作品タイトル不明
伊勢松坂屋から織田家に手紙の近況報告が届く。飯の絵で楽しい感じで書いているがとんでもないことになっていることに織田信長は気づいている。速攻見舞いに行く方に木下秀吉に命令する。
木下秀吉のもとへ、伊勢松坂屋から文が届いた。
差出人は、松阪の大膳亮、博之である。
秀吉は文を開き、まず目を細めた。
「京都へ官位の礼に参った、か」
朝廷へ礼をし、山科の筋へ挨拶を済ませたこと。
京都郊外の店を見て回ったこと。
大津、草津でも飯場や催しを試していること。
そこまでは、まあ分かる。
だが、次の一文で秀吉の眉が動いた。
「道中、寺社筋との行き違いがあり……」
秀吉は文を止め、しばらくその一文を眺めた。
「行き違い、ねえ」
博之がこういう書き方をする時は、大抵、ただの行き違いではない。
しかし、その後の文は急に飯の話になる。
鶏の天ぷらの酢漬け。
魚を揚げて酢だれに漬けるもの。
熱田神宮の門前でも使えるのではないかという思案。
熱田のことは忘れていないという一文。
伊勢では牡蠣の天ぷら、牡蠣鍋、牡蠣鍋の汁に米を入れ、溶き卵を落として雑炊にするものも
試しているという話。
しかも、絵まで付いている。
鶏の天ぷら酢漬け定食。
魚の揚げ酢漬け。
牡蠣鍋。
牡蠣雑炊。
湯気まで描かれており、見ているだけで腹が鳴りそうな出来だった。
秀吉は思わず笑った。
「いやいや、絵はうまそうやけども、前半がだいぶ物騒やないか」
寺社筋との行き違い。
この言葉の裏に、何かがある。
秀吉はすぐに信長へ報告を上げた。
信長は文を受け取り、まず料理の絵を見た。
「ふん。相変わらず、飯の絵はうまそうに描かせる」
「はい。鶏の天ぷらを酢だれに漬けたもの、魚を揚げて酢漬けにしたもの、
伊勢の牡蠣鍋と雑炊とのことです」
「熱田でも使える、とあるな」
「はい。熱田では魚が安定するか分からぬゆえ、鶏を柱に考えているようです。熱田のことは
忘れておらぬ、とも」
信長は鼻で笑った。
「そういうところは抜け目ない。尾張を軽く見ておらぬと、飯の話で伝えてきておる」
「そのように見えます」
信長は文の前半に目を移した。
「で、この寺社筋との行き違いとは何や」
秀吉は頭を下げた。
「申し訳ございません。文には詳しくは書かれておりませぬ」
「書かぬということは、書けぬということや」
信長は目を細めた。
「あいつ、話を丸めてきよるな」
「丸める、でございますか」
「そうや。揉め事を飯で包んで送ってきておる。しかも、わしへ直接ではなく、
お前へ出した。わしが読めば、芯を突くと分かっておるのやろう」
秀吉は苦笑した。
「確かに、信長様へ直接出すには刺激が強いと見たのかもしれませぬ」
「で、実際は何やと思う」
信長は文を置いた。
「こちらでも京筋を探らせておる。あちこちに放っている者から、少しずつ話が上がってきている」
「何か、お耳に」
「揉めた相手は、どうやら比叡山や」
秀吉の顔が変わった。
「比叡山でございますか」
「延暦寺の僧兵が、大津の伊勢松坂屋の催しに神輿を担いで押しかけたらしい。
飯を踏み、器を壊し、客を逃がした。さらに博之の首に薙刀を突きつけた」
「首に、でございますか」
「かすったとも、血が出たとも聞く」
信長はそこで、口元を歪めた。
「ところが、あの飯屋は一歩も引かなんだ」
秀吉は息を呑む。
「それどころか、延暦寺へ銭を投げるくらいなら、三好と六角へ五百万文ずつ投げると
啖呵を切ったらしい」
「なんと」
