作品タイトル不明
第十話 代理出席で婚約は成立しません
翌朝、王家婚姻登録院の確認室には、いつもより早い時間から人が集まっていた。
机の上には、赤い札のついた申請書。
正式婚約式における代理出席願い。
その表題を見ただけで、私は胸の奥が少し重くなるのを感じた。
代理。
その言葉は、式においてはとても危うい。
家の代理人なら分かる。
書類の提出代理なら分かる。
両家代表の代理出席も、場合によっては認められる。
けれど、婚約式で誓う本人の代理は違う。
そこだけは、誰かが代われる場所ではない。
「案件を整理します」
ユリア書記官が、資料を一枚ずつ並べた。
彼女の声はいつも通り淡々としている。
けれど、机の上に置かれた赤札の角度は、いつもより少し正確すぎる気がした。
「花嫁候補は、マリアベル・サザーランド子爵令嬢」
「花婿候補は、セドリック・オルセン伯爵令息」
「両家の婚約内約は成立済み」
「明後日、聖アリア神殿の中礼拝堂にて正式婚約式予定」
「問題は、サザーランド家より、花嫁本人の代理として姉のヘレナ・サザーランド令嬢を式に立てたいとの申し出があったことです」
ミレーヌ女官長が、わずかに眉を寄せた。
「理由は?」
「マリアベル令嬢が極度の恥ずかしがり屋で、人前へ立つと倒れる可能性があるため、と」
「医師の診断書は」
「ありません」
「神殿への事前相談は」
「ありません」
「本人の希望書は」
「ありません」
私は、資料の一番下を見る。
サザーランド家からの願い書には、美しい筆跡でこう書かれていた。
妹マリアベルは、幼少より人前に立つことが不得手であり、正式婚約式の場において声を発することは困難と思われます。
姉ヘレナは、同じサザーランド家の娘であり、妹の意思をよく理解しております。
つきましては、式当日、花嫁候補の位置にはヘレナを立たせ、誓約の返答を代行させることをお認めいただきたく存じます。
私はその文を、もう一度読んだ。
丁寧な文面だった。
悪意のある書き方ではない。
むしろ、妹を守りたいという気持ちがにじんでいる。
けれど、それでも認められない。
「本人の意思をよく理解している」
私は小さく繰り返した。
「理解していることと、本人になることは違いますね」
「その通りです」
ヴィクトル様が言った。
彼は窓際に立っていたが、資料にはすでに目を通しているらしい。
「正式婚約式は、家の合意を確認する場ではありません」
「本人同士の意思を確認する場です」
「はい」
「では、代理出席は」
「認めません」
即答だった。
だが、それで終わらないことは全員分かっている。
申請を却下するだけなら簡単だ。
問題は、なぜそんな申請が出たのか。
マリアベル令嬢本人は、本当に式へ立てないのか。
姉ヘレナ令嬢は、妹を守ろうとしているのか、それとも妹の声を奪おうとしているのか。
そこを確認しないまま進めれば、また別の形で式が歪む。
「本日午前、サザーランド家とオルセン家の確認面談を行います」
ミレーヌ女官長が言った。
「マリアベル令嬢本人の面談は、まず女性のみで」
「はい」
私は頷いた。
「姉ヘレナ令嬢も同席させますか」
「最初は別です」
ヴィクトル様が答えた。
「代理を申し出た側の言葉が先にあると、本人の声が隠れます」
「分かりました」
「アリシア嬢」
「はい」
「今日あなたに見てほしいのは、二つです」
「二つ」
「本人が婚約を望んでいるか」
「はい」
「そして、本人が本当に姉の代理を望んでいるか」
私は資料を見下ろした。
「望んでいない可能性があるのですね」
「あります」
「逆に、本当に望んでいる可能性も?」
「あります」
ヴィクトル様は、静かに続けた。
「だから確認します」
その言葉は、登録院の基本そのものだった。
決めつけない。
同情だけで動かない。
怒りだけでも動かない。
確認する。
そして、本人の意思を式に届く形へ整える。
午前二刻。
マリアベル・サザーランド令嬢が、王家婚姻登録院へ到着した。
彼女は、思っていたよりも小柄な少女だった。
年は十七。
私より少し下だ。
