作品タイトル不明
博之44才9月3週目の帳簿締め。朝廷への寄進。比叡山とのもめた際の三好六角費用。大津の損害を入れても5億770万文→5億2,000万文。師範と統括の育成が不可欠
松阪本店の奥座敷で、博之は帳面を前にして、麦茶をすすった。
「そろそろ帳簿を締めるか」
そう言うと、ヨイチが少し目を丸くした。
「旦那様が自分から帳簿締めを言い出すのは、やはり珍しいですね」
「珍しい珍しい言うな。今回は締めとかんと気持ち悪いやろ」
博之は首筋の布を軽く触った。
「京都に行って、朝廷に礼して、比叡山と揉めて、大津で荒らされて、三好と六角に銭流して、
松阪に帰ってきた。ここで一回締めんと、何が何やら分からん」
「では、九月三週目分で一度締めます」
「うん。次は十月一週目やな。松阪のお殿様との料理対決をした後ぐらいで、
また一回見る感じでええやろ」
ヨイチは帳面を開き、すでにまとめていた数字を読み上げ始めた。
「まず、今回の大きな支出です。朝廷への寄進、一千万文相当」
「重たいな」
「次に、三好方と六角方への治安維持協力金。五百万文ずつ、合計一千万文」
「それも重たいな」
「さらに、大津で荒らされた分。器、台、食材、会場整理、人の手当て、
諸々含めて二百万文を損失として引いております」
「飯踏まれた分も入っとるか」
「入れております」
「よし。飯屋やからな。踏まれた飯も損や」
ヨイチは頷き、次へ進めた。
「買い付け隊については、前回分で少し負けていた輸送経費がありましたので、
その分は輸送経費側から引いております」
「そこはしゃあないな」
「拠点関係では、難波を立ち上げたため、その初期費用として四十万文を引いております」
「難波は、まあ先々効いてくるやろ」
「はい。その他の拠点収支は、おおむね前回と同じ流れです。細かい上下はありますが、
丸めております」
博之は少し身を乗り出した。
「で、結局どうなった」
ヨイチは帳面を見て、静かに言った。
「すべて丸めて、今回の純増は、千五百七十四万文です」
博之はしばらく黙った。
「……いや、それでもでかいな」
「はい」
「朝廷に一千万文、三好・六角に一千万文、大津の損失で二百万文、難波の立ち上げで四十万文。
そんだけ引いて、半月でまだプラスか」
「そうなります」
「マイナスにもならへんのかい」
博之は、呆れたように笑った。
ヨイチは真面目な顔のまま答える。
「それだけ拠点が広くなっています。伊勢、白子、鳥羽、津、奈良、堺、京都郊外、草津、大津、
その他の買い付け筋。どこかで大きく出しても、全体で吸収できる形になり始めています」
「怖いな」
「怖いです」
即答だった。
「特に、これから鶏の天ぷら酢漬け、魚の揚げ酢漬け、その系統の店を新たに出すのであれば、
さらに利益は乗ってきます」
「あれは強いやろな。魚は場所を選ぶけど、鶏なら熱田でもできる。酢漬けは冷めても食えるし、
旅人向けにもいける」
「はい。熱田、尾張方面で柱になる可能性があります」
「恐ろしいな」
博之は、笑いながらも少し遠い目をした。
「俺、根なし草やったんやけどな」
「今は、根が多すぎます」
「言い方よ」
ヨイチは帳面をめくった。
「前回の締めでは、総額五億七百七十万文でした」
「うん」
「今回の純増、千五百七十四万文を足しますと、五億二千三百四十四万文です」
博之はまた黙った。
「五億二千三百四十四万文」
「はい」
「もう、数がよう分からんな」
「旦那様、どうせ丸めるでしょう」
「まあ、丸めたいな」
お花が横から口を挟んだ。
「今回は丸めてもよろしいと思います」
博之が少し驚いてお花を見た。
「お花さんが丸めを許すんか」
「はい。今回は、旦那様がいろいろ厄介ごとに巻き込まれたせいで、各拠点にほころびが出ました」
「巻き込まれたせい、やな。俺が起こしたわけちゃう」
「そこは置いておきます」
「置かれた」
お花は続ける。
「催し会を止めた拠点もありました。炊き出しは続けたとはいえ、普段より混乱もありました。
大津の件の噂で、客の流れも少し乱れています。帳簿上の細かい数字をきっちり出すより、
