作品タイトル不明
松坂のお城で伊勢松坂屋と城の料理人との料理勝負。木下秀吉も間に合い一緒に観戦することになる。
いよいよ、松坂城での料理催しの日になった。
朝から本店は落ち着かない。料理番、見習い、師範代、帳場、荷運び、女衆まで、
みなが妙にそわそわしている。
そんな中、博之だけは奥座敷で茶を飲んでいた。
「わし、朝飯はいらんぞ」
そう言うと、料理番の一人が目を丸くした。
「旦那様が朝飯を抜くんですか」
「今日だけや。どうせ見習いの部でうまかったやつ、任せ印を渡す時に奥座敷へ呼ぶやろ。
師範代もそうや。師範もそうや。食わなあかん場面が多すぎる」
ヨイチが帳面を持って頷いた。
「任せ印については、師範代に試食してもらう形でもよいかと」
「そうやな。任せ印までは、わしが全部食う必要はない。師範代の目も育てなあかんしな。
ただ、師範代以上、特に師範を決めるところは、わしも口を入らなあかん」
お花は、まだ心配そうに博之の首筋を見ていた。
「だからこそ、無理しないでください」
「今日は飯を抜いてるから大丈夫や」
「それは大丈夫の理由になりません」
そんなやり取りをしていると、表が急に騒がしくなった。
ほどなく、息を切らした男が通された。
木下秀吉だった。
「大膳亮殿!」
「え、木下様?」
博之は思わず立ち上がりかけたが、お花に肩を押さえられた。
「急に立たないでください」
秀吉は膝をつき、まず小さな包みと文を差し出した。
「昨日、伊勢松坂屋様からの文をいただきましてな。それを信長様にお見せしたところ、
一刻後に出ろと言われまして」
「一刻後?」
「はい。『わしが博之なら、松坂へ戻ったら即、何か催しを始める。とっとと行って、
何をやっているか見てこい』と」
博之は、ぽかんとした。
お花もヨイチも顔を見合わせる。
秀吉は苦笑しながら続けた。
「それで急ぎ出まして、途中、津のあたりで今日こちらで催しがあると聞きました。
これはいかん、信長様の読みが当たりすぎていると思い、早朝から馬を飛ばして参りました」
博之は、しばらく黙ってから笑った。
「さすが信長公は見てはるな」
「見すぎですわ。こちらも驚いております」
秀吉は差し出した包みを少し押し出した。
「見舞いの品は、後から部下に持たせております。順番が逆になりますが、
まずは信長様からの文と、こちらの小物だけお納めください」
「ありがとうございます。わざわざそこまで」
「それより、お体は大丈夫ですか。大津で、その……」
「まあ、なんとか」
博之が軽く言うと、お花がすぐに口を挟んだ。
「安静です」
「安静ではないやろ。今日、城行くし」
「本来は安静です」
秀吉は、その様子を見て少し笑った。
「お花殿がそう言うなら、相当だったのでしょうな」
「相当でした」
「お花さん、盛らんといて」
「盛ってません」
博之は茶を一口飲み、秀吉へ勧めた。
「木下様も、まず麦茶でも。息も絶え絶えですやん」
「ありがたく」
秀吉は麦茶を一気に飲み、ようやく息を整えた。
「それで、今日の催しとは?」
「松阪のお殿様との料理対決です」
秀吉は思わずむせた。
「お殿様も巻き込んでますやん」
「いやいや、向こうが来はったんです。お見舞いがてら料理人連れてきはって、『勝負や』と」
「見舞いに料理人を連れてくる殿様も殿様ですが、それを受ける大膳亮殿も大膳亮殿ですな」
「それは否定できません」
博之は紙に書かれた催しの構成を示した。
「前半は見習いから中堅。城の下働きや若い料理人とうちの見習い、任せ印持ちをぶつけます。
第三部、第四部は師範代戦。城の料理人とうちの師範代が出ます。最後は、
うちの近隣師範代を集めて、師範を決める」
秀吉は目を見開いた。
「かなり本格的ですな」
「師範を増やせ、統括を増やせと、あちこちから言われまして」
「それは必要でしょう。今回、大膳亮殿がもし戻らなかったら、伊勢松坂屋は
大きく揺れていたはずです」
「皆、それを言うんですわ」
博之は少し困ったように笑った。
「まあ、だからこそ今日やるんです。沈んだ空気を飯で戻す。飯を踏まれたなら、飯で立て直す」
秀吉は、その言葉に深く頷いた。
「信長様がまさにそう言っておりました。『あいつは騒ぎを仕組みに変える。飯を踏まれた怒りを、
次の飯の熱に変える』と」
博之は少し照れた。
「そこまで言われると、やりにくいですな」
「しかし、大当たりです」
支度を終え、一行は松坂城へ向かった。
城の庭には、すでに人が詰めかけていた。
前売り札を握る者。
竹串を受け取る者。
城の料理人を見ようとする者。
伊勢松坂屋の師範代を応援する者。
大津の噂を聞いて、博之の姿を一目見ようとする者。
熱気があった。
秀吉は庭を見渡して、思わず呟いた。
「これは……多いですな」
博之は苦笑した。
「私が久しぶりに帰ってきたから、なんか帰還祝いみたいになってるみたいです」
「帰還祝いで料理対決ですか」
「飯屋らしいでしょう」
「らしすぎます」
松坂のお殿様も、庭の上座で待っていた。
「おう、来たか。おや、木下殿まで来たのか」
秀吉は頭を下げた。
「信長様より、見舞いと様子見を仰せつかりまして」
「ははは。様子見とは正直やな。まあ見ていくとええ。今日の松坂は面白いぞ」
お殿様は博之を見て笑った。
「首はつながってるか」
「なんとか」
「なら飯も見られるな」
「朝飯抜いてきました」
「本気やな」
庭では、第一部の見習い戦が始まろうとしていた。
小さな料理台の前に、城の下働きと伊勢松坂屋の見習いが並ぶ。顔は緊張で硬い。
だが、その目は燃えていた。
客たちは竹串を握り、どの飯に入れるかを楽しみに待っている。
秀吉はその様子を見て、小さく息を吐いた。
「なるほど。これは、ただの飯の催しではありませんな」
「何に見えます?」
「人を育てる場です。そして、町の気を戻す場です」
博之は静かに笑った。
「そう見えるなら、たぶんうまくいってます」
合図の太鼓が鳴った。
松坂城の庭に、飯の匂いが立ち上がる。
大津で踏まれた飯の悔しさを、松阪で新しい熱に変える日が始まった。