軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

一方の近江堅田。拠点を作りたいが延暦寺の影響下のため同情的だが非協力的。端の寺で炊き出しを始める。伊勢松坂屋の者は大旦那の武勇伝のために士気高い

堅田の方では、伊勢松坂屋の者たちが、静かに動き始めていた。

もともと博之たちは、大津、草津、観音寺筋から船で物資を運び、

堅田に小さな拠点を作るつもりでいた。

琵琶湖の水運を使える場所。

大津にも近く、草津にもつながる場所。

比叡山の足元にも近いが、だからこそ意味のある場所。

だが、話は簡単ではなかった。

大津で延暦寺と揉めた伊勢松坂屋。

その名は、すでに堅田にも届いていた。

「気の毒やとは思う」

「飯場を荒らされたのは、そらひどい話や」

「大旦那が首に刃を当てられても引かんかったいうのも聞いた」

「けどなあ、うちまで睨まれたら困る」

「延暦寺さんに目をつけられたら、商売も暮らしもやりにくい」

そんな声が、大半だった。

同情はある。

だが、協力はできない。

それが堅田の空気だった。

伊勢松坂屋の者たちも、それを責めることはしなかった。

「そらそうやろな」

堅田入りした古参の一人が、荷を下ろしながら言った。

「こっちは大旦那の漢気に惚れて来てるけど、ここの人らは明日の飯と延暦寺の目がある。

無理に巻き込んだらあかん」

若い者が頷く。

「まずは炊き出し一回から、ですね」

「そうや。店を出す、商売をする、銭を稼ぐ。そういう話を先にしたら怖がられる。まず飯や」

彼らは、寺を一軒一軒回った。

門前で頭を下げ、事情を話す。

「伊勢松坂屋と申します。大津で騒ぎがあり、延暦寺さんとは行き違いがございました」

「行き違い、か」

「はい。こちらとしては、戦をするつもりも、揉め事を大きくするつもりもございません。

ただ、飯が食えない者がいれば、飯を出したいのです」

最初の寺では断られた。

「気持ちは分かるが、うちでは無理や」

次の寺でも、やんわり断られた。

「今は時期が悪い」

さらに別の寺では、門前で話も聞いてもらえなかった。

だが、何軒目かで、住職が少しだけ足を止めた。

「延暦寺さんの今回のやり方には、わしも賛同できん」

その寺は、小さかった。

大寺のような力はない。檀家も多くない。だが、その住職の顔には、

長年何かを飲み込んできたような疲れがあった。

「今までの立ち振る舞いも、こちらに迷惑がかかることは多かった。とはいえ、

表立って逆らうわけにもいかん」

伊勢松坂屋の者は、深く頭を下げた。

「表立ってご協力いただかなくても構いません。まずは、炊き出しを一回だけでも

やらせてもらえませんか。飯が食えない人に、粥でも汁でも配りたいのです」

「一回だけか」

「はい。一回だけでも」

「商売ではなく?」

「最初は商売ではありません。飯を出すだけです。釜と水と、少し火を使える場所があれば、

それで始められます」

住職はしばらく考えた。

「空き家ならある」

伊勢松坂屋の者たちは顔を上げた。

「ただし、寺の名を大きく出されると困る。延暦寺さんのこともある。

少し高めに金は取らせてもらうぞ」

「全然大丈夫です」

即答だった。

「荷は持ってきております。米、味噌、古布、少しの器。釜があればすぐ炊けます。

別にうちは、ぼったくりの飯屋ではありません。下町の飯屋です。まずは食べてもらえたら、

それだけで満足です」

その低い腰に、住職は少しだけ表情を緩めた。

「そこまで言うなら、一回だけやってみるか」

その日、堅田の片隅で、小さな炊き出しが始まった。

大きな看板は出さない。

伊勢松坂屋の旗も控えめにした。

寺の空き家の裏手で釜を据え、米を炊き、味噌汁を作る。

具は多くない。だが、温かい。

最初に来たのは、数人の子どもだった。

「ほんまに食べてええの?」

「ええで。熱いから気ぃつけや」

