作品タイトル不明
本店で湯あみをしてから奥で古参衆に現状報告と作戦会議。紀州への道、三河、摂津、近江に関して情報共有
まずは、高い方の湯に入った。
松阪本店へ戻って、皆に顔を見せ、粥を食べ、ようやく少しだけ空気が落ち着いた。
とはいえ、博之の首筋にはまだ布が巻かれている。お花はずっと目を光らせていたし、
ヨイチも今日はいつもより口数が少ない。
湯から上がると、博之はようやく大きく息を吐いた。
「……生き返ったわ」
「生き返る前に、まず死にかけないでください」
お花がすぐに刺す。
「はい」
いつもの軽口も、今日は少し弱い。
それでも着替えを済ませ、麦茶を飲みながら、奥の部屋で地図を広げた。
集まったのは、お花、ヨイチ、それから古参衆である。松阪本店を支える古参の者たちだ。
皆、博之の顔を見て少し安心していたが、同時に目は険しかった。
京都へ行って、朝廷に礼をし、山科言継に会い、京都の店を見て、比叡山と揉め、
大津で催しを荒らされ、首筋に刃傷を負い、三好と六角へ五百万文ずつ流すことになった。
あまりに話が多すぎる。
博之は麦茶を一口飲んでから言った。
「ざっくり言うとやな。京都に行って、比叡山と揉めて戻ってきた」
「ざっくりしすぎです」
お花が呆れる。
ヨイチが帳面を開いた。
「朝廷への礼として一千万文相当。三好方へ五百万文、六角方へ五百万文。現在、奈良・大和八木・
宇治方面、近江・草津・大津方面から分散して銭を流す準備中です」
御三衆の一人が顔をしかめた。
「一千万文を出した後に、さらに一千万文ですか」
「そうなるな」
「大旦那、相変わらず桁がおかしい」
「脅してきた相手に払うよりはええやろ」
博之は地図の京都と近江を指した。
「やられたらやり返す、というと語弊がある。うちは兵を持たん。比叡山を攻めるわけやない。
ただ、飯場や市を荒らす者がいたら、三好や六角に治安維持として動いてもらう。そのための銭や」
別の古参衆が頷く。
「つまり、喧嘩ではなく、揉め事を領主筋に任せる形ですな」
「そうや。こっちは飯屋や。飯屋が薙刀持って走り回ったら終わりや」
お花がぼそりと言う。
「旦那様は薙刀を首に当てられても喋り続けましたけどね」
「それはもう言わんでええ」
「言います」
場が少しだけ和らいだ。
博之は咳払いをして続けた。
「それで、目先の話や。各拠点、催し会をじゅんぐりやってくれと言ってたやろ。松坂本店、
港、白子、草津、大津、京都郊外。できたか?」
古参衆の一人が、苦い顔をした。
「正直に申します。できたどころではありません」
「え?」
「旦那様が大津でそんなことになったという話が届いた時点で、本店も周辺も機能不全に
近い状態でした。催し物はほぼ取りやめです」
「全部か?」
「はい。皆、気が気ではありませんでした」
別の者が続ける。
「ただし、炊き出しは止めておりません。飯を待っている人がいるので、そこは何とか回しました」
博之は腕を組んだ。
「うーん……半分合格、半分もう一つやな」
「厳しいですね」
「いや、気持ちは分かる。俺が首に怪我したとか聞いたら、そら慌てる。けど、
そういう時こそ催し物を回せるようになってほしいんや」
お花が少し眉を寄せる。
「でも、今回は本当に非常事態でした」
「分かってる。だから責めてへん。ただ、催し物は単なる遊びやない。料理人の育成、
客の楽しみ、拠点の気力、全部入ってる。怖い時ほど、日常を回す意味がある」
ヨイチが静かに言った。
「大津は荒らされましたが、翌日の草津は実施しました」
「そうや」
博之は頷いた。
「大津はむちゃくちゃになった。でも次の日の草津はやった。仏罰に屈したらあかん、
という意味もあった。もちろん危なかったら逃げる。客優先、人命優先。それは絶対や。
でも、止めるか回すかの判断は、今後かなり大事になる」
