作品タイトル不明
第十一話 姉の声ではなく、私の声で答えます
マリアベル・サザーランド令嬢の婚約式当日は、朝から細い雨が降っていた。
強い雨ではない。
窓硝子に薄く線を引くような、静かな雨だった。
王家婚姻登録院の二階から聖アリア神殿の中庭を見ると、白い石畳が少しだけ濡れている。
神殿職員が滑り止めの布を敷き、参列者用の外套掛けを増やしていた。
「雨ですね」
私が言うと、ユリア書記官が書類から目を上げずに答えた。
「雨です」
「式には影響しますか」
「中礼拝堂ですから、入場導線だけです。すでに変更済みです」
「早いですね」
「雨なので」
あまりにも当然の返事で、私は少し笑ってしまった。
この場所では、天候も感情も、まず確認される。
雨だから慌てるのではない。
雨だから、導線を変える。
それだけのことが、ひどく頼もしい。
今日の式は、中礼拝堂で行われる。
マリアベル様とセドリック様の正式婚約式。
昨日までに、代理出席願いは取り下げられた。
姉のヘレナ様は、式本体には同席しない。
式後の家族祝福には出席する。
叔父のガレス・サザーランド氏は、式場外待機。
入場権限はない。
すべて文書にして、両家へ通達済みだった。
「アリシア嬢」
ミレーヌ女官長が確認室へ入ってきた。
今日も無駄のない歩き方だ。
彼女が来ると、室内の空気が少しだけ整う。
「マリアベル様が到着されました」
「体調は」
「緊張されています。ですが、体調不良ではありません」
「ヘレナ様は」
「式後祝福室で待機されています。今のところ、式場へ入ろうとはしていません」
「ガレス氏は」
「神殿外応接室です。少し不満そうですが、護衛と登録院職員がついています」
「少し、で済んでいるのですね」
「今のところは」
その言い方に、私は手元の書類をそっと揃えた。
式は、始まる前が一番崩れやすい。
誰かが「少しだけ」と言って扉を開けようとする。
誰かが「家族だから」と言って場に入り込もうとする。
誰かが「心配だから」と言って本人の声を覆おうとする。
その小さな隙間を閉じるために、私たちはここにいる。
控え室には、マリアベル様がいた。
淡い水色の婚約式用の衣装。
袖口には白い刺繍。
手元には、小さな白い花束。
昨日決めた合図用の花束だ。
声が出なくなったら、左手で握り直す。
その場合、式を一度止める。
「アリシア様」
マリアベル様は、私を見ると立ち上がろうとした。
私は手で制した。
「座ったままで大丈夫です」
「でも」
「今日は、あなたが無理なく返事をすることが最優先です」
彼女は少し迷い、それから小さく頷いて座り直した。
昨日より顔色は悪くない。
けれど、指先はやはり震えている。
「眠れましたか」
「少しだけ」
「十分です」
「十分でしょうか」
「婚約式前日に少しでも眠れたなら、十分だと思います」
そう言うと、彼女はかすかに笑った。
その表情に、少しだけ力が戻る。
「ヘレナ姉様は」
「式後祝福室でお待ちです」
「怒っていませんか」
「お会いしていないので、断言はできません」
私は少しだけ言葉を選ぶ。
「でも、昨日、あなたの意思を聞いて、代理出席願いを取り下げてくださいました」
「はい」
「だから今日は、あなたが自分で立つ日です」
マリアベル様は、花束を見下ろした。
「姉がいないと、少し怖いです」
「はい」
「でも、姉がいると、きっと姉の顔を見てしまいます」
「はい」
「そうすると、姉が答えてくれるのを待ってしまうと思います」
彼女はゆっくり息を吐いた。
「だから、これでいいのだと思います」
その言葉は小さかった。
けれど、昨日よりずっと自分の中から出ている声だった。
「セドリック様は、すでに中礼拝堂横の控え室にいらっしゃいます」
「はい」
「式前に会いますか」
マリアベル様は、少しだけ目を伏せた。
そして、首を横に振る。
「いいえ」
「理由を聞いても?」
「会うと、安心しすぎて泣いてしまいそうなので」
その返事に、私は少しだけ微笑んだ。