今回は予備費を厚めに見ておく方がよいと思います」
ヨイチも頷いた。
「五億二千三百四十四万文のうち、三百四十四万文は予備費扱いにして、
帳簿上の基準額は五億二千万文で置くのがよいかと」
「三百四十四万文を予備費か」
「はい。比叡山絡みの追加警備、壊された器の補充、催し会再開の支援、逃げた者の手当て、
文の運送費、三好六角への銭の分散輸送費。何が出るか分かりません」
「なるほどな」
博之は少し考え、頷いた。
「じゃあ、今回は五億二千万文でいこう。三百四十四万文は予備費。何かあった時に、
すぐ使えるようにしておく」
「承知しました」
ヨイチは帳面に大きく書いた。
九月三週目締め。 総額、五億二千万文。 別途、予備費三百四十四万文。
博之は、それを見ながら苦笑した。
「もう飯屋の帳簿ちゃうな」
「飯屋の帳簿です。ただ、飯屋が大きすぎます」
「それもそれで怖いわ」
お花が静かに言った。
「でも、今回ではっきりしました。まだまだ、旦那様がいないと百点満点は取れません」
場が少し静かになった。
ヨイチも帳面を閉じずに、続けた。
「松阪のお殿様にも言われましたが、師範を作ること、統括を作ることは急ぐべきです」
「うん」
「料理については、師範代、師範の仕組みがあります。けれど、拠点全体を見て、
危険な時に催しを続けるか止めるか判断する者。炊き出しを止めない者。噂を見て文を出す者。
銭と荷の流れを見る者。そういう統括がまだ足りません」
お花が頷いた。
「今回、旦那様が大津で怪我をしたというだけで、あちこちが止まりました。
仕方ない部分もあります。でも、ずっとそれでは困ります」
「そうやな」
博之は首筋の布に手をやった。
「俺が本当に首切られた時に、伊勢松坂屋が変な方向へ行ったら困るもんな」
お花が即座に睨んだ。
「そういう言い方はやめてください」
「すまん」
ヨイチは静かに言った。
「ただ、考えておく必要はあります。旦那様が不在でも八十点で回る状態から、
九十点、百点に近づける仕組みが必要です」
「松阪のお殿様にも言われたな。俺がおらんと八十点止まりになるって」
「はい」
「それでも八十点ならええやんと思ったけど、やっぱり百点百二十点を狙えるやつが増えた方がええな」
お花が言った。
「師範は料理の百点を作る人。統括は拠点運営の百点を作る人です」
「お花さん、ええこと言うな」
「旦那様が危ないことばかりするので、こちらも考えざるを得ません」
「すまん」
博之は素直に謝った。
ヨイチは帳面に新しい項目を書いた。
今後の課題。
一、師範育成。
二、統括育成。
三、拠点ごとの危機判断。
四、催し会の自走。
五、炊き出し継続の徹底。
六、旦那様不在時の報告経路。
「最後のやつ、なんか嫌やな」
「必要です」
「分かってる」
博之は苦笑した。
「じゃあ、まだまだ首は大事にせなあかんな」
お花が真顔で言った。
「ようやく分かりましたか」
「だいぶ前から分かってるつもりやったけどな」
「今回、ようやく少し分かったように見えます」
ヨイチも頷く。
「首だけではなく、体全体を大事にしてください」
「はい」
座敷に、少しだけ笑いが戻った。
帳簿は締まった。
五億二千万文。
恐ろしい数字だった。
だが、それ以上に大事なのは、伊勢松坂屋がもう博之一人の思いつきだけでは
済まない大きさになっているという事実だった。
銭はある。
拠点もある。
人もいる。
だからこそ、壊れ方も大きくなる。
博之は帳面を見ながら、静かに言った。
「飯屋やから、飯を止めたら負けや。でも、俺が倒れて飯が止まるなら、それは俺の仕組みが悪い」
ヨイチが頷いた。
「では、止まらない仕組みを作りましょう」
お花も言った。
「そのためにも、旦那様は生きていてください」
博之は、今度は茶化さずに頷いた。
「うん。首、大事にするわ」
九月三週目の帳簿は、五億二千万文で締まった。
そして同時に、伊勢松坂屋は次の段階へ入った。
銭を増やす段階から、人を育てる段階へ。
師範と統括。
博之がいなくても、飯が出る店へ。
そのための重たい課題が、帳簿の最後に静かに書き加えられた。