軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八話 鐘は、二人がそろった時刻に鳴ります

エミリア・クライン令嬢の婚約式は、聖アリア神殿の小礼拝堂で行われることになった。

大礼拝堂ではない。

貴族たちが並び、音楽が高く響く華やかな場所でもない。

白い石壁に、細い窓が三つ。

祭壇の前には、二人分の立ち位置と、立会神官の小さな台。

参列するのは、エミリア様とローレン・フェルド子爵令息、両家の当主、立会神官、公証人、王家婚姻登録院の職員。

それから、本人意思確認に関わった者として、ミレーヌ女官長と私。

必要な人だけがいる。

必要でない人は、入れない。

それだけのことが、こんなに空気を軽くするのだと、私は初めて知った。

「小礼拝堂の扉、閉鎖確認済みです」

登録院の女性書記官ユリアが、手元の板に印をつけた。

「ガレス・クライン氏は?」

「式場外待機室へ案内済みです。登録院の通達も再提示しました」

「反発は」

「ありましたが、護衛が止めています」

私は少しだけ息を吐いた。

昨日届いた抗議書の勢いから考えれば、叔父上が素直に従うとは思っていなかった。

けれど、ここには登録院の通達があり、神殿の規定があり、護衛がいる。

誰か一人が感情で止めるのではない。

決まった線を、複数の人で守っている。

それが、昨日までの私にはなかったものだった。

「アリシア嬢」

ミレーヌ女官長が、静かに声をかけた。

「顔が硬いですよ」

「申し訳ありません」

「責めているのではありません」

彼女はほんの少しだけ微笑んだ。

「初めての式前に顔が硬くならない補佐など、信用できません」

「そういうものですか」

「そういうものです」

その言い方があまりにも自然で、少しだけ笑ってしまった。

緊張していていい。

怖がっていていい。

ただし、そのまま手順を確認する。

この場所では、それでいいのだ。

小礼拝堂の控え室に、エミリア様がいた。

白い婚約式用の衣装は、派手ではない。

首元まで柔らかな布で覆われ、袖も長い。

彼女が震えても目立たないよう、手元には小さな白い花束が持たされている。

声が出にくい時、胸元を押さえずに済むように。

それは、ミレーヌ女官長の配慮だった。

「エミリア様」

私は近づき、一礼した。

「体調はいかがですか」

「大丈夫です」

声は小さい。

けれど、昨日より少しだけ安定している。

「式の流れを、もう一度確認してもよろしいですか」

「はい」

「神官様が、ローレン様との正式婚約を望むかお尋ねします。エミリア様は、ご自分の声で答えます」

「はい」

「声が小さくても構いません。マルタ神官が聞き取り、式へ届く声で復唱します」

「はい」

「答えられなくなった場合は、花束を左手で握り直してください。その時点で一度止めます」

エミリア様は、自分の手元の花を見た。

それから、小さく頷く。

「止めても、よいのですね」

「はい」

「止めたら、迷惑では」

「式は、あなたを急がせるためのものではありません」

私は言った。

「あなたとローレン様が、きちんと婚約するためのものです」

エミリア様の目が、少しだけ潤んだ。

でも涙は落ちなかった。

「……はい」

その返事を聞いて、私の方が少し息をついた。

昨日の面談で分かった。

この方は、婚約したくないわけではない。

自分の返事を、誰かに奪われるのが怖かっただけだ。

なら、今日はその返事を守ればいい。

控え室の扉が軽く叩かれた。

ユリアが顔を出す。

「ローレン・フェルド様より、式前の確認です」

エミリア様の肩が小さく跳ねた。

ミレーヌ女官長がすぐに尋ねる。

「面会を望みますか」

「……はい」

「では、扉を開けたまま、私たち同席で」

「はい」

ローレン様が入ってきた。

まだ若い子爵令息だった。

柔らかな茶色の髪に、緊張した顔。

彼はエミリア様を見ると、すぐに足を止めた。

近づきすぎない。

その距離だけで、私は少し安心した。

「エミリア」

「ローレン様」

「今日は、来てくれてありがとう」

その最初の言葉に、エミリア様の目が揺れた。

「私が、来てくれて?」

「うん」

ローレン様は頷いた。

「僕と婚約するために、自分で返事をすると決めてくれて、ありがとう」

エミリア様は、しばらく彼を見つめていた。

そして、少しだけ笑った。

「声が、小さいかもしれません」

「聞く」

「聞こえなかったら」

「もう一度、聞く」