「では、式で会いましょう」
「はい」
「泣きそうになっても、構いません」
「構わないのですか」
「涙が出ても、返事はできます」
マリアベル様は、少し驚いた顔をした。
そして、小さく頷く。
「はい」
ミレーヌ女官長が、控え室の扉の前で合図をした。
時間だ。
私はマリアベル様へ一礼し、式場側の配置へ向かった。
中礼拝堂は、雨音を静かに抱えていた。
天井が少し高く、白い石壁に薄い青の光が差している。
参列者は少ない。
サザーランド子爵夫妻。
オルセン伯爵夫妻。
立会神官。
公証人。
王家婚姻登録院からは、ヴィクトル様、ユリア書記官、そして臨時補佐である私。
ミレーヌ女官長は、花嫁側控え導線に立つ。
マルタ神官は、マリアベル様の声が出なくなった場合の補助位置にいる。
必要な人だけがいる。
それでも、式としては十分だった。
セドリック様は、祭壇の前に立っていた。
昨日の面談で見た時よりも、少し緊張している。
けれど、目は扉の方をまっすぐ見ている。
彼は、マリアベル様を待っている。
代わりの誰かではなく、本人を。
ヴィクトル様が私の横へ立った。
「配置は」
「予定どおりです」
「ガレス氏は」
「神殿外応接室。護衛二名、登録院職員一名がついています」
「ヘレナ嬢は」
「式後祝福室です。ミレーヌ女官長の部下が同席しています」
「よろしい」
短い確認。
それだけで、少し落ち着いた。
この人は、何もかも私に任せているのではない。
けれど、私が見るべき場所は見せてくれる。
その距離が、今はとても助かる。
小鐘が鳴った。
扉が開く。
マリアベル様が、父であるサザーランド子爵に付き添われて入ってきた。
歩みは遅い。
でも、止まってはいない。
彼女の手には、白い花束。
左手ではなく、右手にそっと添えている。
合図は出ていない。
セドリック様の顔が、少しだけやわらいだ。
けれど、声はかけない。
式が始まるまで待つ。
その待ち方も、彼女を急かさない形だった。
立会神官が、式を始める。
「これより、マリアベル・サザーランドとセドリック・オルセンの正式婚約を確認します」
小さな礼拝堂に、神官の声が静かに響く。
雨音が、その後ろに薄く重なる。
「セドリック・オルセン。あなたは、マリアベル・サザーランドとの婚約を望みますか」
「はい。望みます」
セドリック様の声は、はっきりしていた。
けれど、強く押し出すような声ではなかった。
自分の返事だけを先に置き、相手の返事を待つ声だった。
神官が、マリアベル様へ向き直る。
「マリアベル・サザーランド。あなたは、セドリック・オルセンとの婚約を望みますか」
その瞬間、マリアベル様の指が花束を握った。
左手ではない。
合図ではない。
けれど、肩は強くこわばっている。
口が開かない。
礼拝堂の空気が、少しだけ固まった。
サザーランド子爵夫人が、心配そうに身を乗り出しかける。
ミレーヌ女官長が、静かに視線だけで止めた。
セドリック様は、動かない。
待っている。
ただし、彼女に「早く」と言わせないために。
マリアベル様の左手が、花束へ伸びた。
一度、握り直す。
合図だった。
マルタ神官がすぐに一歩前へ出る。
「式を一時止めます」
神官の声が、場を落ち着かせた。
誰も騒がない。
これは失敗ではない。
あらかじめ決めた手順だ。
そう分かっているから、参列者も声を出さない。
マリアベル様は、目を伏せていた。
白い花束を両手で握っている。
泣きそうだ。
でも、泣いていない。
私は彼女の方へ行きかけて、足を止めた。
ここで私が前へ出るべきか。
いいえ。
まずはマルタ神官だ。
本人の声を聞く位置にいるのは、神官なのだから。
マルタ神官が、マリアベル様の横へ立つ。
「大丈夫です」
彼女は低く言った。
「止めました。急ぎません」
マリアベル様が、小さく頷く。
「息を吸ってください」
神官の声に合わせて、マリアベル様が息を吸う。
一度。
二度。
雨音が、その間を埋める。
誰も話さない。
待つ時間だった。