淡い亜麻色の髪を低く結い、薄い水色のドレスを着ている。
顔色は悪くない。
ただ、視線がずっと床に落ちていた。
両手は、胸の前で固く握られている。
その後ろには、姉のヘレナ・サザーランド令嬢。
彼女は妹と違って背が高く、落ち着いた美しい人だった。
濃い青のドレスに、きちんと結い上げられた髪。
どこから見ても、婚約式の場に立てる令嬢だ。
だからこそ、危うい。
並んでしまうと、周囲は姉の方を見てしまう。
「マリアベル様」
ミレーヌ女官長が、柔らかく声をかけた。
「本日は、まずあなたご本人のお話を伺います」
「……はい」
マリアベル様の声は小さい。
けれど、聞こえた。
エミリア様の時と同じだ。
話せないのではない。
話す場を選ぶ必要があるのだ。
「ヘレナ様には、別室でお待ちいただきます」
その瞬間、ヘレナ様の表情がわずかに動いた。
「私も同席した方が、妹が安心するかと」
「最初の面談は、本人のみで行います」
「ですが、マリアベルは昔から私がいないと」
「ヘレナ様」
ミレーヌ女官長の声は穏やかだった。
けれど、揺れなかった。
「あなたが妹君を心配していることは分かります」
「はい」
「ですが、あなたがいるから言えないこともあります」
ヘレナ様は息を呑んだ。
私は、その表情を見て、少しだけ胸が痛んだ。
彼女はたぶん、悪意で妹を覆っているわけではない。
妹を守ってきた。
ずっとそうしてきた。
だから、自分がいない方が妹の声が出るかもしれないという可能性を、考えたことがなかったのだろう。
「……分かりました」
ヘレナ様は一礼し、別室へ案内された。
マリアベル様は、姉の背を不安そうに見送った。
けれど、引き止めなかった。
面談室には、私、ミレーヌ女官長、ユリア書記官、マルタ神官が入った。
男性はいない。
窓際に置かれた丸い卓。
威圧感のない椅子。
小さな水差し。
昨日と同じように、本人の声を聞くための部屋だった。
「マリアベル様」
ミレーヌ女官長が切り出す。
「今日の面談は、あなたを責めるためのものではありません」
「はい」
「明後日の正式婚約式について、あなたご本人の意思を確認するためのものです」
「はい」
「あなたは、セドリック・オルセン様との婚約を望んでいますか」
マリアベル様は、すぐには答えなかった。
指先が震えている。
目は床を見たまま。
私は、彼女の沈黙を急かさないように息を整えた。
「……望んでいます」
かすかな声だった。
でも、はっきりそう言った。
「セドリック様ご本人との婚約を?」
「はい」
「家のためだけではなく?」
「はい」
「では、婚約式に出席する意思はありますか」
ここで、マリアベル様の指がさらに強く握られた。
先ほどより長い沈黙。
ユリア書記官のペンは止まったまま。
ミレーヌ女官長も、マルタ神官も待っている。
私は、ようやく分かってきた。
待つとは、本来こういうことでもあるのだ。
相手に返事を押しつけるためではなく、相手の返事が出る場所を守るために使う時間。
「出席……したいです」
マリアベル様は言った。
「でも、怖いです」
「何が怖いですか」
ミレーヌ女官長が問う。
「人に見られることですか」
「それも、あります」
「ほかには」
「間違えたら、姉に迷惑をかけること」
姉に。
私は、その言葉を聞き逃さなかった。
「ヘレナ様に、ですか」
思わず確認すると、マリアベル様は小さく頷いた。
「姉は、いつも私の代わりにしてくれました」
「代わりに」
「挨拶も、返事も、社交の席も」
「あなたが頼んだのですか」
「最初は、はい」
マリアベル様は、膝の上の手を見つめた。
「怖くて、声が出なくて、姉が代わりに言ってくれて、ほっとしました」
「はい」
「でも、そのうち、私が言う前に、姉が答えるようになりました」
部屋が静かになった。
「お父様もお母様も、ヘレナがいるから大丈夫だと」
「……」
「私も、そう思おうとしました」
彼女の声が、少しだけ震える。
「でも、婚約式だけは、自分で言いたいです」
その言葉は、小さかった。