「すでに六角には筋を通し、三好にも文と銭を動かしているという話もある」
信長は、ついに声を上げて笑った。
「ははははは! 面白い。面白すぎるわ」
秀吉は苦笑しながらも、内心では背筋が冷えていた。
ただの飯屋ではない。
朝廷に一千万文を出し、比叡山に脅され、三好と六角へ銭を流す。
そのうえで、文では鶏の天ぷら酢漬けと牡蠣雑炊の絵を送ってくる。
常人ではない。
信長は文を指で弾いた。
「秀吉」
「はっ」
「一刻後に出ろ」
「は?」
「伊勢松坂屋の松坂本店へ、見舞いに行け」
秀吉は目を丸くした。
「一刻後、でございますか」
「そうや。早い方がええ」
「見舞いの品は」
「簡易でよい。最悪、銭でよい。形より早さや」
信長は立ち上がり、歩きながら言った。
「わしが博之なら、松坂へ戻ったらすぐに何かを始める」
「何か、でございますか」
「そうや。大津で飯場を荒らされた。首に刃を当てられた。噂が広がった。
そんな時、普通の者ならしばらく伏せる。だが、あいつは違う」
信長は笑った。
「現場の気を落とさぬために、飯で何かをする」
「飯で、でございますか」
「飯を踏まれたなら、飯で立て直す。客を逃がしたなら、客を呼び戻す。料理人が怯えたなら、
料理人に腕を出させる。そういう男や」
秀吉は、思わず頷いた。
「確かに、あの大旦那なら」
「今から一刻後に出れば、ひょっとすると面白いものが見える」
「面白いもの」
「松坂の町で、新しい飯の動きが始まっておるかもしれん。催しなのか、炊き出しなのか、
料理人の腕試しなのかは分からん。だが、何かはやる」
信長は文の料理絵を見ながら言った。
「あいつは、ただ怒るだけの男ではない。騒ぎを仕組みに変える。怪我を物語に変える。
飯を踏まれた怒りを、次の飯の熱に変える」
秀吉は、信長の言葉に静かに聞き入った。
「目線が高いのや、あいつは」
「飯屋にしては、でございますか」
「飯屋にしては、ではない。人として目線が高い。自分の店だけ見ておらん。道を見ておる。
人の流れを見ておる。銭の流れを見ておる。だからこそ、延暦寺に銭を出さず、三好と六角に投げる」
信長は続けた。
「しかも、直接敵を討てとは言わん。治安維持という形で筋を通す。飯屋の顔をしたまま、
大名を動かす名分を作る。あれはなかなかできん」
秀吉は深く頭を下げた。
「承知しました。ただちに支度いたします」
「行ったら、見舞いを言え。それから、博之を褒めてやれ」
「はい」
「ただし、甘やかすな。あいつは褒めるとまた変なものを思いつく」
「それはもう、遅い気もいたします」
「違いない」
信長はげらげら笑った。
「もし本当に何かを始めていたら、戻ってきて、わしの読みのすごさを褒めたたえてもよいぞ」
「信長様の読みは、常に恐るべきものでございます」
「今言うな。見てから言え」
秀吉は慌ただしく支度に入った。
見舞いの品。
少しの銭。
尾張からの土産。
そして、伊勢松坂屋から届いた文と料理絵の写し。
支度をしながら、秀吉は改めて思う。
大膳亮、博之。
根なし草から始まった飯屋の旦那。
今や朝廷に礼をし、比叡山に啖呵を切り、三好と六角に銭を動かし、
なお鶏の天ぷら酢漬けの絵を送ってくる男。
「……ほんま、何者なんや」
秀吉は小さく呟いた。
だが、その顔には少し笑みが浮かんでいた。
信長が面白がるのも分かる。
この男のところへ行けば、何かが起きている。
そして、信長の読み通りなら。
松坂ではもう、飯の熱が立ち上がっているはずだった。