けれど、これは彼女から奪った時間ではない。
彼女の声が戻るための時間だ。
少しして、マリアベル様が顔を上げた。
セドリック様を見る。
彼は何も言わない。
ただ、頷いた。
小さく。
それだけだった。
「続けられますか」
マルタ神官が尋ねる。
「……はい」
マリアベル様の声は、本当に小さかった。
でも、戻っていた。
立会神官が改めて言う。
「では、確認を再開します」
一拍。
「マリアベル・サザーランド。あなたは、セドリック・オルセンとの婚約を望みますか」
マリアベル様は、今度はすぐに答えなかった。
けれど、逃げてもいない。
自分の中から言葉を探している。
その沈黙を、全員が待った。
「……はい」
かすかな声。
でも、マルタ神官には届いた。
神官は一度だけ頷き、礼拝堂に届く声で復唱する。
「マリアベル・サザーランドは、セドリック・オルセンとの婚約を望みます」
その瞬間、マリアベル様の目から涙がこぼれた。
セドリック様も、少しだけ目を赤くしていた。
サザーランド子爵は、深く目を閉じる。
子爵夫人は、扇で口元を押さえていた。
けれど、誰も式を乱さなかった。
声は届いた。
代理ではなく。
姉の声ではなく。
本人の声として。
署名台へ進む。
マリアベル様の手は震えていた。
ペン先が、少しだけ紙の上で揺れる。
それでも彼女は、自分の名を書いた。
マリアベル・サザーランド。
ゆっくりと。
一文字ずつ。
セドリック様がその隣へ署名する。
公証人が確認し、登録院の印が押される。
ヴィクトル様が監督官として最後に確認印を入れた。
小鐘が二度鳴った。
正式婚約成立の鐘だった。
雨音の中で聞く鐘は、昨日のエミリア様の式よりも少し柔らかく聞こえた。
私は、その音を胸にしまった。
また一つ、正しく鳴った鐘だ。
式が終わると、マリアベル様はすぐに動けなかった。
セドリック様が一歩近づこうとして、途中で止まる。
「マリアベル」
彼は小さく呼んだ。
「行ってもいい?」
その問いに、私は少しだけ目を伏せた。
彼は、近づく前に聞いた。
それだけで、今日の式が何のためにあったのかを理解していると分かった。
マリアベル様は、涙を拭きながら頷いた。
「はい」
セドリック様は彼女の前へ行き、けれど手は取らなかった。
花束を持つ彼女の手を見て、少し迷っている。
「おめでとう、でいいかな」
「はい」
「おめでとう。僕たち、婚約できた」
マリアベル様が、泣きながら笑った。
「私が、返事をしました」
「うん」
「私の声で」
「聞こえた」
「小さかったのに」
「聞こえたよ」
その短いやりとりだけで、礼拝堂の空気が少し温かくなった。
私は、ようやく肩の力を抜いた。
しかし、式はまだ完全には終わっていない。
式後の家族祝福がある。
そこでヘレナ様が合流する。
そして、おそらくガレス氏も何かしら動くだろう。
そう思った瞬間、廊下の方から低い声が聞こえた。
やはり。
「なぜ私が入れないのだ。私は叔父だぞ」
ガレス氏の声だった。
護衛が止めている。
式本体はもう終わった。
だが、祝福室へ押し入られれば、せっかく守った場が最後に乱される。
ヴィクトル様が一歩進んだ。
私もその半歩後ろへ続く。
廊下では、ガレス氏が護衛に向かって怒っていた。
昨日よりも顔色が赤い。
「式は終わったのだろう。ならば家族の祝福には出られるはずだ」
「ガレス・サザーランド殿」
ヴィクトル様が呼ぶ。
ガレス氏は、びくりと肩を揺らした。
「レオニス大公子殿下」
「あなたには、式場外待機を通達しました」
「式は終わりました」
「家族祝福の参加者も、事前に定めています」
「私は叔父です」
「参加者ではありません」
短い。
ただ、それだけで十分だった。
「しかし、家の面子が」
「本人意思確認を妨げる発言は、登録院への私的干渉として記録すると通達済みです」
「私は妨げてなど」
「今、祝福室へ入ろうとしています」
ガレス氏の口が止まる。
「マリアベル様は、あなたの式本体への同席を望みませんでした。式後祝福についても、参加者は両家当主、両家母君、姉ヘレナ様までです」
