作品タイトル不明
木下秀吉が一泊する。次の日に見舞いの品が来たので博之に渡して帰る。博之から尾張の料理対決の助言と師範・師範代の派遣を約束する旨を聞く。
その日は、木下秀吉に松坂本店へ泊まってもらうことになった。
信長からの見舞いの品は、後から部下が運んでくるという話だったので、
それを受け取ってから帰ってもらうのが筋だろう、ということになったのである。
秀吉も、松坂城での料理催しを見た直後だったから、すぐに帰るよりも少し整理したい様子だった。
「いやあ、今日の会は、ほんまにええ土産話になります」
「土産話で済むんですかね」
「済まんかもしれませんな」
秀吉は笑った。
その夜は、簡単な飯と湯で済ませた。博之はお花に強く言われ、早めに休まされた。
本人は「もう少し話してもええやん」と言ったが、お花が一言、
「安静です」
と言ったので、それ以上は誰も逆らわなかった。
翌朝。
松阪本店の奥座敷には、また小鉢が並んでいた。
昨日の料理催しの余熱が、まだ料理番たちの中に残っている。
焼き魚の小鉢。
鶏の天ぷら酢漬け。
魚の揚げ酢漬け。
根菜の味噌煮。
混ぜ飯の小さな握り。
汁物。
酢の物。
干物のほぐし。
博之はそれを見て、ため息をついた。
「昨日あれだけ食うたのに、またこれか」
料理番が胸を張った。
「昨日の会を見て、皆、火がついております」
「火がつきすぎや」
「量は少なくしております」
「そう言うて、小鉢が八つあるやんけ」
秀吉は横で笑っていた。
「これが日常なのですか」
「最近、こんなんばっかりです」
博之は箸を取り、ひとつずつ食べた。
「これは任せ印やな。酢の角が取れてる」
ぽん、と印。
「こっちはまだ見習い。味噌が前に出すぎや」
ぽん、と別の印。
「これは任せに近いな。混ぜ飯としてはまとまってる」
料理番たちは、印が押されるたびに表情を変えた。
秀吉はそれを見ながら、感心したように言った。
「朝飯の場が、そのまま稽古場ですな」
「そうです。逃げ場がありません」
博之が言うと、お花がすぐに続けた。
「旦那様にも逃げ場はありません。食べすぎないでください」
「はい」
朝の品評が終わると、博之は秀吉と向かい合った。
ヨイチは帳面を開き、お花は少し離れて見守っている。
「木下様。昨日の催しのことは、ぜひ信長公に伝えてください」
「もちろんです。あれを見ずに言葉だけで伝えるのは惜しいですが、できる限りお伝えします」
「で、比叡山の件もありますから、私はしばらく尾張までは行けません」
博之は首筋の布に触れた。
「お花さんも心配してますし、基本は松阪にいて、ここから指示を出す形になります」
「それがよいでしょう」
秀吉は真面目に頷いた。
「今、大膳亮殿が動くと、また話が大きくなりそうです」
「それは否定できません」
博之は苦笑した。
「ただ、尾張のことを忘れているわけではありません。昨日、師範になった者のうち一人と、
師範代を何人か、尾張の津島方面へ派遣する形は取れると思います」
「師範と師範代を、尾張へ」
「はい。土産話として、松阪でこういう催しが開かれたことを伝える。あわせて、
信長公に見てもらう。料理勝負というほど大きくなくても、一度、下見のような
形でやってみるのはどうかと」
秀吉は目を細めた。
「津島、熱田、常滑、瀬戸あたりですか」
「そうです。尾張の拠点で言えば、津島、熱田、常滑、瀬戸。この辺で料理番を育てていく。
いきなり松坂みたいに、師範代の部で客から二百五十文取るのは難しいと思います」
「松坂は、すでに飯の熱が根づいておりますからな」
「ええ。だから尾張では、客向けに百文、あるいは百五十文ぐらいから始める。
竹串も五本渡して、気に入った飯に入れてもらう。小さな料理の野良試合みたいな形なら、
できると思います」
ヨイチが帳面に書き込む。
博之は続けた。
「師範には、師範代までの者を見る権限をある程度持たせます。任せ印、見習い印。その場で
