作品タイトル不明
朝のご飯は相変わらず焼印押しの時間www松坂郊外の和尚さんとお話する。現世でたくさんお話したいですよ(笑)
翌朝、博之の前には、また小鉢が並んでいた。
ただ、以前のような「旦那様に腹いっぱい食べてもらおう」という勢いではない。
今回は、きちんと一口ずつに整えられている。
小さな焼き魚。
鶏の天ぷら甘酢漬け。
魚の揚げ酢漬け。
牡蠣の小鍋風。
味噌を利かせた根菜。
混ぜ飯の小さな握り。
干物のほぐし。
酢の物。
八品ほどが、ちょこんちょこんと並んでいた。
博之はそれを見て、眉をひそめた。
「いやいや、一口じゃ分からんかもしれへんやんか」
料理番の一人が、妙に自信ありげに答えた。
「大丈夫です。分からんものは、すぐ追加で出せるように量は揃えてあります」
「全然逃げ場ないやんけ」
「三日後ですから」
「何がや」
「松阪のお城の料理人たちと戦うんです。みんな、気合いが入っております」
別の料理番も、前へ出て言った。
「旦那様、今日は見てほしい者が多いので、ご飯の量は減らしました。その代わり、
品数で見てください」
「なんか、わしが飯の試験官みたいになっとるな」
「もう前からです」
お花が横で言った。
「それはそうやけども」
博之は苦笑しながら箸を取った。
まず、鶏の天ぷら甘酢漬けを食べる。
「これはええな。酢がきつすぎん。飯にも合う。任せ印」
ぽん、と焼印。
次に、魚の揚げ酢漬け。
「うまい。魚はやっぱり強いな。ただ、これは素材の力か腕の力か見えにくいところがある。
任せに近い見習い印やな」
料理番は少し悔しそうに、しかし嬉しそうに頭を下げた。
牡蠣の小鍋風を口にする。
「これは汁が強い。けど朝には少し濃い。催しなら、量を少なくして出したら刺さるかもしれん。
見習いの上やな」
干物のほぐし飯。
「これは旅人飯としてええ。派手さはないけど、食べた後にまた食いたくなる。任せ印」
そうやって、博之は一つ一つ食べ、任せ印、見習い印を押していった。
料理番たちは、押されるたびに一喜一憂する。
「今回の目標はどこや」
博之が聞くと、若い料理番が真剣な顔で答えた。
「出た部門では、やっぱり勝ち上がりたいです」
「そらそうやな」
「ただ、売れる飯で数を取るのもええんですけど、渋い飯で竹串を集めるのも、
かっこええなと思いまして」
博之は少し驚いて笑った。
「なかなかええところに目をつけるな」
「派手な魚や肉だけやなくて、酢の物とか根菜とか、そういうので客に選ばれたら、
ほんまに腕やと思うんです」
「それはある。今回、酢の物も武器が増えたからな。鶏の甘酢漬け、魚の揚げ酢漬け。あれで、
酢の系統もまだ分からんぞ」
「魚は強いですけどね」
「魚は強い。けど、魚は素材の力もあるからな。そこをどう料理人の腕として見せるかや」
場は自然と盛り上がっていった。
大津の騒動で沈んでいた空気は、松阪城での他流試合へ向けて、明らかに熱を取り戻しつつあった。
博之は小さく頷いた。
「意気消沈してるよりは、よっぽどええな」
その後、博之は郊外の和尚さんのところへ向かった。
お花はまた心配そうにしたが、郊外なら近いということで、しぶしぶ認めた。
弁当と少しの炊き出しを持ち、いつものように寺へ顔を出す。
和尚さんは博之を見るなり、笑った。
「いやあ、旦那。生きて戻ってこられて何よりです」
「ほんまに生きて戻りました」
「それにしても、またいろんな事件を持ってきてくれますなあ」
「面白いだけで済まさんといてください。こっちは本当に斬られそうだったんですからね」
「斬られたら困ります」
「でしょう」
「面白い話が聞けなくなりますから」
「そこですか」
和尚さんは、にこにこと笑った。