「時間がかかったら」

「急がない」

ローレン様は、まっすぐ答えた。

「僕は、君の返事を聞きに来たんだから」

胸の奥が、静かに熱くなった。

待つことは、いつも悪いわけではない。

相手の返事を急がせず、聞くために待つこともある。

ただ、それは相手に当然のように待たせることとは違う。

ローレン様は、待つと自分で決めてここに来ている。

だから、その待つ時間は、誰かから奪ったものではないのだ。

ミレーヌ女官長が、穏やかに告げた。

「そろそろお時間です」

「はい」

エミリア様とローレン様は、それぞれ頷いた。

小礼拝堂の鐘が、一度だけ小さく鳴る。

式の始まりを告げる音だった。

式は、予定どおりに始まった。

ただし、急がない。

扉が開き、エミリア様が父であるクライン男爵に付き添われて入場する。

クライン男爵は病後と聞いていたが、今日はしっかりと娘の横に立っていた。

その目には、不安と、覚悟と、少しの後悔があった。

彼は昨日の礼状に書いていた。

怖かったのは婚約ではなく、返事を奪われることだったのですね、と。

今日は、その返事を聞くために来たのだろう。

ローレン様は祭壇の前で待っていた。

待たされている顔ではなかった。

迎えるために、そこに立っている顔だった。

立会神官のマルタ神官が、低く落ち着いた声で式を進める。

「これより、エミリア・クラインとローレン・フェルドの正式婚約を確認します」

一拍。

小礼拝堂の空気が整う。

「ローレン・フェルド。あなたは、エミリア・クラインとの婚約を望みますか」

「はい。望みます」

ローレン様の声は、はっきりしていた。

けれど、強すぎない。

隣のエミリア様を急がせない声だった。

マルタ神官が、次にエミリア様へ向き直る。

「エミリア・クライン。あなたは、ローレン・フェルドとの婚約を望みますか」

小礼拝堂が、静かになった。

エミリア様の指先が、白い花束を握る。

左手ではない。

止める合図ではない。

ただ、力を集めているのだ。

誰も急かさない。

ローレン様も。

クライン男爵も。

マルタ神官も。

ミレーヌ女官長も。

私も。

皆が、彼女の声を待った。

そして、その待つ時間は、彼女のためにあった。

「……はい」

エミリア様の声は、本当に小さかった。

けれど、マルタ神官には届いた。

神官は一度頷き、式に届く声で復唱する。

「エミリア・クラインは、ローレン・フェルドとの婚約を望みます」

その瞬間、エミリア様の肩から力が抜けた。

ローレン様が、泣きそうな顔で微笑む。

クライン男爵は目を閉じた。

私は胸の前で、手袋の指をそっと握った。

声は、届いた。

奪われなかった。

誰かが代わりに言うのではなく、彼女自身の返事として、式に残った。

その後、二人は誓約書に署名した。

エミリア様の字は少し震えていた。

でも、確かに彼女の字だった。

ローレン様が続けて署名する。

公証人が確認し、婚姻登録院の印が押される。

最後に、小礼拝堂の鐘が二度鳴った。

正式婚約成立の鐘だった。

私は、その音を聞きながら、昨日鳴らなかった鐘のことを思い出した。

私の婚約式では、鐘は鳴らなかった。

鳴らなかったからこそ、今日の鐘がよく聞こえる。

婚約式の鐘は、誰かを待たせるために鳴るものではない。

二人がそろい、それぞれの意思が届いた時に鳴るものなのだ。

式が終わると、エミリア様が私のところへ来た。

ローレン様も少し後ろにいる。

「アリシア様」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

エミリア様は、白い花束を胸元に抱いたまま、少しだけ笑った。

「私の声でした」

「はい」

「小さかったけれど」

「届きました」

「はい」

彼女の目に涙が浮かぶ。

でも、今度は怖さの涙ではなかった。

「叔父がいなくて、怖くありませんでした」

「よかったです」

「父が、聞いてくれました」

「はい」

「ローレン様も、待ってくれました」

私は頷いた。

「待つことは、悪いことではありませんから」

エミリア様が、少し首を傾げる。

私は続けた。

「誰が、何のために待つかによります」

彼女はゆっくり頷いた。

ローレン様が、私へ深く頭を下げる。

「ありがとうございました。彼女の声を、式に残してくださって」

「私は補佐です」

私は答えた。

「エミリア様の声を残したのは、エミリア様ご自身です」

ローレン様は、少し驚いたように目を見開いた。