古参衆は黙って聞いていた。
「だから、各拠点で自分たちで判断できるようにしてほしい。旦那様がいないとできません、
では困る。危険なら中止。けど、怖いだけなら小さくしてでも回す。炊き出しは絶対止めない。
催し物は状況を見て、規模を下げても続ける。そういう運用を考えよう」
「承知しました」
ヨイチが帳面にまとめていく。
博之は地図を広げ直した。
「次に拠点の話や」
指が伊勢湾をなぞる。
「紀州への道は、今は志摩が回ってる。鳥羽から南、志摩、尾鷲方面。
ここをきちっとする。海の道で布団や米、酒を動かせるようにする」
「尾鷲までですか」
「すぐ全部やるわけやない。けど、志摩を固めて、その先の尾鷲まで見たい。
紀州へ回すには、港をつなぐしかない」
次に指は尾張から三河へ動いた。
「尾張の方は、常滑から先やな。安城、岡崎方面を見たい。三河は松平がいる。」
古参衆の一人が唸る。
「東へ伸ばすと、織田や松平との距離も近くなりますな」
「そこは慎重にやる。飯屋としてや。軍に寄りすぎない」
今度は堺方面を指す。
「堺の方は岸和田や。堺から南へ伸ばす。紀州への西側の入口やな。
それから奈良方面から浪速、上町台地。この辺も押さえる。奈良から生駒、藤井寺、上町。
飯と荷の道をつくる」
「かなり広いですな」
「広い。だから急がん。じゅんぐりやる」
そして、博之の指は京都へ戻った。
「京都は、街中に深く入るのはまだ怖い。まず郊外や。けど、三好さんと付き合いが出るなら、
高槻あたりまで出られたら面白い」
「間に長岡京あたりが入りますか」
「そうや。高槻まで一気に行くんやなくて、長岡京、枚方、宇治、そういう筋を見ながらやる。
三好方に筋を通しつつ、飯場や小さな市をゆるく置く」
ヨイチが確認する。
「京都郊外から高槻方面へ。ただし、三好方の治安維持協力の範囲内で」
「うん」
最後に、博之は比叡山の周辺を囲むように指を動かした。
「問題はここや」
京都郊外。
大津。
堅田。
草津。
「大津と堅田と京都郊外。ここで比叡山を挟む。草津は後ろの支えや。比叡山と戦うんやない。
圧をかけられた人が逃げてきたら、飯を出す。布団を出す。仕事を出す。市を開く。
比叡山に銭は出さず、周囲の治安維持に銭を出す」
御三衆の顔が引き締まった。
「つまり、兵ではなく、飯と銭で対峙する」
「そうや」
博之は麦茶を飲み干した。
「うちは比叡山を焼かん。攻めん。けど、飯を踏んだら記録する。人を脅したら逃げ道を作る。
店を壊したら建て直す。周りに銭を撒いて、味方を増やす」
お花が静かに言った。
「ただし、人命優先です」
「絶対や」
博之はすぐに頷いた。
「荷を守って死ぬな。器を守って怪我するな。危ないと思ったら逃げろ。逃げた者は責めん。
焼かれた店は建て直す。失った荷は買い直す。人だけは戻らん」
場に重い沈黙が落ちた。
それから、古参衆の一人が深く頭を下げた。
「承知しました。伊勢松坂屋として、拠点ごとの判断、炊き出しの継続、催し会の自走、
そして比叡山周辺の支えを整えます」
ヨイチが帳面を閉じた。
「方針はまとまりました。あとは文にして各地へ流します」
博之は、少しだけ疲れた顔で笑った。
「京都に挨拶行っただけやのに、えらいことになったな」
お花が即座に返す。
「旦那様が行くところは、だいたいえらいことになります」
「ひどいな」
「事実です」
それでも、松阪本店の奥の部屋には、不思議な落ち着きが戻っていた。
方針は見えた。
まずは各拠点を立て直す。
催し会を自走させる。
紀州、尾張、堺、奈良、京都方面の道をじゅんぐり広げる。
そして、大津・堅田・京都郊外・草津で比叡山と向き合う。
武器ではなく、飯と銭で。
博之は地図を見下ろし、静かに言った。
「飯屋らしくいこう。飯を止めたら負けや」
その言葉に、皆が深く頷いた。