作品タイトル不明
伊勢松坂屋の奥座敷で会議。松坂城での他流試合は伊勢では運用可能だがその他はまだ未知数。尾張に派遣。小さく始めて報告は箇条書きでいいので細かく送る。
松坂本店の奥座敷に、古参衆と師範代、それから昨日新しく師範になった者たちが集められた。
博之は首筋に布を巻いたまま、上座というほどでもない場所に座っている。
横にはヨイチが帳面を広げ、お花が少し離れて目を光らせていた。
「とりあえず、方針だけ話しとく」
博之がそう言うと、座敷の空気が締まった。
「そろそろ帳簿は切ろうと思ってる。けど、わし自身はしばらく松坂から動かん。
比叡山の動きもあるし、何よりお花さんが怖い」
「怖いではありません。安静です」
「はい、安静です」
少し笑いが起きた。
博之は続ける。
「ただ、わしが動かん代わりに、方々へ文を撒くことはある。伊勢、尾張、京都、近江、奈良、
堺、いろいろや。ヨイチに素案を書かせて、絵付きで便りを出すこともある。
届いた文は、ちゃんと読んでくれ」
ヨイチが頷く。
「文には、単なる挨拶だけでなく、料理の案、拠点の方針、危険がある場所、
誰に筋を通すべきかも書きます」
「そういうことや。飯屋は飯だけ作ってたらええ、という段階は少し越えてきた。面倒やけどな」
古参の一人が苦笑した。
「旦那様が大きくしすぎたんです」
「それはまあ、否定せん」
博之は昨日の催しの記録へ目を落とした。
「まず、昨日の松坂城での催し。あれは大成功や」
座敷にいる師範代たちの表情が明るくなる。
「見習い、任せ印、師範代、師範。部を分けてやったことで、人も育った。
客も楽しんだ。城の料理人とも混ざれた。新しい師範と師範代も生まれた。あれは今後の形になる」
新しく師範になった者たちは、少し緊張した顔で頭を下げた。
「ただし、あれを毎回わしが見て回るわけにはいかん。師範代までは、
できるだけ各拠点で出せるようにしたい」
ヨイチが帳面に書き込む。
「伊勢、松阪、津、白子、鳥羽、桑名、関、亀山。まずは北畠領内ですね」
「そうや。北畠領内では、伊勢松坂屋はかなり根付いてる。伊勢のお殿様とも関係がある。
親善試合みたいな形で催しをすれば、人も集まるやろう」
博之は、師範たちを見た。
「見習い印の部、任せ印の部、師範代の部。これを分けてやる。昨日みたいに、
客に竹串を持ってもらって、食ってもらって、入れてもらう。最終的には師範が見て、
師範代を決める」
「旦那様なしで、ですか」
若い師範代が不安そうに聞いた。
「そうや。俺なしでできるようにならなあかん」
博之ははっきり言った。
「俺がおるからできる、では困る。師範が何人かで取りまとめる。
古参が会場を見る。ヨイチが帳面の形を作る。お花さんみたいな人が無茶を止める」
「私は無茶を止める係なんですか」
「大事な役です」
「それは認めます」
また少し笑いが起きた。
博之は地図を指した。
「伊勢は見える。関係もできてる。昨日の運営をやった者を、伊勢の方に派遣して、
同じようにやればいい。けど、鳥羽と津はまだ分からんところがある。まして尾張はもっと分からん」
「尾張は、津島、熱田、常滑、瀬戸あたりですか」
「そうや。できるところから増やす。無理して全部やらん」
そこで博之は、新しく師範になった者たちに向き直った。
「今回、秀吉さんにも話した。師範一人と、師範代数人を、津島の方へ行ってもらいたい」
座敷が少しざわついた。
「尾張へ、ですか」
「そうや。信長公のところへ、土産話と一緒に行く。松阪でこういう催しをやった。
師範と師範代ができた。尾張でも小さくできるかもしれん。そういう話を持っていく」
師範の一人が、少し戸惑いながら言った。
「費用は……」
「別途出す。旅費も小遣いも出す」
博之が言うと、師範たちは顔を見合わせた。
「いや、旦那様。もう、金は……」
「なんや」
「名誉職みたいなところもありますし、飯も寝床もありますし、正直、使うところが
小物を買う市ぐらいで」
「それはあかん」