全部決めるのは難しくても、料理人を育てるきっかけにはなる」
「なるほど」
「ただ、ここははっきり言っておきたいのですが」
博之は少し姿勢を正した。
「私は、秀吉様のことも、信長公のことも嫌いではありません。むしろ、興味深いと思っています。
ですが、飯を戦に使うことについては、かなり否定的です」
秀吉は黙って聞いた。
「炊き出しで人を助ける。荒れた土地で飯を出す。新しく入った土地で、
町の空気を和らげる。そこまでは分かります。けど、飯を使って人を釣る、
騙す、戦の道具にする。そこには私は乗りにくい」
「承知しております」
秀吉は静かに言った。
「大膳亮殿がそこを嫌がることは、信長様も分かっておられると思います」
「それならありがたいです」
博之は少し表情を緩めた。
「ただ、秀吉様が資金繰りに困っているというのであれば、別の形なら協力できます」
「別の形」
「うちの料理人を、織田家の武家屋敷や、奉行所の庭、あるいは寺の境内に出して、
料理の野良試合をする。客から銭を取り、その売上の一部を寄進する。
武家屋敷なら織田方へ。寺なら寺へ。そういう形で銭を回すなら、まだ譲れる線です」
秀吉の目が変わった。
「それは、興味深いですな」
「うちとしても、よその土地で腕を振るう場になる。客に評価してもらう場になる。
料理人が磨かれる。尾張の人にも、伊勢松坂屋が普段から客と向き合う飯屋やと伝わる」
「単なる資金集めではなく、料理人育成と交流にもなる」
「そうです。戦のための飯ではなく、土地に飯を馴染ませるための催しです」
秀吉は深く頷いた。
「それだけ聞けただけでも十分です。よい助言をいただきました」
「助言というほどでも」
「いえ。これは信長様に進言いたします」
秀吉はさらに言った。
「そして、大膳亮殿が選んでくださる師範と師範代の方々を、信長様の前に連れて行く。
そこで、織田方の料理番とまではいかずとも、台所方や町の料理人を交えて、
小さな他流試合の形を作る。これは、かなり面白いと思います」
「大きくやりすぎると失敗しますから、最初は小さくです」
「分かります。百文、百五十文。竹串五本。まずは人の反応を見る」
「はい。尾張での飯の熱は、まだ松阪ほどではないと思います。だから、最初から高くしすぎると
引かれる。まずは、面白そうやな、食ってみようか、ぐらいで始めるのがいいです」
秀吉は笑った。
「大膳亮殿、行かずとも尾張の催しが見えておりますな」
「見えてるというより、松阪で失敗しかけたことを思い出してるだけです」
「それでも十分です」
その時、外から知らせが入った。
信長からの見舞いの品が届いたという。
秀吉は立ち上がり、博之へ改めて頭を下げた。
「では、品を納めたうえで、私は尾張へ戻ります」
「遠いところ、ありがとうございました」
「こちらこそ、ええものを見せていただきました」
秀吉は少し笑った。
「信長様には、こう伝えます。博之殿は、まだ尾張へは来られぬ。だが、師範と師範代を
送ることはできる。飯を戦の道具にするのは嫌がるが、飯で土地を和らげ、
銭を回し、料理人を育てる催しなら協力できる、と」
「それでお願いします」
「それと、松阪の熱は本物だった、と」
博之は少し照れたように笑った。
「尾張でも、少しずつ熱が出るといいですね」
「出しましょう」
秀吉は力強く言った。
「飯で人が集まるなら、それは大きな力です」
博之は頷いた。
「ただし、飯は人を食わせるためのものです。そこだけは、忘れんでください」
秀吉は真面目に頭を下げた。
「肝に銘じます」
こうして、木下秀吉は松阪を発つことになった。
手には、信長への土産話が山ほどある。
比叡山と揉めた飯屋。
帰ってすぐに催しを打った大旦那。
師範と師範代を生み出す仕組み。
そして、尾張でも小さく始められる料理の野良試合。
秀吉は馬に乗りながら、内心で思った。
信長様は、きっと面白がる。
そして、この飯屋を、また少し泳がせるだろうと。