軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

一方の比叡山延暦寺。伊勢松坂屋の動きが早い。対処を早い時期に決めていたのと銭の使い方に迷いがない。さらに情報網が広い

一方、比叡山延暦寺の側では、慌ただしく情報収集が進められていた。

大津で伊勢松坂屋の催しを荒らした時点では、相手は田舎から来た飯屋だと思っていた。

朝廷に一千万文相当を寄進した。

ならば、こちらにも相応の銭を出すだろう。

神輿を出し、僧兵を見せ、仏罰をちらつかせれば折れるだろう。

そう踏んでいた。

だが、戻ってきた報告は、まったく違った。

大膳亮を名乗る飯屋の旦那は、首に薙刀を当てられても引かなかった。

一千万文を延暦寺に出すどころか、三好と六角に五百万文ずつ流すと言った。

そして、その銭は本当に動き始めていた。

「……早すぎる」

上座の僧は、報告を聞きながら眉間を押さえた。

「六角方には、もう挨拶に行ったのか」

「はい。観音寺筋へ話を通したようです」

「三好方は」

「京都郊外の寺を通じて、取りまとめ役へ文が渡っております。銭も奈良、

大和八木、宇治方面から分けて流す手配に入っているとのこと」

「こちらが大津で荒らした翌日、翌々日の話やぞ」

「はい」

座敷に重い沈黙が落ちる。

別の僧が低く言った。

「おそらく、京都郊外でこちらの使いと問答した時点で、もう決めていたのでしょう」

「大津で揉める前からか」

「はい。揉める可能性が高いと見ていた。こちらは昨日の今日で動いたつもりでしたが、

向こうはその先を見ていたようです」

上座の僧は、苦い顔をした。

「斬られかけることまで想定していたとは思わん。だが、揉めることは想定していた。

だから動きが早い」

「根なし草から成り上がった男です。意思決定が早いのでしょう」

「早いだけではない」

上座の僧は、報告の紙を指で叩いた。

「銭の使い方に迷いがない。普通の商人なら、まず惜しむ。出すにしても渋る。

あの男は、出すと決めたらすぐ出す」

若い僧が言った。

「朝廷に一千万文、三好と六角に一千万文。そこまで出せるということは、さらに持っておりますな」

「持っているだけではない。回している」

報告は続いた。

噂はすでに、近江、伊勢、京都郊外、奈良方面へ広がっている。

理由は単純だった。

伊勢松坂屋の情報網が広いのだ。

店がある。

飯場がある。

買い付け隊がいる。

炊き出しがある。

小市がある。

各地に料理番、帳場、荷運び、寺社とのつながりがある。

大津で起こったことは、大津だけに留まらなかった。

飯を踏まれた。

器を割られた。

大旦那が首に刃を当てられた。

それでも折れず、三好と六角へ銭を流した。

話は、飯と荷の道を通って広がっていった。

「厄介だな」

上座の僧が呟く。

「はい。しかも、奈良の方から妙な話も入っております」

「奈良?」

「伊勢松坂屋は、以前、奈良の寺社筋とも揉めかけたようです」

「また寺社か」

「奈良の坊主が、五十万文を払えば奈良で商売をしてよい、と持ちかけたとのこと」

「それで?」

「伊勢松坂屋の旦那は、五十万文ではなく百五十万文を出したそうです」

座敷がざわついた。

「多く出したのか」

「はい。ただし、みかじめのように払ったのではなく、『交流しよう』という形で、

現物の銭をすぐに渡したとか」

上座の僧は、しばらく黙った。

「……慣れているな」

「はい」

「揉め事に対して銭を出すことに慣れている。ただし、屈して出すのではない。

相手を巻き込む形で出す」

「奈良では、それで寺社との関係を作ったようです」

「こちらには出さず、三好と六角に出す。奈良では余分に出して交流を作る。

相手によって銭の意味を変えておる」

上座の僧は、深く息を吐いた。

「喧嘩を売る相手を間違えたかもしれんな」

若い僧が、不満げに言った。

「しかし、相手は飯屋です」

「まだそれを言うか」

上座の僧の声が冷えた。

「ただの飯屋が、朝廷に一千万文出し、三好と六角に一千万文を流し、奈良で百五十万文を即座に出し、

近江と伊勢と京都と奈良に情報網を張れるか」

若い僧は黙った。

「飯屋だからこそ厄介なのだ。兵を持たぬ。城も持たぬ。だから攻める先が見えにくい。

店を壊しても別の場所で炊く。荷を止めても別の道を作る。人を脅せば逃げ道を用意する。