「なぜ姉はよくて私は」
私は一歩前へ出た。
「マリアベル様が、ヘレナ様にはいてほしいと望まれたからです」
ガレス氏が私を睨む。
「あなたは誰だ」
「王家婚姻登録院の臨時補佐です」
「公爵令嬢が、よその家の家族に口を出すのか」
その言葉に、少し前の私なら怯んだかもしれない。
でも今は違う。
この場で私は、公爵令嬢として立っているのではない。
「いいえ」
私は静かに答えた。
「登録院の補佐として、本人意思確認の記録を伝えています」
ガレス氏の顔がさらに赤くなる。
だが、ヴィクトル様がすぐに続けた。
「アリシア補佐の説明どおりです」
その一言で、私の立場が固定された。
ありがたかった。
私個人の口論ではない。
登録院としての説明だ。
「ガレス殿」
ヴィクトル様は言った。
「あなたがさらに進もうとするなら、護衛に退出を命じます」
「そこまで」
「します」
即答だった。
ガレス氏は、悔しそうに奥歯を噛んだ。
けれど、それ以上は進めなかった。
護衛が静かに道を示す。
彼は最後まで不満を隠さなかったが、退いた。
私は、深く息を吐いた。
ヴィクトル様がこちらを見る。
「よい説明でした」
「少し、緊張しました」
「当然です」
「今日も否定しないのですね」
「緊張しない方が不自然です」
その返答に、少しだけ笑う余裕が戻った。
祝福室では、ヘレナ様が待っていた。
彼女は妹を見るなり、立ち上がる。
けれど、すぐには近づかなかった。
昨日までなら、きっと駆け寄って、妹の手を取り、代わりに礼をしていたのだろう。
でも今日は、待っていた。
マリアベル様が自分で近づくのを。
「姉様」
マリアベル様が言った。
声は小さい。
でも、姉に届いた。
「私、返事をしました」
ヘレナ様の顔が、くしゃりと歪んだ。
「ええ」
「少し止まってしまったけれど」
「ええ」
「でも、私が言いました」
「聞きたかったわ」
ヘレナ様は、そこで初めて妹へ手を伸ばした。
マリアベル様も、その手を取った。
抱きしめるのではなく、手を握るだけ。
けれど、その方が今の二人には合っているように見えた。
「今まで、私が先に言いすぎていたのね」
ヘレナ様が言う。
マリアベル様は、少しだけ目を伏せた。
「助かっていた時もありました」
「うん」
「でも、今日は自分で言いたかったの」
「うん」
「姉様に、見ていてほしかったです」
ヘレナ様の涙が、とうとう落ちた。
「見ていたわ」
その言葉を聞いて、私は静かに部屋の端へ下がった。
ここから先は、姉妹の時間だ。
登録院が入る場所ではない。
私たちは、式を守った。
あとは、本人たちが自分たちの言葉で関係を整えればよい。
廊下へ出ると、雨はまだ降っていた。
細い雨音が、神殿の石壁を静かに濡らしている。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が横に来た。
「はい」
「今日の所感は」
「代理出席を止めることは、姉妹を引き離すことではありませんでした」
「はい」
「マリアベル様の声を守ることと、ヘレナ様の存在を否定しないことは、両立できるのですね」
「できます」
「ただし、場を分ける必要がある」
「その通りです」
ヴィクトル様は頷いた。
「式には、本人が立つ。祝福には、家族が立つ」
「はい」
「混ぜると、本人の声が消える」
私はその言葉を心の中で繰り返した。
式には本人。
祝福には家族。
混ぜると声が消える。
この仕事は、そういう境界を一つずつ見つけていく仕事なのかもしれない。
「ヴィクトル様」
「はい」
「私の婚約式では、式と何が混ざっていたのでしょう」
自分でも、なぜ今その問いが出たのか分からなかった。
けれど、雨音の中で、ふと聞きたくなった。
ヴィクトル様はすぐには答えなかった。
少し考えてから、静かに言う。
「同情と、依存でしょう」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも、その言葉は正しいと思った。