それから、とても嬉しそうに笑った。

「はい」

その返事を聞いて、私はようやく肩の力を抜いた。

小礼拝堂を出ると、廊下の先で少し騒ぎが起きていた。

ガレス・クライン氏だった。

四十代ほどの男で、顔を赤くして登録院の護衛へ何かを言っている。

「私は叔父だぞ。家の面子が」

「式は終了しました」

護衛は淡々と答えていた。

横にはユリアがいる。

彼女は手元の書面を開き、はっきり告げた。

「ガレス・クライン殿には、式場外待機を通達済みです。本人意思確認により、同席は認められていません」

「姪は緊張しやすい。私がいなければ」

「ご本人は、あなたの同席を望まないと書面で示しています」

「そんなものは」

「王家婚姻登録院で受領済みです」

ガレス氏の言葉が詰まる。

そこへ、ヴィクトル様が来た。

彼は小礼拝堂の外で式の終了報告を待っていたらしい。

「ガレス・クライン殿」

「レオニス大公子殿下」

「婚約式は、本人同士の意思確認に基づき成立しました」

「しかし」

「あなたの同席は不要でした」

短い。

そして、明確だった。

ガレス氏はなおも何か言おうとしたが、ヴィクトル様は続けた。

「以後、本人意思確認を妨げる発言があれば、登録院への私的干渉として記録します」

ガレス氏の顔色が変わった。

「それは」

「記録します」

その一言で、彼は黙った。

護衛が静かに退路を示す。

ガレス氏は悔しそうに唇を噛みながらも、それ以上は何も言わずに廊下を去った。

騒ぎは、それで終わった。

大きな断罪ではない。

叫び合いもない。

けれど、それでよかった。

必要なのは見せしめではなく、線の内側に式を戻すことだった。

「アリシア嬢」

ヴィクトル様がこちらを見る。

「はい」

「式は」

「成立しました」

「問題は」

「ガレス氏の反発はありましたが、式場外で止めています。式そのものには影響なしです」

「よろしい」

その短い評価に、私は少しだけ背筋を伸ばした。

ヴィクトル様は、私の表情を見て、ほんのわずかに口元を動かす。

「今のは、分かりやすい褒め言葉です」

「そうですね」

「改善しましたか」

「少し」

「なら、よかった」

私は笑ってしまった。

昨日までなら、婚約式の後に笑う自分など想像できなかった。

けれど今日は違う。

誰かの婚約式が、正しく成立した。

その場に補佐として立てた。

それが、こんなに静かに嬉しいことだとは知らなかった。

午後、王家婚姻登録院で式後確認が行われた。

エミリア様とローレン様の正式婚約は、問題なく登録された。

本人意思確認書も、神官復唱方式の記録も、ガレス氏の式場外待機通知も、すべて保存される。

ユリアが記録棚へ書類を収める。

ミレーヌ女官長が、王妃宮への報告書を整える。

ヴィクトル様は監督官として、最後に印を押した。

そして私は、臨時補佐として、自分の報告欄へ署名した。

アリシア・エルヴェイン。

昨日の不成立確認書に書いた名。

任用書に書いた名。

そして今日、誰かの式が正しく成立したことを確認するために書く名。

同じ名前なのに、少しずつ重さが違う。

「アリシア嬢」

ヴィクトル様が声をかけた。

「はい」

「第一件目の補佐、お疲れさまでした」

「ありがとうございます」

「王妃殿下へ、問題なく終了したと報告します」

「はい」

「それから、これは登録院としての確認です」

彼は一枚の書面を私の前へ置いた。

臨時補佐任用書の正式控え。

昨日追記した条件が、すべて清書されている。

任期。

職務範囲。

報酬。

上申先。

干渉禁止条項。

私を保護対象ではなく、臨時補佐として扱うこと。

すべて、文書になっていた。

「控えをお渡しします」

「ありがとうございます」

「これで、あなたの席は登録院にあります」

席。

その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。

昨日まで、私は婚約式の席を失った令嬢だった。

でも今日、別の席ができた。

誰かの隣に置かれる席ではない。

私自身の名で用意された席だ。

「私の席、ですか」

「はい」

「待合室ではありませんね」

思わずそう言うと、ヴィクトル様が一瞬だけ目を瞬いた。

それから、ほんの少しだけ笑った。

「違います」

「よかったです」

「あなたの仕事の席です」

「はい」

「ただし」

「ただし?」

「今日は帰って休んでください」

私は少しだけ口を開いた。

机の上には、まだ次の婚約式の資料が見える。