次に、年寄りが来た。

それから、港で働く者、仕事にあぶれた者、遠巻きに見ていた女衆が少しずつ近づいてきた。

「銭は?」

「今日は炊き出しです。いりません」

「ほんまに?」

「はい。ただ、器は返してくださいね」

そんなやり取りをしながら、飯は静かに配られていった。

食べた者は、少し驚いた顔をした。

「ただの粥かと思ったら、うまいな」

「味噌の味がしっかりしてる」

「これ、どこの飯屋や」

「伊勢松坂屋いうらしい」

「あの、延暦寺と揉めたところか」

「しっ。声が大きい」

噂は、じわじわ広がった。

伊勢松坂屋は、堅田で大きく店を構えたわけではない。

派手に商売を始めたわけでもない。

ただ、空き家を借り、釜を置き、飯を炊いた。

けれど、それだけで人は集まり始めた。

そして、その動きは比叡山側にも届いた。

坂本へ報告が上がる。

「堅田にて、伊勢松坂屋が拠点らしきものを作り始めております」

「拠点?」

「はい。ただし、歪な形です。大きな店ではなく、寺の空き家を借り、炊き出しから始めております」

「協力する者がいたのか」

「堅田の多くは、延暦寺の意向を恐れて非協力的です。表立って支える者は少ない。

ただ、今回の大津での件に同情的な者、あるいは延暦寺との縁が薄い寺や町人が、

少しずつ物資を受け入れております」

報告を受けた僧たちは、顔をしかめた。

「厄介だな」

「はい。商売を始めたと言えば叩きやすいのですが、炊き出しとなると……」

「飯が食えぬ者に飯を出しているだけ、と言い張れる」

「その通りです」

「しかも、こちらが力で止めれば、大津の件と同じ噂になる」

座敷の空気は重かった。

伊勢松坂屋は、正面から殴りかかってきてはいない。

堅田の港を奪うわけでもない。

坂本へ店を出したわけでもない。

延暦寺の名を罵っているわけでもない。

ただ、飯を出している。

それが一番、止めにくかった。

一方で、堅田に入った伊勢松坂屋の者たちは、妙にやる気に満ちていた。

理由ははっきりしている。

大旦那が大津で首に刃を当てられながらも引かなかった。

しかも、延暦寺に銭を払うのではなく、三好と六角へ合計一千万文を流した。

その話は、伊勢松坂屋の中で、ほとんど武勇伝のように広がっていた。

「大旦那がそこまでやったんや」

「うちらが堅田でびびってどうする」

「けど、無茶はするなって言われてるぞ」

「無茶はせん。飯を炊くだけや」

「飯を炊くだけなら、誰にも負けん」

古参の一人が、若い者たちに言った。

「ええか。ここでは腰を低くや。偉そうにするな。延暦寺の悪口を言うな。聞かれたら、

大津ではいろいろありましたが、うちは飯屋です、とだけ言え」

「はい」

「飯を食いに来た者には、飯を出す。困ってる者には、できる範囲で古布を渡す。

仕事を探してる者がいたら、名前を控える。勝手に雇いすぎるな。全部、松坂へ書け」

「箇条書きで、でしたね」

「そうや。見たこと、聞いたこと、食った感想、全部書け」

その夜、堅田の小さな空き家では、炊き出しの残りの汁をすすりながら、

伊勢松坂屋の者たちが帳面を囲んでいた。

今日来た人数。

子ども何人。

年寄り何人。

寺の反応。

港の者の反応。

延暦寺の名が出た時の空気。

米の残り。

味噌の残り。

必要な釜。

追加の器。

それらを、拙い字で書いていく。

「大旦那が見たら、なんて言うやろな」

「字が汚いって言うんちゃうか」

「ヨイチ様に直されるな」

「けど、書けって言われたからな」

若い者たちは笑った。

怖さはある。

延暦寺に睨まれている土地で飯を炊いているのだ。怖くないはずがない。

けれど、やる気の方が勝っていた。

大旦那が首を張った。

なら、自分たちは釜を張る。

刀も薙刀も持たない。

持っているのは、米と味噌と釜だけ。

それでも、堅田に伊勢松坂屋の飯の匂いが、ほんの少しだけ立ち始めていた。