作品タイトル不明
松坂本店の奥で比叡山対策の打ち合わせ。飯屋のやることではないな。見せていい情報。守る情報の確認
松阪本店の奥座敷で、地図を囲んだ話し合いは続いていた。
京都郊外、大津、草津、堅田。
その向こうに比叡山。
さらに六角、三好、浅井、朝倉、朝廷。
飯屋の帳場で囲むには、少し大きすぎる地図だった。
博之は麦茶を飲みながら、静かに言った。
「比叡山筋の者が、探りに来ることはあると思う」
古参衆の一人が眉を寄せた。
「探り、でございますか」
「そうや。いきなりまた神輿担いで暴れに来るとは限らん。むしろ次は、こっちがどれぐらいの
規模なのか、どこまで本気なのか、三好や六角とどれぐらいつながってるのか、それを見に来るやつが
おると思う」
お花が言った。
「つまり、比叡山の使いと名乗らずに、客や商人や僧のふりをして来るかもしれないということですか」
「あるやろな」
博之は頷いた。
「だから、そういうやつがおったら、飯は出してええ。炊き出しも見せてええ。
市も見せてええ。接待せいとまではいわんが、変に隠しすぎなくていい」
ヨイチが帳面を開いた。
「なぜですか」
「たぶん、向こうはうちを計りかねてる」
博之は地図の大津を指で叩いた。
「大津で騒動を起こして、こっちが折れると思ってたはずや。飯を踏んで、器を割って、
首に薙刀を当てたら、普通は金を出す。少なくとも謝る。けど、うちは一千万文を比叡山に出さず、
三好と六角に五百万文ずつ流すと言った」
「普通ではありません」
ヨイチが即答した。
「自分でもそう思う」
博之は苦笑した。
「しかも、朝廷に一千万文相当の礼をした直後や。山科様にも話が行ってる。向こうからしたら、
伊勢松坂屋って何なんや、となってるはずや」
古参衆の古参が頷いた。
「探りに来る者は、まず飯場の数、荷の量、人の数、客の入りを見ますな」
「そうや。どの寺とつながっているか。どの町の顔役が味方か。どの料理番がどれだけ動けるか。
炊き出しにどれだけ人が並ぶか。そういうところを見る」
お花は心配そうに言った。
「見せてしまってよいのですか。弱いところも知られます」
「全部見せる必要はない。帳簿や銭蔵、荷の本数、護衛の数、文の流れは見せん」
博之は指を折った。
「けど、飯を出している姿は見せる。人が集まっている姿も見せる。各拠点が勝手に
回り始めている姿も見せる。そこはむしろ見せた方がええ」
「どうしてです」
「相手が、荒らしても終わらん相手やと分かるからや」
座敷が少し静かになった。
博之は続けた。
「一つの店を壊せば終わると思われたら、壊しに来る。けど、ここを壊しても草津で飯が出る。
草津を壊しても京都郊外で炊き出しがある。大津を荒らしても堅田で市を出す。
松坂本店はさらに奥にある。そう見えたら、向こうも考える」
ヨイチが帳面に書きながら言った。
「伊勢松坂屋は一店ではなく、飯の網であると見せる」
「そういうことや」
お花が少しだけ納得した顔をした。
「つまり、力を隠すのではなく、壊しきれないことを見せるんですね」
「うん。うちは兵で勝てへん。だから、兵で殴る相手やないと思わせなあかん」
古参衆の一人が言う。
「しかし、向こうが探りに来るなら、こちらも相手を見られますな」
「それもある」
博之はにやりと笑った。
「どんな僧が来るか。商人風か、旅人風か、ほんまの使いか。飯を食って何を見るか。
どんな質問をするか。どこに目が行くか。こっちも見る」
ヨイチが頷いた。
「探りに来た者には、こちらも記録をつけます」
「頼む」
「質問内容、見ていた場所、話した相手、帰った方向。全部ですね」
「そうや。あと、あからさまに比叡山筋の者っぽくても、雑に扱うな。
飯は出す。茶も出す。けど、答えることは答える、答えないことは答えない」
お花が言った。
「答えてよいことと悪いことを決めておくべきですね」
「そうやな」
博之は考えながら言った。
「答えていいこと。炊き出しの場所。市の日。料理の種類。困っている人には飯を出すこと。
