軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十二話 妹の体調を理由に、姉の婚約式を遅らせないでください

翌朝、王家婚姻登録院へ着くと、私の机の上には赤い札のついた資料が置かれていた。

昨日、ヴィクトル様が言っていた案件だ。

妹の体調を理由に、姉の婚約式を遅らせたい。

その一文だけで、胸の奥が少しだけ冷える。

病弱な誰か。

不安。

式の延期。

待ってほしいという願い。

それらは、どうしても私自身の婚約式を思い出させた。

白い廊下。

遅すぎた足音。

青い封蝋。

それでも、目の前の案件は私の過去ではない。

昨日、ヴィクトル様が言った。

あなたの時刻も、あなたの傷も、勝手には使いません、と。

だからこそ、私は資料を開く前に一度だけ息を整えた。

「アリシア嬢」

ユリア書記官が、いつものように整った声で言った。

「無理なら、別の補佐へ回せます」

「ありがとうございます」

「この案件は、あなたの件に少し近い」

「はい」

「近いですが、同じではありません」

「……そうですね」

私は頷いた。

それが大事だ。

同じではない。

私の痛みで、別の令嬢の式を裁いてはいけない。

けれど、私が知ったことを、見ないふりする必要もない。

「まず、読みます」

私は資料を手に取った。

申請者は、ベルモント伯爵家。

花嫁候補は、長女ルイーザ・ベルモント伯爵令嬢。

花婿候補は、エルン子爵家嫡男マティアス・エルン。

両家の婚約内約は成立済み。

正式婚約式は五日後、聖アリア神殿の中礼拝堂で予定されている。

問題は、ベルモント伯爵家から出された延期願いだった。

延期希望期間、二月。

理由。

次女エレナ・ベルモントの体調悪化により、姉ルイーザの婚約式への参列が困難。

妹エレナは姉の婚約式を心待ちにしており、参列できないまま式を進めれば、精神的負担が大きい。

家族全員で祝える状態になるまで、正式婚約式を延期したい。

私は、書面を一度閉じた。

二月。

長い。

婚約式の開始を一刻遅らせるのとも違う。

五日後に予定された正式婚約式を、二月先へ動かす。

それは、花嫁候補であるルイーザ様だけでなく、花婿候補のマティアス様、両家、神殿、公証人、登録院、今後の婚姻予定にまで影響する。

「花嫁本人の希望は?」

「添付なしです」

「花婿側の同意は?」

「保留。エルン子爵家は、登録院の確認を求めています」

「妹君の診断書は?」

「あります」

ユリアが一枚の診断書を出した。

エレナ・ベルモント令嬢。

生来病弱。

近頃、発熱と倦怠が続き、長時間の外出は控えるべき状態。

ただし、命に関わる急変ではない。

安静二週間程度。

二月の延期が医学的に必要とは書かれていない。

「二週間の安静」

「はい」

「延期希望は二月」

「はい」

数字が合っていない。

体調への配慮は必要だ。

けれど、その配慮として二月の延期が本当に必要なのかは、別の話だった。

「ルイーザ様ご本人とは、面談できますか」

「本日午後に来院予定です」

「エレナ様は」

「医師の指示により、来院は不可。必要なら、神殿医師または王妃宮の女性医師がベルモント家へ出向けます」

「ベルモント伯爵夫妻は」

「午前中に面会を求めています」

「花婿側は」

「マティアス様本人が、午後に来ます」

私は資料を机へ置いた。

全員、確認する必要がある。

特に、ルイーザ様本人。

彼女が延期を望んでいるのか。

望んでいないのか。

妹の体調を理由に、家が勝手に式を動かそうとしているのか。

それとも、姉自身が妹を気遣って延期したいのか。

そこを見ずに判断してはいけない。

「アリシア嬢」

ヴィクトル様の声がした。

いつの間にか確認室の入口に立っていた。

深い紺の上着。

銀の徽章。

相変わらず、表情は静かだ。

「はい」

「担当しますか」

それは、命令ではなかった。

確認だった。

私は書類をもう一度見た。

胸の奥はまだ少し痛い。

けれど、読める。

考えられる。

自分の傷と、目の前の案件を分けられる。

「担当します」

「理由は」

「同じではないからです」

ヴィクトル様が、少しだけ目を細めた。

「続けてください」

「私の件と近い部分はあります。病弱な相手、式の延期、待ってほしいという願い。ですが、同じではありません」

「はい」

「だから、私の痛みで決めず、本人たちの意思と医学的必要性を確認します」

「よい判断です」

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