けれど、部屋の全員に届いた。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「では、ヘレナ様の代理出席を望んでいないのですね」
ミレーヌ女官長が確認する。
マリアベル様は、今度ははっきり首を縦に振った。
「望んでいません」
「自分で式に立ちたい」
「はい」
「自分で返事をしたい」
「はい」
「声が小さくても?」
「はい」
「時間がかかっても?」
「はい」
「では、そのように記録します」
ユリア書記官のペンが動き出す。
その音を聞いた瞬間、マリアベル様の目から涙が落ちた。
彼女は慌てて拭おうとしたが、マルタ神官が白い布を差し出す。
「泣いても、記録は変わりません」
神官は穏やかに言った。
「今の言葉は、もう届いています」
マリアベル様は布を受け取り、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
面談はその後も続いた。
式当日の人数。
立つ位置。
セドリック様との距離。
返事の方法。
声が出ない場合の合図。
ヘレナ様を完全に排除するか、それとも式後の祝福席に置くか。
マリアベル様は、少しずつ答えた。
「姉を嫌いではありません」
彼女は言った。
「むしろ、ずっと守ってくれました」
「はい」
「だから、式に出ないでほしいと言うのは、少し怖いです」
「では、式そのものには同席せず、式後の祝福席にいてもらう形はどうでしょう」
私が提案すると、マリアベル様は顔を上げた。
「そんなことができますか」
「正式婚約式の場に必要な人と、式後の祝福に立ち会う人は分けられます」
マルタ神官が頷いた。
「可能です。式場内には必要な立会人のみ。式後、小祈祷室で家族祝福の時間を置けます」
「姉も、そこなら」
「はい」
マリアベル様は、少しだけ表情を緩めた。
「それがいいです」
私はその顔を見て、ほっとした。
ヘレナ様を断ち切ればよいわけではない。
姉妹の関係には、積み重なった時間がある。
問題は、姉が妹の代わりに祭壇へ立つことだ。
そこを分けることができれば、守れるものもある。
最後に、マリアベル様は確認文を書いた。
私は、セドリック・オルセン様との婚約を望みます。
正式婚約式には、自分で出席します。
返答は自分の声で行いたいです。
姉ヘレナの代理出席は望みません。
ただし、式後の家族祝福には、姉にもいてほしいです。
震える字だった。
でも、彼女自身の字だった。
「これでよろしいですか」
ユリアが確認する。
「はい」
マリアベル様は、今度は迷わず答えた。
次は、ヘレナ様との面談だった。
彼女は別室で待つ間も、ずっと落ち着いた姿勢で座っていたらしい。
けれど、面談室へ入ってきた時、その目元にはかすかな不安があった。
「マリアベルは、大丈夫でしたか」
最初の言葉がそれだった。
私は、その言葉に少しだけ救われた気がした。
この人は、妹の座を奪いたいのではない。
本当に心配している。
ただ、その心配が長く続きすぎて、妹の声の上に覆いかぶさってしまったのだ。
「ヘレナ様」
ミレーヌ女官長が、面談を始める。
「マリアベル様ご本人の意思確認が終わりました」
「はい」
「マリアベル様は、セドリック様との婚約を望んでいます」
「それは、よかったです」
「そして、正式婚約式には自分で出席し、自分で返答したいと希望しています」
ヘレナ様の顔から、ほんの少し血の気が引いた。
「……自分で?」
「はい」
「でも、あの子は人前で声が出なくなります」
「そのために、式の人数を制限し、声が出ない場合の合図も決めます」
「それでも、もし失敗したら」
「式は止められます」
「止める?」
「はい」
ミレーヌ女官長は穏やかに答えた。
「失敗してそのまま進める必要はありません。本人が落ち着くまで待つことができます」
ヘレナ様は、信じられないものを見るような顔をした。
「待つのですか」
「はい」
「あの子のために、式を」
「正式婚約式は、マリアベル様ご本人のための式でもあります」
その言葉に、ヘレナ様は黙った。
