軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

伊勢松坂屋の本店で奈良のお坊さんと情報交換。延暦寺の話が奈良に入っているか聞く。探りがきている。落としどころを探している模様

伊勢松坂屋松坂本店の奥座敷に、奈良から来た僧侶が通されていた。

奈良の寺社筋とは、以前に少し揉めかけたことがある。五十万文を求められたところを、

博之が百五十万文を投げて「交流しましょう」と返した件だ。あれ以来、奈良の僧侶たちは

時間差でちょこちょこ松坂へ顔を出し、飯を食い、世間話をし、時には奈良の情報を置いていくようになっていた。

今日も、最初は和やかな話だった。

奈良の米の値。

大和八木の荷の動き。

寺の修繕に使う木材の話。

伊勢松坂屋の最近の催しの噂。

だが、博之が茶を飲みながら、ふと聞いた。

「ところで、比叡山の話とか、何か聞いてますか」

奈良の僧侶は、少しだけ笑った。

「聞いてますよ。というより、こちらにも探りは入ってきてます」

「やっぱりですか」

「はい。延暦寺さんも、相当焦っておられるんでしょうな」

お花が、ぴくりと反応した。

博之の首筋には、まだ薄く傷の跡がある。布はもう外しているが、お花はその跡を見るたびに

顔をしかめる。

奈良の僧侶は続けた。

「比叡山の話は、伊勢松坂屋さんの情報網でもだいぶ入っているでしょう?」

「まあ、京都郊外、大津、草津、堅田の方から、ちょこちょこ来てますね」

「大きな事件でしたからな。最初に聞いた時は、こちらでも『旦那様は大丈夫なのか』という話に

なりました。先に松坂へ来ていた僧から手紙も来ましたし、松坂で何やらまた催しを開いたという

噂も、うっすら聞いております」

「怪我して戻って、すぐ催しですからね」

お花が低い声で言った。

「本当に、安静という言葉を知らない方です」

「それは……ご無事で何よりでした」

奈良の僧侶は苦笑しながら頭を下げた。

博之は話を戻した。

「延暦寺側は、やっぱり落としどころを探してますか」

「おそらく。方々に探りを入れている動きは聞いております。朝廷筋、公家筋、寺社筋、

浅井、朝倉、そのあたりでしょうな」

「やっぱり、そうなりますか」

「ただ、苦しい展開やと思います」

奈良の僧侶は、茶を一口飲んだ。

「身から出た錆、と見られておりますから」

座敷が少し静かになった。

「朝廷へ礼に来た官位持ちを、帰り道に寺社筋が荒らした。しかも飯場を壊し、刃まで当てた。

そういう見え方になっております。これでは、朝廷筋も簡単には延暦寺へ肩入れできません」

ヨイチが帳面に控える。

「山科筋も静観ですか」

「今はそうでしょうな。仲介するにしても、時期を見ているはずです。今すぐ延暦寺の顔を立てるように

動くと、かえって評判が悪い」

「三好と六角に銭を流したことも効いてますか」

「効いております。延暦寺からすれば、それが一番腹立たしいでしょうな。自分たちに出すと

思っていた銭が、三好と六角へ流れた。しかも、治安維持という名目で」

奈良の僧侶は、自虐気味に笑った。

「まあ、我々も最初に金をせびったような経緯がありますから、人のことは強く言えませんが」

「いや、奈良の方はまだ交流になりましたやん」

「旦那様が百五十万文を投げたからです。普通はあんな返し方しません」

「それはそれで、よう言われます」

少し笑いが起きた。

だが、比叡山の話に戻ると、再び空気は重くなる。

「延暦寺さんとしては、朝廷筋に仲介を頼みたい。あるいは浅井や朝倉、本願寺あたりに

探りを入れて、交渉の土台を作りたい。そこまでは見えます」

「でも、時間がかかる」

「かかります。なにしろ、今すぐ味方になる者が少ない。三好と六角は、伊勢松坂屋さんから

銭を受け取る筋になっている。朝廷筋は身から出た錆と見る。寺社筋も、表では延暦寺の

顔を立てつつ、内心では様子見でしょう」

「もともと嫌々言うことを聞いてたところもありますか」

「あります」

奈良の僧侶は、声を少し落とした。