ヴィクトル様は続ける。

「ただし、途中で無理だと思ったら、すぐ言ってください」

「はい」

「あなたの傷を、登録院は業務上の道具にはしません」

その言葉は、静かに胸へ落ちた。

昨日から、この人は何度も同じ線を引いてくれる。

私の経験は使える。

でも、私自身を消耗品にはしない。

その違いを、きちんと言葉にしてくれる。

「ありがとうございます」

「では、午前は伯爵夫妻との面会です」

「はい」

ベルモント伯爵夫妻は、午前二刻に登録院へ来た。

伯爵は痩せた男性で、神経質そうな指先をしていた。

夫人はやつれた顔で、手元のハンカチを何度も畳み直している。

どちらも、娘を心配している親の顔だった。

ただ、その心配が、どちらの娘へ向いているのかは、まだ分からない。

「レオニス大公子殿下」

ベルモント伯爵が深く頭を下げた。

「このたびは急な延期願いを」

「内容は確認しています」

ヴィクトル様は淡々と答えた。

「本日は、延期の必要性と本人意思について確認します」

「必要性は明らかです」

伯爵夫人が、少し早口で言った。

「エレナは、姉の婚約式を本当に楽しみにしていたのです。小さい頃から姉を慕っていて、婚約式には必ず行くのだと」

「診断書では、安静二週間とあります」

ユリアが資料を確認しながら言う。

「延期希望は二月です。その理由を説明してください」

「二週間で熱が下がっても、体力が戻るとは限りません」

「はい」

「それに、エレナは気落ちしやすい子なのです。自分だけ式に出られないとなれば、また寝込んでしまうかもしれません」

私は夫人を見た。

言葉には、嘘はなさそうだった。

妹エレナ様を心配している。

それは本当なのだろう。

けれど、その心配の外に、姉ルイーザ様の姿がまだ見えない。

「ルイーザ様は、延期を望んでいらっしゃいますか」

私が尋ねると、伯爵夫妻は一瞬黙った。

その沈黙で、答えの半分は分かった気がした。

「ルイーザは、姉です」

伯爵が言った。

「妹の体調を案じるのは当然です」

「当然かどうかではなく、望んでいるかをお聞きしています」

「家族なのですから」

夫人が続ける。

「エレナ抜きで婚約式をするなんて、ルイーザも本当は辛いはずです」

「本当は、ですか」

ヴィクトル様が静かに問い返した。

夫人の指が、ハンカチを強く握る。

「直接確認はされていますか」

「……ルイーザは、式を予定どおり行いたいと言いました」

部屋の空気が少し変わった。

やはり。

ルイーザ様は、延期を望んでいない。

「では、伯爵家の延期願いは、花嫁本人の意思と一致していません」

ヴィクトル様が言う。

伯爵が顔を強張らせた。

「しかし、妹の体調が」

「確認します」

「何をですか」

「妹君の体調に対して、婚約式二月延期が医学的または儀礼上必要かどうかです」

ミレーヌ女官長が、静かに説明を引き取った。

「医師の診断は安静二週間。式への参列が難しいなら、妹君の欠席、短時間参列、後日家族祝福、映し絵記録の送付など、複数の配慮が考えられます」

「欠席だなんて」

伯爵夫人の声が震えた。

「エレナが可哀想です」

「ルイーザ様の婚約式を二月延期することは、可哀想ではありませんか」

私の言葉に、夫人は目を見開いた。

言い方が少し強かったかもしれない。

でも、ここは言わなければならなかった。

「ルイーザ様は、五日後の婚約式へ向けて準備されています。花婿側も、神殿も、公証人も、登録院も予定を整えています」

「でも、妹なのです」

「はい」

「たった一人の妹なのです」

「はい」

「家族で祝いたいと思うのは、そんなにおかしいことですか」

「おかしくありません」

私は答えた。

「ですが、家族全員で祝いたいというお気持ちと、花嫁本人の婚約式を二月止めることは、同じではありません」

伯爵夫妻は黙った。

私は続ける。

「エレナ様を大切に思うことは、ルイーザ様の時刻を自由に動かしてよい理由にはなりません」

自分で言いながら、胸の奥が少し痛んだ。

私の時刻。

ルイーザ様の時刻。

誰かの体調や不安で、当然のように後ろへ下げられる時間。

それを見過ごしたくなかった。

「アリシア補佐の言う通りです」

ヴィクトル様が言った。

その一言で、私の発言が個人的な感情ではなく、登録院の確認として固定された。

「ただし、妹君への配慮を切り捨てるわけではありません」

彼は続ける。

「本日午後、ルイーザ令嬢本人と面談します。マティアス令息の意思も確認します。必要であれば、王妃宮の女性医師をベルモント家へ派遣し、エレナ令嬢にどのような参列方法が可能か確認します」