私は、少しだけ胸が痛んだ。
おそらくこの人は、妹のためにずっと先回りしてきた。
妹が困らないように。
妹が恥をかかないように。
妹が失敗しないように。
けれど、その結果、妹が自分で立つ時間を奪っていた。
「ヘレナ様」
私は口を開いた。
「あなたは、マリアベル様を守ってこられたのですね」
彼女は私を見た。
「もちろんです。妹ですから」
「はい」
「小さい頃から、あの子は声が小さくて、人前へ出ると震えてしまって」
「はい」
「だから私が前に出ました。私が挨拶をして、私が返事をして、私が」
そこまで言って、彼女は言葉を止めた。
自分で気づいたのだろう。
私が何も言わなくても。
「……私が、全部言っていました」
その声は、思ったよりも小さかった。
「妹が言う前に」
ミレーヌ女官長も、ユリアも、何も言わなかった。
責める沈黙ではない。
彼女が自分の言葉を見つけるための沈黙だった。
「マリアベルは、私を嫌がっていましたか」
「嫌ってはいません」
私は答えた。
「むしろ、感謝していました」
ヘレナ様の目が揺れる。
「ただ、婚約式だけは自分で立ちたいと」
「……そう」
「式後の家族祝福には、あなたにもいてほしいそうです」
その瞬間、ヘレナ様の表情が崩れた。
泣きそうになったのを、彼女は必死にこらえる。
「完全に拒まれたわけでは、ないのですね」
「はい」
「でも、祭壇には立てない」
「立つのは、マリアベル様です」
「そうですね」
ヘレナ様は、ゆっくり頷いた。
「当たり前のことなのに、私は忘れていました」
「守ることと、代わることは違います」
私が言うと、ヘレナ様は深く息を吐いた。
「ええ。本当に」
そして、彼女は頭を下げた。
「代理出席の申し出を、取り下げます」
ユリアがすぐに記録する。
ペンの音が、今日も部屋に響いた。
「ただし」
ヘレナ様は言った。
「式後の家族祝福には、出てもよろしいでしょうか」
「マリアベル様が望んでいます」
ミレーヌ女官長が答えた。
「ぜひ、ご出席ください」
ヘレナ様は、今度こそ涙を一粒だけこぼした。
その涙は、後悔だけではないように見えた。
妹を手放す寂しさと、妹が自分で立つことへの誇らしさが、少しだけ混じっていたのだと思う。
午後、セドリック・オルセン様との面談も行われた。
彼は、代理出席願いのことを知らなかったらしい。
資料を見せられた瞬間、はっきり顔色を変えた。
「マリアベルの姉上が、代わりに?」
「サザーランド家からの申し出です」
ヴィクトル様が説明する。
「あなたは承知していましたか」
「いいえ」
「承知していた場合、認めるつもりでしたか」
「いいえ」
セドリック様は即答した。
「僕が婚約したいのは、マリアベルです。サザーランド家の誰かではありません」
その言葉に、私は胸の奥が少し温かくなった。
婚約式で必要なのは、こういう当たり前なのだ。
でも、その当たり前は、放っておくと家の都合や善意や不安で簡単に隠れる。
「彼女は、人前が苦手です」
セドリック様は続けた。
「でも、僕の前では話してくれます。手紙もくれます。返事が遅くても、彼女の言葉は彼女のものです」
「式当日、彼女の返答に時間がかかる可能性があります」
「待ちます」
また、即答だった。
「式が止まっても?」
「待ちます」
「周囲がざわついても?」
「僕が黙らせます」
ヴィクトル様が、少しだけ眉を上げた。
セドリック様は慌てて言い直す。
「いえ、神殿と登録院の指示に従って、静かに待ちます」
その訂正に、私は少し笑ってしまった。
ヴィクトル様の口元も、わずかに動いた気がする。
「よい返答です」
ヴィクトル様は言った。
「婚約式は、相手の声を待てるかどうかも問われます」
「はい」
「ただし、待つと決めるのはあなたです。彼女に待たせていると思わせるためではありません」
「分かっています」
セドリック様の声は、若いがまっすぐだった。
「僕は、マリアベルの返事を聞くために立ちます」
その言葉は、記録された。
たぶん、マリアベル様が後で聞けば、少し安心するだろう。