読みたくなる。

確認したくなる。

けれど、ヴィクトル様はそれを察したように資料を閉じた。

「あなたは昨日、自分の婚約式を終わらせました」

「はい」

「今日は、他人の婚約式をひとつ守りました」

「はい」

「二日分としては十分です」

「……そうですね」

「休むことも、仕事を続けるための手続きです」

その言い方があまりにも事務的で、私は笑った。

「では、手続きとして休みます」

「よろしい」

「ヴィクトル様」

「はい」

「本当に、いろいろなものを手続きにしますね」

「手続きにできるものは、手続きにした方が人を守ります」

私は少しだけ考えた。

そして、頷いた。

「そうですね」

青い封蝋も。

不成立確認書も。

エミリア様の小さな声も。

ガレス氏を式場外に止めた通達も。

すべて、手続きだった。

冷たく見えるかもしれない。

でも、その冷たさが、誰かを守ることがある。

「ただし」

ヴィクトル様が続けた。

「手続きだけでは足りないものもあります」

「何でしょう」

「本人がどうしたいかを聞くことです」

私は、今日のエミリア様を思い出した。

震える声。

小さな「はい」。

自分の字で書いた確認文。

たしかに、手続きだけでは足りなかった。

その声を聞こうとしなければ、書類はただの紙になる。

「覚えておきます」

「あなたは、すでに覚え始めています」

「また褒めましたか」

「はい」

「今日は、かなり分かりやすいです」

「改善しました」

そのやりとりに、部屋の端でユリアが小さく咳払いをした。

今度は明らかに笑いを隠していた。

私は少し頬が熱くなる。

帰り際、王妃宮から短い文が届いた。

王妃殿下の署名入りだった。

エミリア・クライン令嬢の正式婚約式、問題なく成立との報告を受けました。

アリシア・エルヴェイン臨時補佐の働きを評価します。

待たされる令嬢だけでなく、声を奪われる令嬢も、王妃宮は放置しません。

私はその文を、しばらく見つめていた。

待たされる令嬢。

声を奪われる令嬢。

昨日の私と、今日のエミリア様。

違う痛み。

でも、どちらも放置されなかった。

「アリシア嬢」

ヴィクトル様が、馬車寄せまで送ってくれた。

今日も、半歩前ではなく、隣を歩く。

急がせない。

置いていかない。

その歩幅が、少しずつ心地よくなっている自分に気づく。

「明日は、午後からで構いません」

「午前は?」

「休務です」

「勝手に決まりましたね」

「登録院の判断です」

「私の意思確認は?」

そう言うと、ヴィクトル様が立ち止まった。

真面目な顔でこちらを見る。

「休みたいですか」

私は少しだけ驚き、それから笑った。

「はい」

「では、本人意思確認済みです」

「そうなりますね」

「記録しますか」

「しなくて結構です」

「では、私の記憶に」

「それも少し困ります」

「困る程度に覚えておきます」

昨日と同じ言い方だった。

けれど、昨日よりずっと軽く聞こえた。

馬車の扉が開く。

私は乗り込む前に、神殿の方角を見た。

遠くで、小さな鐘が鳴った気がした。

もしかしたら、ただの風音だったかもしれない。

それでも私は、その音を今日のものとして聞いた。

昨日、私の婚約式の鐘は鳴らなかった。

けれど今日、エミリア様とローレン様の鐘は鳴った。

二人がそろい、本人の声が届いた時刻に。

なら、それでいい。

私の鐘が鳴らなかったことは、なかったことにはならない。

でも、鳴らなかった鐘の後にも、別の鐘を正しく鳴らす仕事がある。

私はその場所に立てる。

「ヴィクトル様」

「はい」

「明後日からも、よろしくお願いいたします」

「明日は休務です」

「では、明後日から」

「こちらこそ」

彼は静かに一礼した。

「アリシア・エルヴェイン臨時補佐」

その呼び方に、胸の奥が温かくなる。

私は微笑んだ。

「はい」

馬車が動き出す。

王家婚姻登録院の建物が、夕暮れの中で少しずつ遠ざかる。

手元には、正式な任用書の控え。

胸の中には、昨日の痛みと、今日の鐘の音。

どちらも、私のものだ。

私はもう、誰かに当然のように待たされる令嬢ではない。

待つかどうかは、私が決める。

返事をするかどうかは、本人が決める。

その場所を守るために、私はここから歩いていく。

婚約式の鐘は、誰か一人が待ち続けた末に鳴るものではない。

二人がそろい、それぞれの声が届いた時に鳴るものだ。

その音を、私は今日、初めて本当の意味で聞いた気がした。