伯爵夫人が、少しだけ顔を上げた。

「エレナを、見捨てるわけではないのですね」

「見捨てません」

ミレーヌ女官長が答えた。

「ただし、ルイーザ様を待たせることを当然にはしません」

その言葉で、夫人はまた黙った。

伯爵は深く息を吐き、ようやく小さく頷く。

「……分かりました」

「延期願いは、現時点では保留とします」

ヴィクトル様が告げた。

「午後の本人意思確認後に、登録院としての処理案を出します」

伯爵夫妻は、納得しきれない顔のまま、それでも頭を下げた。

午後、ルイーザ・ベルモント伯爵令嬢が来院した。

彼女は、静かな美しさを持つ令嬢だった。

深い栗色の髪。

淡い灰色のドレス。

目元には少し疲れがある。

けれど、背筋はまっすぐ伸びていた。

私は、彼女を見た瞬間に思った。

この方は、もう何度も譲ってきた人だ。

「ルイーザ様」

ミレーヌ女官長が面談を始める。

「本日は、正式婚約式の延期願いについて、あなたご本人の意思を確認します」

「はい」

「あなたは、マティアス・エルン様との婚約を望んでいますか」

「はい」

「五日後の正式婚約式に出席する意思がありますか」

「あります」

「延期を望みますか」

「望みません」

はっきりした返事だった。

迷いはなかった。

その明確さに、私は少しだけ胸を突かれた。

「理由を聞いてもよろしいでしょうか」

「マティアス様は、式の十日後に南部領へ戻られます」

「南部領へ」

「子爵家の領地で、春の堤防工事が始まります。正式婚約式を終えた後、秋に婚姻式を行う予定でした」

「二月延期すると」

「婚姻式の準備も、年内の移動も崩れます」

彼女は膝の上で指を組んだ。

「それに、私はもう何度もエレナに合わせてきました」

部屋が静かになる。

ルイーザ様は、少しだけ目を伏せた。

「エレナが病弱なのは、分かっています。あの子が悪いのではありません」

「はい」

「けれど、私の成人祝いも、社交初日の支度も、母との旅行も、何度も延期になりました」

「……」

「エレナの熱が下がってから。エレナも一緒に行けるようになってから。エレナが寂しがらないように」

彼女の声は静かだった。

怒鳴るわけでも、泣くわけでもない。

それでも、長く積もったものが分かった。

「でも、私の婚約式まで待つのですか。私の大切な婚約者まで、待たせるのですか」

その言葉に、胸の奥が痛んだ。

私がかつて言えなかった言葉に、よく似ていた。

「妹様を恨んでいますか」

私が尋ねると、ルイーザ様は首を振った。

「いいえ」

「では、ご両親を?」

「少し」

正直な返事だった。

「エレナを大切にする両親を、責めきれない自分もいます。でも、私にも人生があります」

「はい」

「私の婚約式は、私の予定です」

「はい」

「妹の体調で、また後ろへ動かされるのは嫌です」

ユリア書記官が記録する。

私は、ルイーザ様の言葉を一つずつ聞いた。

私にも人生がある。

私の婚約式は、私の予定。

その言葉を、公的な面談室で言えたことが、とても大事だと思った。

「エレナ様への配慮として、希望する形はありますか」

ミレーヌ女官長が尋ねる。

「式には、無理に来なくていいと思っています」

「はい」

「でも、あの子が見たいなら、神殿の控え室から短時間だけ見られるようにしても構いません」

「短時間参列」

「はい」

「または、式後に家で小さな祝福をする形もあります」

「それなら、私もできます」

ルイーザ様は少しだけ息を吐いた。

「でも、式そのものは延期したくありません」

「分かりました」

ミレーヌ女官長が頷く。

私は、もう一つだけ確認した。

「ルイーザ様」

「はい」

「もしエレナ様が式当日にまた体調を崩された場合でも、婚約式を進めたいですか」

彼女は目を閉じた。

少し長い沈黙。

けれど、逃げている沈黙ではなかった。

自分の中で、本当にそう言ってよいのかを確かめている沈黙だった。

「進めたいです」

やがて、彼女は答えた。

「その場合、私は式後にエレナの部屋へ行きます」

「はい」

「でも、式は進めます」

「記録します」

ユリアのペンが走る。

その音を聞いて、ルイーザ様の肩が少しだけ下がった。

安心したのだろう。

自分の意思が、ようやく紙に残ったから。

次に、マティアス・エルン様の面談が行われた。

彼は落ち着いた青年だった。

南部領の堤防工事の資料まで持ってきていた。

「二月延期は難しいです」

彼は言った。