博之は即座に言った。
「数えるのをやめるな。銭は大事や。余ったら尾張で撒いてこい」
「撒く、ですか」
「違う違う、変な意味やない。うまいもんを探して食う。小物を買う。現地の料理人に飯を食わせる。
子どもらに握り飯を配る。銭を使って土地を見るんや」
ヨイチが静かに補足した。
「旅先での支出は、見聞の費用として記録してください。何にいくら使ったか、何が高かったか、
何が安かったか。それも情報です」
「そういうことや」
博之は頷いた。
「尾張では、信長公に会うかもしれん。秀吉さんと連絡を取りながら、料理番と軽く対決するかも
しれん。津島、熱田、常滑、瀬戸。この辺で野良試合を重ねて、伊勢松坂屋の飯はうまい、
ということを広めてこい」
師範代の一人が身を乗り出した。
「見習い印や任せ印も、押していいんですか」
「押していい。ただし、軽く押すな」
博之は指を立てた。
「尾張の料理人が伊勢と味が違うのは当たり前や。そこを見て、ただ伊勢の味に寄せるんやなくて、
尾張で食われる飯としてどう伸びるかを見る。見習い印、任せ印。この辺をポンポン押しても
ええけど、理由を必ず書け」
「理由、ですか」
「そうや。塩が強いが旅人向け。酢が立ちすぎているが夏には強い。魚の扱いは弱いが、
野菜の火入れはええ。そういうふうに、印と理由を一緒にする」
ヨイチが帳面に書きながら言った。
「印だけではなく、育成記録ですね」
「そうや。どんどん味を教え合う。自分たちも高め合う。師範代をできるだけ作る。
もし尾張の中だけで師範決めの催しができるなら、それが一番ええ」
「難しければ?」
「連絡してこい。戻ってきてもええし、こっちでやる集まりに参加して対戦してもええ」
博之はさらに声を落とした。
「ただし、師範は飯だけ見たらあかん」
師範たちの顔が引き締まる。
「尾張の動き、三河の動きも頭に入れろ。これは統括に近い仕事や」
「統括……」
「拠点が回るかどうかを見る。尾張なら織田や。津島や熱田の顔役、寺社、港の商人。
それから安城方面に手を伸ばすなら、松平の動きも横目で見る」
「我々に、そこまで分かるでしょうか」
「分からんでええ」
博之はあっさり言った。
「分からんかったら、箇条書きで手紙を書け」
座敷の者たちは、少し拍子抜けした。
「文章を綺麗に組み立てようとせんでええ。『津島で魚が高い』『熱田で鶏が安い』
『常滑で器が面白い』『松平の名をよく聞く』『寺の顔役が渋い顔をした』『信長公の者が
何か探っていた』。そんな箇条書きでええ」
ヨイチが頷いた。
「こちらで読み解きます。必要なら追加で人を送ります」
「そういうことや。分からんことを、分かったふりするな。書けることを書く。
見たことを書く。聞いたことを書く。味、値段、人の顔、道の悪さ、客の反応。全部や」
古参の一人が深く頷いた。
「旦那様、つまり師範は料理の目だけではなく、土地を見る目も持てということですね」
「そうや」
博之は少し笑った。
「飯を出すには、土地を見なあかん。土地を見るには、人を見なあかん。人を見るには、
飯を食わせなあかん」
お花が小さく言った。
「また話が大きくなっています」
「でも、やることは小さいで。飯を作る。食わせる。反応を見る。手紙を書く。それだけや」
師範たちは顔を見合わせた。
怖さもある。
だが、それ以上に胸が高鳴っていた。
松阪で師範になった。
次は尾張へ行く。
信長公の前で飯を出すかもしれない。
津島や熱田の料理人と野良試合をするかもしれない。
それは、ただの料理人にはありえない道だった。
博之は最後に言った。
「俺はしばらく動けん。だから、お前らが動いてくれ。けど、無茶はするな。危なかったら逃げろ。
分からんかったら書け。困ったら戻れ。飯で勝負して、飯で仲良くしてこい」
師範たちは、そろって頭を下げた。
「承知しました」
その声には、昨日までとは違う重みがあった。
伊勢松坂屋は、博之一人が動く店から、師範たちが各地へ動く店へ変わろうとしていた。