作品タイトル不明
博之44才10月1週目。5億2,000万文→5億5,804万文。比叡山。大名家の依頼分の減少がないため通常営業。
松坂本店の奥座敷で、博之は帳面を前にして、麦茶をすすった。
「とりあえず、帳簿締めようか」
そう言うと、ヨイチはすぐに帳面を開いた。
「十月一週目締め、という扱いですね」
「うん。実際には九月末までの分やな。比叡山の件でいろいろずれとるけど、
ここで一回締めとかんと、また訳分からんようになる」
「承知しました」
ヨイチは、前回の帳簿を指でなぞった。
「前回締めでは、五億二千万文で置いております。別途、予備費を三百四十四万文ほど
持たせていましたが、基準額としては五億二千万文です」
「うん。今回は朝廷への一千万文、三好と六角への一千万文、大津の損害分はもう前回で見たから、
そこは引かんでええ」
「はい。今回は通常運用分を中心に締めます」
ヨイチは別の紙を広げた。
「まず買い付け隊です。輸送費や道中の手当を差し引いて、利益は千九十万文です」
「買い付け隊、やっぱり強いな」
「難波が増えたことも大きいです。荷の回り方が少し変わりましたが、結果としては利益が出ています」
「難波は立ち上げの手間はあるけど、先々効いてくるやろな」
「はい。ただし、人手も使っています」
「水夫の人件費やな」
「そこも入れております。船回り、人足、荷の積み替え、港での保管。その辺りは以前より
膨らんでいます」
博之は少し顔をしかめた。
「船は金食い虫やな」
「ですが、荷を動かせる力は増えています」
「それはそうやな。銭を銭で置いとくより、荷と船に変えた方がええ時もある」
ヨイチは次の項目へ移った。
「拠点関係ですが、今回は固定費を少し多めに見て、五十万文引いております」
「うん。人が増えたし、催しも増えた。細かいところで出ていくやろうから、多めに見とこう」
「松阪を含めて四か所ほどで、鶏の天ぷら酢漬け、魚の揚げ酢漬けを出す小さな店、
あるいは定食の形を試しています」
「それはどうや」
「かなり反応は良いです。特に鶏の酢漬けは、魚ほど場所を選びません。魚の揚げ酢漬けは、
港や白子、鳥羽では強いですが、内陸では安定供給に課題があります」
「まあ、予想通りやな」
「この新しい店の利益と、拠点固定費の増加は、今回はおおむね相殺で見ています」
「それでええ。最初から大きく利益取ろうとせんでいい。味が根付く方が大事や」
ヨイチは、少し声を落とした。
「次に、堅田です」
「そこは垂れ流しでええ」
博之は即答した。
「はい。堅田については、現時点で四十万文のマイナス計上です。米、味噌、器、空き家の借り賃、
現地への手当、寺への礼、運送費。炊き出し中心なので、当然ながら利益はありません」
「それでええ」
博之は帳面を見ずに言った。
「堅田は商売やない。これは、わしらの戦いや」
ヨイチは静かに筆を止めた。
お花も、少しだけ博之を見た。
「やれるところまでやる。引く時は引く。人命優先。けど、飯を出せるうちは出す。比叡山の足元で、
飯を食えへん人間に飯を出す。これは銭の計算だけで決めたらあかん」
「承知しています」
「ただし、記録はちゃんとしてくれ」
「もちろんです。堅田は、損益ではなく、別枠の活動として見ます。ただし、
帳簿上は四十万文のマイナスを入れます」
「うん」
ヨイチは次へ進めた。
「拠点の通常利益については、二千七百二十四万文です」
「それは、松阪、津、白子、鳥羽、伊勢、京都郊外あたりか」
「はい。堺や熱田については、立ち上げや動きはありますが、今回は人件費や準備費と相殺しています」
「堺と熱田は、まだ種まきやな」
「そう見ています。今後、砂糖、小豆、港飯、熱田方面の鶏の酢漬けが回り始めれば、
利益が乗る可能性はあります」
「そこは焦らん」
「はい」
ヨイチは数字をまとめた。
「買い付け隊利益、千九十万文。拠点通常利益、二千七百二十四万文。固定費増加と新店利益は相殺。
堅田は四十万文のマイナス。堺、厚田の立ち上げ分は人件費等で相殺」
「で、合計は?」
「合計で、三千八百十四万文のプラスです」
博之は少し黙った。
「……またでかいな」
「はい」
「今回は朝廷や三好六角への大きな支出がないから、普通に積み上がってる感じやな」