「比叡山の威は大きい。ですが、大きいからこそ、押しつけられていた側も多い。

今回、飯屋相手に強く出きれない様子が見えると、『あれ、意外と押し返せるのか』と

思う者も出てくる」

お花が静かに言った。

「他の人たちにも舐められ始めている、ということですか」

「はい。ただ、それが表立つかどうかは別です。皆、怖いですからな。けれど、心の中で見方が

変わるだけでも大きい」

博之は黙って聞いていた。

奈良の僧侶はさらに続けた。

「それに、領民が逃げている話も聞いております」

「京都郊外へ、ですね」

「はい。延暦寺の領分から逃げて、伊勢松坂屋さんの炊き出しや飯場へ入っている者がいるとか」

お花の顔が険しくなった。

「実際に来ています。家族連れもいます。不当な貸金や役務に耐えかねた人たちです。

店を奪われた、物を取られた、僧兵筋に脅されたという話も聞きました」

奈良の僧侶は、深く息を吐いた。

「全部が全部そうとは言いません。比叡山にも徳のある僧は多い。学問も祈りも、

あそこには大きなものがあります。ただ、坂本や領分の末端では、無茶なことをする者も

いるのでしょう」

「慈悲がない話でした」

お花の声には怒りがあった。

「子どもに粥を出しただけで泣かれる。布団を渡しただけで泣かれる。簡単な湯浴みをさせただけで、

家族全員が泣く。そんな状態になるまで追い詰められているんです」

奈良の僧侶は、目を伏せた。

「それは、延暦寺さんも困るでしょうな」

「困るでしょうね」

お花は冷たく言った。

「旦那様の首を見るたびに、私はそう思いますわ。本当に」

博之は少し肩をすくめた。

「お花さん、怖い」

「怖くもなります」

奈良の僧侶は、少し間を置いて言った。

「領民が逃げる。しかも、逃げた先で飯をもらい、寝床をもらい、掃除や炊き出しの

手伝いをしながら生き直している。これを力ずくで連れ戻せば、また悪評になります」

「追いにくいですよね」

「追いにくいです。かといって、放置すれば、伊勢松坂屋さんの飯場が逃げ場として広がる。

延暦寺さんとしては、相当やきもきしているはずです」

博之の口元が、少し上がった。

お花がそれを見逃さなかった。

「旦那様、ニヤニヤしない」

「いや、すみません」

「何が嬉しいんですか」

「嬉しいというか、まあ……効いてるんやなと」

博之は茶を置いた。

「刃物でやり返すわけにはいかん。うちは兵を持たん。けど、飯を出して、寝床を出して、

働き口を作る。それで困るなら、向こうのやり方にどこか無理があったということやと思うんです」

奈良の僧侶は、静かに頷いた。

「まさに身から出た錆、ですな」

「ただ、調子に乗ったらあかんとは思ってます。延暦寺は大きい。力もある。徳のある人もいる。

全部を敵に回す気はない」

「それがよいでしょう」

「でも、飯場に逃げてきた家族を追い返す気もない」

博之の声は、少しだけ硬くなった。

「寄りかかられるだけでは続かん。だから掃除でも炊き出しの整理でも、できることはやってもらう。

けど、飯と寝床は出す。そこは曲げん」

奈良の僧侶は、しばらく博之を見た。

「旦那様は、やはり飯屋ですな」

「ええ。飯屋です」

「ただの飯屋ではありませんが」

「それもよう言われます」

その場に、少し笑いが戻った。

だが、話の芯は重いままだった。

比叡山は、強く出られない。

けれど、弱く見られるのも困る。

朝廷筋には袖にされ、寺社筋は様子見。

浅井や朝倉に仲介を頼めば、別の条件を飲まされる可能性がある。

その間にも、領民は逃げ、飯場へ流れ込む。

奈良の僧侶は、最後に言った。

「延暦寺さんは、今かなり苦しいと思います。けれど、苦しい時ほど、変な手を打つこともあります。

お気をつけなさい」

お花が即座に答えた。

「もちろんです。旦那様は安静です」

「またそれか」

「またそれです」

博之は苦笑しながらも、茶を飲み干した。

「まあ、こっちはこっちで、飯を炊きますわ」

その顔には、やはり少しだけ、根なし草だった頃の笑みが戻っていた。