だけが外に置かれます」
侯爵夫人は、すぐには答えなかった。
たぶん、そこまで考えていなかったのだろう。
自分たちの祈りの時間を取る。
その外で、誰が待つのか。
その待つ時間がどう見えるのか。
そこが抜けていた。
「私たちは、クラリス嬢を軽んじるつもりはありません」
「はい」
「本当に、ただ、家族の時間が欲しいだけで」
「そのお気持ちを否定するものではありません」
マルタ神官が、穏やかに続けた。
「神殿として、小祈祷室をお貸しできます。本日の午前、または式後の夕刻。もしくは明日の朝に、モーガン家のみの祈りを行うことは可能です」
「式前でなければ」
「式当日の午前なら可能です」
ミレーヌ女官長が資料を出す。
「ただし、午後三刻半以降の婚約式進行には入れません。また、直前の控え時間を花婿家だけのためには使いません」
侯爵夫人は、しばらく黙っていた。
その沈黙には、怒りと、恥と、少しの納得が混じっているように見えた。
「私は」
彼女は低く言った。
「息子を取られるような気がしていたのです」
その言葉は、とても個人的なものだった。
面会室には不似合いかもしれない。
けれど、出てしまったものをなかったことにはできない。
私は口を開く前に、一度ミレーヌ女官長を見た。
彼女は小さく頷く。
続けてよい、ということだと思った。
「侯爵夫人」
「はい」
「婚約式は、息子を奪われる儀式ではありません」
彼女が私を見る。
「エリオット様が、ご自分の意思でクラリス様と婚約する場です」
「……」
「クラリス様もまた、ご自分の意思でエリオット様と婚約するために来られます」
「……」
「その場の前に、片方の家だけで時間を止めれば、もう片方は外に置かれてしまいます」
侯爵夫人の目が、少しだけ揺れた。
「私は、クラリス嬢にそんな思いをさせるつもりは」
「では、式の時刻はそのままにしてください」
私は言った。
「その上で、息子を思うお気持ちは、別の形で置いてください」
「別の形」
「小祈祷室での祈り。あるいは、式後にクラリス様も含めた家族の祈りを行うこともできます」
マルタ神官が頷く。
「両家合同の短い祈りなら、式後に神殿で整えられます」
侯爵夫人は、ハンカチを握り直した。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……式前ではなく、式後に」
「はい」
「クラリス嬢も含めて」
「はい」
「それなら、息子を失う祈りではなく、迎える祈りになりますね」
その言葉に、私は少しだけ胸の奥が温かくなった。
侯爵夫人は、完全に納得したわけではないだろう。
寂しさが消えたわけでもない。
でも、自分の感情を式の時刻表へ押し込むのではなく、別の場所へ置こうとしている。
それで十分だった。
「その形でお願いいたします」
侯爵夫人は、深く頭を下げた。
「式の開始時刻は、予定どおりで」
ヴィクトル様が頷く。
「承知しました。登録院より、変更願い取り下げと、式後の両家合同祈祷申請として処理します」
「ありがとうございます」
「アリシア嬢」
「はい」
「処理案を」
私はすぐに紙を取った。
正式婚約式の開始時刻は変更しない。
モーガン侯爵家より出された時刻変更願いは取り下げ。
代替として、式後、両家合同の短い祈祷を神殿小祈祷室にて実施。
参加者は、花婿候補、花嫁候補、両家当主、両家母君まで。
婚約式本体の進行には影響させない。
書き終えて、ヴィクトル様へ渡す。
彼は目を通し、短く頷いた。
「よろしい」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
侯爵夫人が退出したあと、面会室には静かな空気が残った。
重くはない。
むしろ、何かが正しい場所へ戻った後の静けさだった。
「アリシア嬢」
ミレーヌ女官長が言った。
「よい説明でした」
「ありがとうございます」
「感情を否定せず、時刻表からは外す。今日はそこが大事でした」
「少し、難しかったです」
「難しいから、複数人で扱います」
「はい」
私は頷いた。
感情を切り捨てるのではない。
けれど、感情で正式儀式を動かさない。
