作品タイトル不明
一方の比叡山延暦寺。伊勢松坂屋の件で先方だけでなくその動きを見た商人筋、国人衆が舐め始めてるwww強く出れない上放置もできない。八方ふさがりで打開策を探る
比叡山延暦寺の中では、日に日に空気が重くなっていた。
大津で伊勢松坂屋の催しを荒らした一件は、思った以上に尾を引いている。
最初は、田舎から来た飯屋が朝廷に一千万文も寄進したと聞き、少し脅せばこちらにも
銭を出すだろう、という見立てだった。
だが、伊勢松坂屋の大膳亮、博之は折れなかった。
首筋に刃を当てられても引かず、延暦寺に銭を払うどころか、三好と六角へ五百万文ずつ流すと
言い放った。
しかも、それがただの啖呵ではなく、実際に銭が動き始めている。
そこから、延暦寺は妙な形で身動きが取りにくくなった。
伊勢松坂屋に強く出れば、三好や六角が治安維持を名目に動く可能性がある。
堅田や京都郊外の飯場を荒らせば、今度は「困っている者の飯を奪った寺」と言われる。
逃げ込んだ住民を力ずくで引き戻せば、「不当な貸金や役務から逃げた者を追い返した」と噂になる。
だから強く出られない。
だが、強く出られないこと自体が、今度は別の問題を生んでいた。
「……舐められ始めておる」
上座の僧が、苦々しく言った。
若い僧が顔を上げる。
「伊勢松坂屋に、でございますか」
「伊勢松坂屋だけではない」
上座の僧は、重い声で続けた。
「大津の一件以来、周辺の寺社、商人、町の者、果ては末端の国人衆まで、こちらの様子を見ておる。『比叡山は飯屋相手にも押し切れなかった』とな」
座敷が静まり返る。
別の僧が口を開いた。
「しかし、ここで強く出れば、また騒ぎが広がります」
「分かっておる」
上座の僧は苛立たしげに答えた。
「だから困っておるのだ」
今までなら、比叡山の名を出せば、多くの者は黙った。
神輿を動かす。
僧兵が出る。
仏罰をちらつかせる。
それだけで、たいていは折れた。
だが、今回それをやって、折れなかった者が出た。
しかも相手は武士ではない。
飯屋である。
この事実が、周囲に妙な勇気を与えていた。
「堅田の寺の中にも、表立っては何も言わぬが、伊勢松坂屋の炊き出しを黙認する者が出ております」
「大津の商人も、以前ほどこちらの顔色を見ておりませぬ」
「京都郊外では、伊勢松坂屋に飯をもらった者が、『あそこは追い返さん』と話しております」
「寺領の端でも、役務を渋る者が出始めているとの報告が」
報告が続くたびに、上座の僧の顔は険しくなった。
「伊勢松坂屋へ逃げ込む者は、どうなっておる」
「増えております。ただし、大勢が一気に、というわけではありません。数人ずつ、家族単位で、
京都郊外や堅田の飯場へ流れております」
「理由は」
「不当な貸金に耐えかねた者。返しても返しても利息が増え首が回らない者。寺社筋の役務に
駆り出され、家の仕事が回らなくなった者。末端の僧兵筋に、名目の曖昧な銭を取られていた者。
そういう者たちです」
座敷の空気が、さらに重くなる。
それを大きく調べれば、自分たちの末端の不始末まで表に出る。
だが、放置すれば伊勢松坂屋の飯場が逃げ場になる。
「力ずくで戻せばどうなる」
若い僧が言った。
老僧が首を振る。
「今それをやれば、こちらが悪者になる。『比叡山は飯を食わせてもらっている者を
無理やり引き戻した』とな。大津の件がある今、それはまずい」
「では、放置するしかないのですか」
「放置すれば、さらに舐められる」
誰かが小さく吐き捨てた。
その通りだった。
強く出れば評判を失う。
動かなければ威を失う。
延暦寺は、その狭間に押し込まれていた。
「朝廷筋はどうだ」
上座の僧が問う。
使いに出ていた者が、苦い顔で答えた。
「山科の筋、公家筋にも探りを入れましたが、反応は芳しくありません」
「何と言われた」
「はっきりとは申されませぬが、今は身から出た錆ではないか、という空気です」
「朝廷へ礼に来た官位持ちを、大津で荒らした形になっているからか」
「はい。しかも伊勢松坂屋は、朝廷へ一千万文相当の寄進をした直後です。そこで延暦寺が銭を求め、
飯場を荒らしたとなれば、朝廷筋も表立ってこちらを庇いにくいようです」
「九条、近衛は」
「探りは入れております。ただ、銭で動かすにしても、今こちらが銭を撒けば、
さらに悪く見える可能性があります」
「山科も動かぬか」
「今は静観かと」
上座の僧は、目を閉じた。
朝廷筋に袖にされる。
これもまた、周囲には伝わるだろう。
「浅井はどうだ」
「浅井筋は、戦で協力することを条件にするなら、延暦寺のために動くのはやぶさかではない、
という感触です」
「戦で協力、か」
「はい。こちらが浅井の軍事に便宜を図る。その見返りとして、仲介に立つ形ならば」
「だが、浅井だけでは弱い」
老僧が言った。
「相手は三好と六角に銭を流しております。浅井一枚で仲介に立っても、重みが足りませぬ」
「朝倉を絡めるか」
「朝倉を絡めれば重くなります。ただ、敦賀筋の話が出る可能性があります。
伊勢松坂屋は日本海の魚や港飯にも関心を持っているようです。仲介の代わりに、
浅井領や敦賀筋で飯場を出す許可を求めてくるかもしれません」
「向こうの得になる」
「はい」
若い僧が苛立って言った。
「飯屋相手に、なぜここまで気を遣わねばならぬのですか」
上座の僧が静かに答えた。
「飯屋だからだ」
若い僧は黙った。
「兵なら兵で受けられる。商人なら銭で折れる。だが、あれは飯を出す。飯を出して、人を集め、
逃げた者を抱え、銭を大名へ流し、寺や朝廷へ筋を通す。こちらが力を振るうほど、
向こうは飯場を逃げ場に変える」
老僧が続けた。
「しかも、今はこちらが舐められ始めている。伊勢松坂屋だけでなく、他の寺社や商人、
町の者まで、こちらの出方を見ている。ここで強く出られないと見れば、さらに足元を見られる」
「かといって、強く出れば大騒動」
「そうだ」
上座の僧は、低く命じた。
「浅井との話は続けろ。ただし、戦の協力を軽々しく約束するな。朝倉にも探りを入れるが、
敦賀筋を餌にされぬよう気をつけよ。山科、九条、近衛、本願寺、寺社筋には薄く当たれ」
「伊勢松坂屋には」
「直接はまだ触れるな。堅田、京都郊外、大津、草津。どこに何人入り、
何を配り、誰が協力しているかを調べろ」
「逃げ込んだ者は」
「今は力ずくで戻すな」
その声には、悔しさが滲んでいた。
延暦寺はまだ強い。
だが、その強さを振るえば振るうほど、今は悪評が広がる。
飯場を壊せば、飯を壊した寺。
民を戻せば、逃げた民を追う寺。
銭を求めれば、官位持ちの飯屋を脅す寺。
黙れば、飯屋に押された寺。
どれを選んでも、痛みがある。
上座の僧は、最後に呟いた。
「落としどころを探せ。早くな」
それは命令であり、焦りでもあった。
比叡山は、伊勢松坂屋を潰せない。
だが、放置もできない。
そして、周囲の目はすでに、その迷いを見始めていた。