「そうです。前回の五億二千万文に、三千八百十四万文を加えます」
ヨイチは帳面に大きく書いた。
「五億五千八百十四万文でございます」
博之は、天井を見た。
「五億五千八百十四万文」
「はい」
「もう本当に飯屋の数字ちゃうな」
「飯屋の数字です。ただ、飯屋が広すぎます」
「またそれか」
ヨイチは少しだけ笑った。
お花が口を挟んだ。
「ただ、全部を自由に使えると思わない方がいいですね」
「それは分かってる」
博之は頷いた。
「固定費は増える。不測の事態もある。比叡山絡みで、またどこかに銭がドバッと出るかもしれん。
堅田も垂れ流しや。船も作る。人も育てる」
「はい。ですので、帳簿上は五億五千八百十四万文として押さえますが、実際にはかなり厚めに
予備を見ておくべきです」
「そうやな」
ヨイチは別紙に「留保」と書いた。
「催し会についてですが、松阪城の催しも含め、売上はかなり立っています。ただし、原価、
会場手配、人足、料理人の手当、器の補充、客整理の費用を差し引くと、伊勢松坂屋の懐に入る分は
ほぼありません」
「残りは寄進やからな」
「はい。松阪のお殿様への寄進、寺への寄進、会場を貸してくれたところへの礼。最終的には、
ほぼ相殺です」
「それでええ」
博之は少し満足げに言った。
「催し会は、うちの懐に入れるためだけにやってるわけやない。料理人を育てる。
客に飯を食わせる。町を盛り上げる。しかも売上を立てながら寄進できる。これが大事や」
「実質的には、費用を客の参加費でかなり吸収できています」
「それがありがたい。全部持ち出しでやったら、いくら銭があっても続かん」
「催しを続けるためにも、客から百文、百五十文、二百五十文と、規模に応じて取る仕組みは必要です」
「うん。無料ばっかりやと、客も飯に向き合わん。少しでも払うと、ちゃんと食う。
竹串も真剣に入れる」
お花が頷いた。
「炊き出しは炊き出し。催しは催し。そこを分けるのが大事ですね」
「そうや。困ってる人には飯を出す。楽しみに来る人には、ちゃんと銭を払ってもらう。
料理人の腕を見るなら、客にも真剣になってもらう」
ヨイチは帳面にまとめた。
「今後の方針として、催し会は各拠点で小規模に継続。売上は原価と会場費を差し引き、
残りを寄進。伊勢松坂屋は直接利益よりも、育成と信用を得る」
「それでいこう」
博之は、帳面の数字をもう一度見た。
五億五千八百十四万文。
堅田で銭を垂れ流しても、船に銭を使っても、催しを寄進に回しても、まだ増えている。
それは頼もしくもあり、怖くもあった。
「金があるから何でもできる、と思ったらあかんな」
博之がぽつりと言うと、ヨイチが頷いた。
「はい。金があるからこそ、出し方を間違えると大きく壊れます」
「比叡山の件でよう分かったわ。銭をどこに出すかで、敵も味方も変わる」
「今回、延暦寺には出さず、三好と六角に出した。それが流れを変えました」
「奈良では余分に出して交流を作った。堅田では垂れ流して飯場を作る。松阪では売上を
寄進に回して催しを続ける」
博之は苦笑した。
「同じ銭でも、意味が全部違うな」
「だから帳簿が大事です」
「ほんまやな」
お花が静かに言った。
「旦那様が動けない間、帳簿と文で動くしかありません」
「そうやな。俺が動けん分、銭と文と師範に動いてもらう」
ヨイチは帳面を閉じた。
「では、十月一週目締めとして、五億五千八百十四万文。堅田は別枠で継続監視。
催し会は収益より育成と寄進を重視。これで記録します」
「頼む」
博之は麦茶を飲み干した。
「順繰り順繰りやな」
「はい」
「大きな会も、小さな催しも、炊き出しも、商売も、寄進も。全部いっぺんにやると壊れる。
だから、順繰りや」
ヨイチが頷いた。
「まずは、回る形を作る」
「そうや。うちは飯屋や。飯が回って、人が回って、銭が回る。そこを止めんようにしよう」
十月一週目の帳簿は、五億五千八百十四万文で締まった。
だが、その数字以上に大きかったのは、伊勢松坂屋が新しい金の使い方を覚えつつあることだった。
儲けるための銭。
守るための銭。
逃がすための銭。
育てるための銭。
寄進として信用に変える銭。
博之は帳面を見つめながら、静かに言った。
「銭は飯に変えてこそやな」
その言葉を、ヨイチは帳面の端に小さく書き留めた。