その境界を探す仕事なのだ。
午後四刻。
ラングレー伯爵令嬢クラリスと、モーガン侯爵家嫡男エリオットの婚約式は、予定どおりに始まった。
クラリス様は少し緊張していたが、待たされた顔ではなかった。
エリオット様も、きちんと定刻に立っていた。
モーガン侯爵夫人は、参列席の最前列でハンカチを握っていた。
泣いてはいた。
けれど、その涙で式を止めようとはしなかった。
本人意思確認。
署名。
公証。
登録印。
そして鐘。
小礼拝堂に、正式婚約成立の鐘が鳴った。
その音を聞きながら、私は昨日の時刻表を思い出した。
あの赤札。
花婿の母君の感情。
花嫁を待たせるはずだった一刻。
それらが、式の中には入らなかった。
代わりに、式後の小祈祷室で、両家合同の祈りが行われた。
祈りの場で、モーガン侯爵夫人はクラリス様へ言った。
「お待たせしなくてよかったわ」
クラリス様は少し驚いた顔をし、それから微笑んだ。
「ありがとうございます」
その短い言葉だけで、今日の処理は間違っていなかったのだと思えた。
誰かの寂しさを消すことはできない。
でも、その寂しさで誰かを外へ置かずに済む形は作れる。
勤務が終わる頃、私は確認室の机で今日の報告を書いていた。
ヴィクトル様が、向かいで別の書類を閉じる。
「今日の所感は」
「婚約式の時刻表は、ただの時間割ではないのだと思いました」
「続けてください」
「誰がいつ来て、誰がどこで待つのか。それが、そのまま扱いの形になります」
「はい」
「感情は大切です。けれど、時刻表に感情を書き込むと、その時間を誰が負担するのかが見えにくくなります」
「よい整理です」
「褒められましたか」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「今日は分かりました」
「改善の成果です」
「そうですね」
ヴィクトル様は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「明日は、少し厄介な案件があります」
「どのような?」
「代理出席の申し出です」
私は思わず手を止めた。
「婚約式に、代理で出席するということですか」
「そうです」
「本人ではなく?」
「はい」
「それは」
「成立しません」
即答だった。
「ただし、申し出た家は成立すると考えています」
「なぜですか」
「本人は恥ずかしがり屋だから、姉が代わりに立てばよい、と」
私はしばらく言葉を失った。
今日、エミリア様の声を守ったばかりだ。
それなのに、今度は本人そのものを出さないという。
「婚約式に必要なのは、家名ではなく本人です」
「その通りです」
「では、明日はそれを確認するのですね」
「はい」
ヴィクトル様は、私を見る。
「疲れていなければ」
「やります」
「即答ですね」
「本人の代わりに誰かが立つ婚約式を、放っておく理由はありません」
「よろしい」
彼は、いつものように短く頷いた。
その短さにも、もうだいぶ慣れてきた。
そして、少し安心するようにもなっていた。
帰りの馬車寄せで、ヴィクトル様は今日も私を見送った。
馬車に乗る前、私はふと彼へ尋ねた。
「ヴィクトル様」
「はい」
「婚約式の時刻表には、感情を書き込めません」
「はい」
「でも、人の感情を見ない時刻表も、きっと冷たすぎますね」
ヴィクトル様は、少しだけ考えた。
「だから、別の欄を作るのです」
「別の欄」
「時刻表ではなく、配慮欄です」
その答えがあまりにも実務的で、私はまた笑ってしまった。
「本当に、あなたらしいです」
「褒め言葉でしょうか」
「もちろん」
ヴィクトル様が、ほんの少しだけ目を細めた。
私は馬車へ乗る。
扉が閉まる前に、彼は言った。
「明日も、あなたの時刻は勝手に使いません」
胸の奥が、静かに温かくなった。
「はい」
私は微笑んだ。
「では、明日も私の意思で出勤します」
馬車が動く。
夕暮れの王宮が遠ざかる。
今日も、婚約式の鐘は正しく鳴った。
誰かの感情を消したわけではない。
ただ、その感情で別の誰かを待たせずに済んだ。
それだけのことが、今の私には十分に大きかった。