しかも、銭を惜しまん」

別の僧が言った。

「落としどころまで、向こうに見透かされている可能性があります」

「あるだろうな」

上座の僧は、苦い顔で頷いた。

「三好と六角に銭を流した時点で、こちらが浅井、朝倉、あるいは寺社筋を使うことも

読んでいるかもしれん」

「山科筋はどうします」

「探れ。山科言継がどこまで見ているか。朝廷がどこまで関わるつもりか。

伊勢松坂屋への官位の扱いも含めてな」

「九条、近衛、あるいは公家筋にも探りを入れますか」

「入れろ。ただし、あからさまに動くな。こちらが慌てていると見られる」

「浅井、朝倉は」

「浅井には探りを入れる。朝倉は遠いが、敦賀の筋が絡む可能性がある。

伊勢松坂屋が日本海へ目を向けているなら、朝倉の名も無関係ではない」

「本願寺は」

「そこも見る。寺社筋として、延暦寺が孤立して見えるのは避けたい」

座敷の空気は、重かった。

誰も口には出さなかったが、皆が分かっていた。

大津での一件は、やりすぎた。

いや、やるならやるで、相手の実態を調べてから動くべきだった。

飯屋だと思った。

銭袋だと思った。

だが、相手は銭を出す先を選ぶ飯屋だった。

しかも、出すと決めたら即座に出す。

「早く仲介を頼むべきかもしれん」

老僧の一人が言った。

「日を置くほど、噂が広がります」

「その通りだ」

上座の僧は頷いた。

「今ならまだ、行き違いで済ませられるかもしれん。だが、さらに飯場を荒らせば、

三好と六角が動く名分になる」

「こちらの面子は」

「面子を守るために、さらに面子を失うこともある」

その時だった。

外から、急ぎの足音が聞こえた。

若い僧が座敷に入り、膝をついた。

「申し上げます」

「何だ」

「京都郊外の伊勢松坂屋の拠点に、坂本近くの者が逃げ込んだとのことです」

座敷の空気が、また止まった。

「逃げ込んだ?」

「はい。年貢や使役、僧兵筋の取り立てに耐えかねた者が、

飯と仕事を求めて伊勢松坂屋の炊き出しに入り、そのまま郊外の拠点で保護されたと」

「何人だ」

「今のところ数人。ただし、家族連れもいるとのこと」

上座の僧は、目を閉じた。

「……始まったか」

誰かが小さく舌打ちした。

「これを許せば、人が抜かれます」

「だが、今すぐ取り返しに行けば、また大津と同じになる」

「放置すれば、伊勢松坂屋が逃げ場になる」

「追えば悪評が立つ」

「追わねば人が逃げる」

座敷の中で、声が重なった。

上座の僧は、頭を抱えた。

まさに、伊勢松坂屋が言っていた通りだった。

圧に苦しむ者がいるなら、飯を出す。

仕事を出す。

布団を出す。

逃げてきた者は追い返さない。

比叡山からすれば、人を抜かれる。

伊勢松坂屋からすれば、困っている者を助けるだけ。

この違いが、厄介だった。

「今は動くな」

上座の僧は、低く命じた。

「しかし」

「今、力ずくで取り返せば、こちらが人さらいに見える。相手は必ず記録する。

京都郊外の寺社にも広がる。三好にも届く」

「では、どうします」

「まず、その者たちがどこから逃げたかを調べろ。誰の支配下か。どの筋の者か。

こちらの直轄なのか、僧兵筋の下の者か。勝手に動いた者がいるなら、その者も抑えろ」

老僧が頷いた。

「伊勢松坂屋に対しては?」

「今は直接触れるな。仲介を探す。山科筋、あるいは寺社筋で話を置ける者を探せ」

「落としどころを急ぐ、ということですか」

「そうだ」

上座の僧は、苦々しく言った。

「このままでは、飯屋の飯場が、こちらから逃げる者の受け皿になる」

それは、兵で攻められるよりも厄介かもしれなかった。

城を落とされるわけではない。

寺を焼かれるわけでもない。

だが、人が少しずつ抜けていく。

噂が広がる。

飯を食わせてもらえる場所がある、仕事をくれる場所がある、布団を敷いてくれる場所がある、と。

それは、支配の足元を静かに削る。

上座の僧は、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。

「やはり、喧嘩を売る相手を間違えたな」

誰も返事をしなかった。

比叡山はようやく気づき始めていた。

伊勢松坂屋は、刀で斬る相手ではない。

銭で脅す相手でもない。

飯と仕事と逃げ道で、人の心を動かす相手だった。

そして、その相手はもう、比叡山の足元に飯場を置き始めていた。