「私情の問題だけではありません。秋の婚姻式、ルイーザ嬢の移動、領地の受け入れ準備がすべて遅れます」

「妹君への配慮には反対ですか」

「いいえ」

マティアス様は首を振った。

「ルイーザ嬢が望むなら、式後にベルモント家で祝福の時間を作ります。エレナ嬢の体調に合わせて、私は何度でも挨拶に伺います」

「では、婚約式そのものは」

「予定どおり行いたいです」

彼は、はっきり言った。

「ルイーザ嬢を、これ以上待たせたくありません」

その言葉に、私はほんの少し息を止めた。

ルイーザ様が聞けば、きっと救われるだろう。

私も少し、救われた気がした。

夕方までに、処理案はまとまった。

延期願いは却下。

婚約式は予定どおり五日後に実施。

エレナ様の体調については、王妃宮の女性医師がベルモント家へ出向いて確認。

可能なら、神殿の控え室から短時間だけ式を見られるようにする。

難しければ、式後、ベルモント家で家族祝福の時間を設ける。

ただし、エレナ様の体調により、婚約式本体を止めない。

それが、登録院の判断だった。

「アリシア嬢」

ヴィクトル様が確認室で私を呼んだ。

「はい」

「今日の所感は」

「似ている痛みでも、同じ案件ではないと分かりました」

「はい」

「エレナ様は、ディオン様を呼び出したセシリア様ではありません。ルイーザ様も、私ではありません」

「はい」

「でも、待たされ続けた人の言葉は、似るのだと思いました」

ヴィクトル様は、静かに聞いていた。

「私の婚約式は、私の予定です」

私は、ルイーザ様の言葉を繰り返した。

「あの言葉を、私は言えなかった」

「今は言えますか」

問われて、少し考えた。

そして頷く。

「はい」

ヴィクトル様の目が、わずかにやわらいだ。

「では、今日の案件はあなたにとっても意味がありましたね」

「はい」

「ただし、無理はしていませんか」

「少し痛みました」

「はい」

「でも、無理ではありませんでした」

「分かりました」

彼は、それ以上踏み込まなかった。

それがありがたかった。

帰り際、ベルモント伯爵夫妻へ登録院の判断が伝えられた。

夫人は泣きそうな顔をした。

けれど、ヴィクトル様は静かに言った。

「エレナ令嬢への配慮は行います。ですが、ルイーザ令嬢の婚約式を止める理由にはなりません」

伯爵は、しばらく黙っていた。

そして、ようやく頭を下げた。

「……承知しました」

夫人はすぐには頷けなかった。

それでも、最後には小さく頷いた。

完全な納得ではない。

けれど、線は引かれた。

馬車寄せで、ヴィクトル様が言った。

「今日は、あなたの傷に近い案件でした」

「はい」

「担当してくれて助かりました」

「私情が入りすぎていなければよいのですが」

「入っていました」

私は思わず顔を上げた。

ヴィクトル様は、いつもの静かな顔で続ける。

「ただし、判断を歪める形ではなく、聞き落とさないために」

胸の奥が、少しだけ温かくなった。

「それは、よいことですか」

「よいことです」

「なら、よかったです」

「ただし、疲れたでしょう」

「はい」

「今日は帰ってください」

「命令ですか」

「勧めです」

「では、私の意思で帰ります」

「よい判断です」

そのやりとりに、私は少し笑った。

今日も、まだ痛い。

けれど、笑える。

馬車へ乗る前に、私は振り返った。

「ヴィクトル様」

「はい」

「私の婚約式は、私の予定でした」

「はい」

「私は、それを守れなかった」

「いいえ」

彼は、すぐに否定した。

「あなたは、最後に守りました」

私は息を止めた。

ヴィクトル様は続ける。

「成立させないことで」

その言葉は、今日一番深く胸に届いた。

婚約式を守る。

その形が、必ずしも成立させることとは限らない。

私の場合は、成立させないことで守ったのだ。

自分の時間を。

自分の意思を。

自分の尊厳を。

「……ありがとうございます」

「記録には残しません」

「少し残してほしい気もします」

そう言うと、ヴィクトル様の口元がわずかに動いた。

「では、困らない程度に覚えておきます」

「お願いします」

馬車が動き出す。

雨上がりの王宮が、淡い夕光に包まれている。

今日、ルイーザ様の婚約式は守られた。

妹を見捨てるのではなく。

姉を待たせない形で。

その判断に、私は自分の痛みを少しだけ使った。

でも、使い捨てにはしなかった。

それもまた、私の時間を取り戻す一つの形なのかもしれない。