夕方までに、代理出席願いは正式に取り下げられた。
代替として、式本体は少人数で行う。
返答は本人の声で。
声が出ない場合は、花束を握り直す合図で一時停止。
姉ヘレナ様は式本体には同席せず、式後の家族祝福に出席。
すべて、文書になった。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が、確認室で資料を閉じた。
「今日の所感は」
「守ろうとする人が、本人の声を覆ってしまうこともあるのだと思いました」
「はい」
「ヘレナ様は、悪意で妹の代理に立とうとしたわけではありませんでした」
「はい」
「だからこそ、難しかったです」
「なぜ」
「悪意なら、止めればいいだけです」
私は言葉を探した。
「でも、善意で代わろうとしている人には、あなたは守っているのではなく奪っているのだと、言わなければならない」
「言えましたか」
「少しは」
「十分です」
ヴィクトル様は言った。
「今日の件は、式を壊す前に止めました」
「はい」
「それが大事です」
私は頷いた。
「代理出席で婚約は成立しません」
「その通りです」
「でも、代理出席を申し出た理由を聞かなければ、姉妹の関係まで壊していたかもしれません」
「それも、その通りです」
ヴィクトル様は、少しだけ目を細めた。
「あなたは、手続きと感情の置き場所を分けられるようになってきましたね」
「褒められていますか」
「はい」
「今日は分かりやすいです」
「それはよかった」
確認室の窓の外では、夕方の光が石壁を淡く染めていた。
婚約式は、まだ明後日だ。
成功したわけではない。
でも、少なくとも代理の花嫁が祭壇に立つことはなくなった。
マリアベル様は、自分で立つ。
自分の声で返事をする。
それを待つ人もいる。
それだけで、今日の仕事には意味があった。
帰り支度をしていると、ミレーヌ女官長が私へ小さな封筒を渡した。
「マリアベル様からです」
「私に?」
「はい」
封を開けると、短い手紙が入っていた。
震える文字。
けれど、昨日より少し力のある線だった。
代理ではなく、自分で立つと決めました。
怖いです。
でも、私の婚約式なので、私が返事をします。
そのあと、姉にもありがとうと言いたいです。
私はその手紙を、しばらく見つめていた。
怖い。
でも、自分で立つ。
その二つは、同時にあっていいのだ。
怖くなくなるまで誰かに代わってもらうのではなく、怖いまま立てる形を作る。
この仕事は、そういうものなのかもしれない。
馬車寄せで、ヴィクトル様が言った。
「今日は、待たせませんでした」
「何をですか」
「あなたの帰りの馬車です。もう来ています」
私は思わず笑ってしまった。
「それも手続きですか」
「配慮欄です」
「昨日の話を覚えていらしたのですね」
「困る程度に」
「少し困ります」
「では、適切です」
彼の返答に、また笑ってしまう。
昨日より、笑うことに罪悪感が少なくなっている。
それが少し嬉しかった。
「ヴィクトル様」
「はい」
「明後日の式で、マリアベル様の声が届くとよいですね」
「届かせるのではありません」
「はい」
「届く場所を作るのです」
その言葉に、私は頷いた。
「では、その場所を作ります」
「一緒に」
短い一言だった。
でも、胸の奥が静かに温まった。
私は馬車へ乗る前に、一礼した。
「明日もよろしくお願いいたします」
「明日も、あなたの時刻を勝手に使いません」
「では、私の意思で出勤します」
「お待ちしています」
待つ。
その言葉が、以前ほど痛くなかった。
なぜなら、今のそれは、私を当然のように置き去りにする言葉ではないからだ。
明日、私は自分の意思で来る。
ヴィクトル様は、それを待つ。
それだけのことが、今は少しだけ心地よかった。
馬車が動き出す。
窓の外で、王家婚姻登録院の建物が遠ざかっていく。
今日もまた、誰かの声が代理に奪われる前に止められた。
明後日、その声が式に届くかどうかは、まだ分からない。
でも、届く場所は作れる。
私はそのために、明日もこの場所へ向かうのだろう。