「セシリア様への同情と、ディオン様への依存」
「はい」
「それが、私との婚約式に混ざっていた」
「そう見えました」
「そうですね」
私は雨に濡れた中庭を見た。
「だから、鳴らなかったのですね」
「鐘が?」
「はい」
ヴィクトル様は、少しだけ目を伏せた。
「あなたの鐘は、あの時は鳴らなくてよかったのだと思います」
私は彼を見る。
彼は、いつものように静かな目をしていた。
「鳴ってしまえば、あなたはもっと長く待たされたかもしれない」
その言葉に、胸の奥で何かがゆっくりほどけた。
鳴らなかったことが、失敗だけではなかった。
そう思える日が、来るのかもしれない。
「……そうですね」
「はい」
「では、今日の鐘は、鳴ってよかったですね」
「ええ」
その返事は、少しだけ柔らかかった。
式後確認は問題なく終わった。
マリアベル様とセドリック様の婚約は、正式に登録された。
代理出席願いは取り下げとして保存。
ガレス氏の式場外待機違反未遂も、記録された。
ただし、祝福室への侵入は未遂で止まったため、警告扱い。
ヘレナ様には、本人意思確認を尊重した家族として式後祝福への同席記録が残る。
すべて、正しい位置に収まった。
帰り際、マリアベル様が小さな手紙をくれた。
その場で読むのはためらわれたので、馬車の中で開いた。
私の声で、婚約できました。
姉にも、ありがとうと言えました。
怖かったけれど、私の式でした。
私はその三行を、何度も読んだ。
私の式。
その言葉が、胸に残る。
昨日まで、彼女の婚約式は家のものになりかけていた。
姉のものに。
叔父のものに。
でも今日は、彼女自身の式になった。
それが何よりよかった。
王家婚姻登録院へ戻ると、ヴィクトル様が報告書の控えを渡してくれた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
「今日は、帰って休むことを勧めます」
「命令ではなく?」
「勧めです」
「では、私の意思で帰ります」
「よい判断です」
私は笑った。
「最近、その言葉に慣れてきました」
「よい判断、に?」
「はい」
「では、使いすぎないようにします」
「いえ」
私は少しだけ考え、首を振った。
「たまには言ってください」
ヴィクトル様の口元が、ほんのわずかに動いた。
「分かりました」
それだけのやりとりなのに、また胸の奥が温かくなる。
困ったことに、この方の短い言葉に慣れてきている。
そして、たぶん少しずつ楽しみにもしている。
馬車寄せで、雨は止みかけていた。
薄い雲の隙間から、夕方の光が差している。
「明日は」
ヴィクトル様が言った。
「午前は通常確認。午後、王妃宮から少し大きな案件が来ます」
「大きな案件」
「妹の体調を理由に、姉の婚約式を遅らせたいという申し出です」
私は思わず息を止めた。
病弱な誰か。
姉の婚約式。
遅らせたいという申し出。
それは、私自身の傷に近い場所を通る案件だった。
「私が担当してもよろしいのですか」
「担当するかどうかは、明日あなたに確認します」
「私の意思で?」
「もちろん」
ヴィクトル様は静かに言った。
「あなたの時刻も、あなたの傷も、勝手には使いません」
その言葉に、胸の奥が深く揺れた。
私はすぐには返事ができなかった。
けれど、少しして頷く。
「明日、資料を見ます」
「はい」
「それから、決めます」
「それで十分です」
馬車の扉が開く。
私は乗り込む前に、雨上がりの神殿を一度見た。
今日は鐘が鳴った。
本人の声で。
姉の代理ではなく。
その音を、私は忘れないと思った。
馬車が動き出す。
窓の外で、神殿と登録院が少しずつ遠ざかる。
明日、また私の傷に近い案件が来る。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、今なら分かる。
怖いままでも、立てる形を作ればいい。
私自身にも。
誰かの式にも。