「閻魔様の前で聞くのか、極楽浄土で聞くのかは分かりませんが、少なくとも現世で
聞けなくなるのは寂しいですな」
博之は、その言葉に少し黙った。
「……それ、一番腹に落ちますわ」
「そうですか」
「みんな、私がいなくなった後の店の話をするんです。師範を増やせ、統括を増やせ、
旦那様が死んでも回るようにせえって」
「大事な話ですな」
「分かってます。分かってるんですけど、なんか私が少し外側に置かれてる感じもするんです」
博之は苦笑した。
「伊勢松坂屋としては、それが正しいんでしょう。私がおらんでも回るようにしなあかん。
でも、和尚さんさんの話は、私と喋れてること自体に価値を感じてくれてる感じがして、
なんか嬉しいです」
和尚さんは、少し真面目な顔になった。
「そらそうです。根なし草から始まった飯屋の旦那が、比叡山と揉めるところまで来た。
聞く分には、めちゃくちゃ面白いです」
「聞く分には、ですか」
「絶対、自分ではなりたくないですけどね」
「そらそうでしょう」
二人は笑った。
それから住職は、少し声を落とした。
「ただ、比叡山については、皆が皆、同情的ではないでしょうな」
「やっぱり印象悪いですか」
「悪いです。もちろん、立派な僧もおります。学問も祈りも、比叡山の重みはあります。
けれど、都で神輿を担いで押しかける話、商いに口を出す話、僧兵の荒さ。そういうものは、
どうしても耳に入ります」
「松阪のお殿様も、似たようなことを言うてました」
「伊勢神宮や、伊勢のお寺さんと比べると、やはり荒く見えるのでしょうな」
和尚さんは茶をすすった。
「もともと印象が良くない中で、飯場を荒らし、飯を踏み、大膳亮殿の首に刃を当てた。
これは、世間の見え方としては厳しい」
「向こうも拳を下ろしにくいでしょうね」
「でしょうな。面子があります。延暦寺ともあろうものが、田舎の飯屋に押し返された
形になっておりますから」
「飯屋なんですけどね」
「飯屋だから余計に厄介なのです」
和尚さんは、博之を見た。
「武士なら戦で決める。商人なら銭で折れる。けれど旦那は、飯と銭と人の流れで受けている。
比叡山も、どう扱えばよいのか計りかねているでしょう」
「落としどころがあればええんですけどね」
「飯場を荒らさない。人を狙わない。大津、草津、堅田あたりでの商いは黙認。
坂本は踏み込まない。そのあたりでしょうか」
「和尚さんまで同じようなこと言うんですね」
「皆、見ているところは近いのです。ただ、旦那ほど飯の方へ話を広げる人は珍しいですが」
「そこは飯屋ですから」
博之は少し笑った。
和尚さんも笑う。
「まあ、拳の下ろしどころは必要です。比叡山も、ずっと拳を上げたままでは疲れる。
旦那も、ずっと首を差し出していては困る」
「それはお花さんに怒られます」
「怒られるうちが花ですな」
その言葉に、博之は深く頷いた。
松坂に戻り、飯が出て、怒ってくれる人がいる。
そして、こうして話を聞いてくれる人がいる。
それだけで、少し救われる。
「とりあえず、三日後に松阪城で料理の他流試合をやります」
「また面白いことを」
「比叡山の件で沈むより、飯で盛り上げた方がええかなと」
「それはよいですな。飯屋らしい」
和尚さんはにこりと笑った。
「旦那は、事件を飯に変えるのが上手い」
「褒めてます?」
「褒めています。ただし、命は大事に」
「最近、そればっかり言われます」
「それだけ危なかったということです」
博之は、首筋の布に手をやり、少しだけ笑った。
比叡山との揉め事は、まだ終わっていない。
だが、松坂では飯の熱が戻り始めている。
料理番たちは城の料理人との勝負に燃え、郊外の和尚さんは笑いながらも心配してくれる。
その日常がある限り、博之はまだ飯屋として立っていられる気がした。