逃げてきた人には仕事を探すこと。これは言っていい」
ヨイチが書く。
「答えてはいけないことは?」
「銭の保管場所。荷の正確な本数。どの道で五百万文を動かしてるか。
三好や六角との具体的な文面。各拠点の弱いところ。警護の数。これは言わん」
「承知しました」
古参衆の古参が口を開いた。
「落としどころを探る意味でも、見せるのはありですな」
「そう思う」
博之は比叡山の位置を見た。
「向こうも、いつまでも暴れ続けるわけにはいかんはずや。飯屋を脅したら、
三好と六角に銭が流れた。しかも大津の件は噂になった。次に荒らせば、もっと悪評が広がる」
「なら、向こうも探りながら、どこで手を打つかを考える」
「うん」
博之は指を折った。
「落としどころとしては、
一つ、伊勢松坂屋の人を狙わない。
二つ、飯場と市を荒らさない。
三つ、六角領や三好方の影響地での商いは認める。
四つ、坂本直下は保留。
五つ、比叡山の圧から逃げてくる人を、こちらが受けることは黙認」
「五つ目は嫌がるでしょうね」
お花が言った。
「嫌がるやろな。でも、こっちとしてはそこをやめたら意味がない」
ヨイチが静かに言う。
「ただし、逃げてこいと煽るのではなく、来た者は受ける、という形ですね」
「それや。こっちから奪いには行かん。けど、来た者は追い返さん」
古参衆の一人が言った。
「比叡山側が手札を揃えるなら、誰が出てくるでしょうか」
「朝廷、公家筋、浅井、朝倉、寺社筋。その辺やろな」
博之は地図を広げ直した。
「浅井だけでは力不足かもしれん。浅井と朝倉が絡めば、少し重くなる。
朝廷は直接うちを責めるより、仲介に回るかもしれん。山科様の筋もある」
「官位の話はどうなりますか」
古参衆が聞いた。
博之は顔をしかめた。
「さすがに、比叡山と揉めて官位が上がるのは意味分からんやろ」
古参衆は笑った。
「ですが、周りの見方は変わります。朝廷に礼を尽くし、比叡山に脅されても折れず、
三好と六角に筋を通し、それでも戦を求めない。大膳亮としての名は、むしろ広がるかもしれません」
「困るなあ」
お花が冷たく言う。
「もう遅いです」
「最近、そればっかりやな」
「事実です」
座敷に少し笑いが広がった。
だが、話はまだ軽くはなかった。
ヨイチが帳面を見ながら確認する。
「では、比叡山筋と思われる探りへの対応は、飯を出す、炊き出しと市は見せる、
帳簿と銭の流れは見せない、質問は記録する、答える範囲を決める、でよろしいですか」
「うん」
博之は頷いた。
「それと、敵扱いしすぎない。向こうにも落としどころを探す余地を残す」
「なるほど」
「こっちが全部突っぱねたら、向こうも引けなくなる。けど、飯を出して、話を聞いて、
うちはこういう飯屋ですと見せたら、間に入る者も動きやすい」
お花が言った。
「それでも、油断はできません」
「もちろんや。見せるけど、守る。飯は出すけど、人は逃がせるようにする。
茶は出すけど、銭蔵は見せん」
古参衆が深く頷いた。
博之は最後に、地図の比叡山を見て言った。
「相手はたぶん、まだうちを測ってる。なら、測らせてやる。ただし、測り間違えたら、
飯屋は意外と重いと分からせる」
古参衆が笑った。
「飯屋の重さ、ですか」
「そうや」
博之は麦茶を飲み干した。
「飯を出す者は、人を集める。人を集める者は、道を作る。道を作る者は、銭を動かす。
そこまで見せて、ようやく交渉になる」
ヨイチは帳面を閉じた。
「承知しました。各拠点へ、探りに来る者への対応を文にします」
「頼む」
お花は小さく息を吐いた。
「本当に、飯屋の会議ではありませんね」
博之は苦笑した。
「俺もそう思う」
それでも、やるしかなかった。
比叡山と真正面から戦うのではない。
だが、探りに来る者には飯を出し、見せるべきものを見せ、隠すべきものを隠す。
そして、落としどころを探らせる。
武器を持たない飯屋の戦いは、そこから始まるのだった。