作品タイトル不明
白子の朝食のあと、伊勢松坂屋本店に帰還。話が大きく伝わっており、帰還を見て涙ぐむ古参衆や女衆。帰ってきたな
白子の朝も、やはり品評会から始まった。
港の料理番たちは、昨夜からそわそわしていたらしい。旦那様が首に傷を負って戻ってきた。
比叡山と揉めた。大津で会場を荒らされた。そんな話を聞けば、心配するのは当然である。
だが、心配と料理人の意地は別だった。
朝餉には、消化がよいと言いながら、結局小鉢がいくつも並んだ。
白身魚の柔らかい煮付け。
薄めのつみれ汁。
小さな焼きおにぎり。
港風の濃いめの漬物。
魚のほぐし身を混ぜた飯。
ほんの少しだけ酢を利かせた小鉢。
博之は膳を見て、首筋の布を押さえながら言った。
「消化のいいものって聞いてたんやけどな」
白子の料理番は、真顔で答えた。
「はい。消化のよいものだけを厳選しました」
「厳選してこれか」
「旦那様にお出しするものですので」
「まあ、ありがたいけどな」
博之は箸を取った。
「これは任せ印やな。魚の火の入り方がええ」
ぽん、と焼印が押される。
「こっちはちょっと塩気が強い。港ではええけど、朝にはきつい。見習いや」
料理番たちは真剣に頷く。
お花は横でまだ厳しい目をしていた。
「旦那様、食べすぎないでください」
「小鉢やから」
「小鉢が六つも七つもあれば多いんです」
「はい」
ヨイチは帳面を閉じながら言った。
「品評はここまでにしましょう。今日は松坂本店へ戻ります」
「いよいよ帰るか」
「はい。本店の皆が待っています」
白子を出る頃には、朝の空気に海の湿り気が混じっていた。
港から船に乗り、松坂の港を目指す。
白子の海から出て、昼手前には松坂の港に着く予定だった。海は穏やかで、思ったより船足もよかった。
道中、九鬼水軍の者たちも顔を出した。
「旦那様、京都に行ったと思ったら、また厄介ごとを持ち込んできたそうですな」
「持ち込んだわけちゃいます」
「いやいや、旦那様は何かついておりますな。飯屋で京都行って、朝廷に挨拶して、
山科様に会って、比叡山と揉めて帰ってくる。普通は一つも起こりませんわ」
水軍の若い衆がげらげら笑う。
博之は苦笑した。
「幸運続きでここまで来ましたからね。色々ありながらも、なんやかんやうまいこといって」
九鬼水軍のまとめ役が、にやりと笑った。
「ここらで一回、悪い運が出てるんちゃいますか」
「悪い運にしては、首に刃傷はきついですけどね」
「でも生きてる。なら、まだ旦那様の勝ちですわ」
「そういうもんですか」
「海では、沈まんかったら勝ちです」
その言葉に、博之は少し笑った。
「飯屋では、飯が出たら勝ちです」
「ほな、まだまだ勝ってますな」
笑い声の中、船は松坂の港へ近づいていった。
松阪の港には、すでに伊勢松坂屋の者たちが集まっていた。
誰が知らせたのか、帰還の時刻は伝わっていたらしい。港の料理番、荷運び、女衆、下働き、
買い付けの者たちが、そわそわしながら待っている。
船が着くと、一斉に声が上がった。
「旦那様!」
「ご無事で!」
「本当に戻ってこられた!」
「首は大丈夫ですか!」
博之は手を振った。
「大丈夫や。ちょっと切れただけや」
お花が即座に言う。
「大丈夫ではありません。首筋に刃傷ありです」
「またそれ言う」
港の者たちは、さらにざわついた。
「やっぱり本当に斬られたんですか」
「斬られてへん。かすっただけや」
「それでも首ですやん」
「そうやけど」
港のまとめ役が、深く頭を下げた。
「旦那様、とりあえず本店へお戻りください」
「いや、九鬼水軍のまとめ役にも一応挨拶を」
「後日でお願いします」
「でも、船の件もあるし」
「後日でお願いします」
いつになく強い口調だった。
博之は少し驚いた。
「みんな厳しいな」
ヨイチが静かに言った。
「皆、それだけ心配していたのです」
「文は出したやろ」
「文より顔です」
お花も頷く。
「本店に戻って、皆に顔を見せてください。それが先です」
結局、博之は港での挨拶もそこそこに、松阪本店へ向かった。
荷車に乗ろうとすると、お花が少しだけ眉を上げたが、今日は何も言わなかった。
首の傷があるので、さすがに歩かせるつもりはなかったらしい。
松阪の町を進むと、道々で声をかけられた。
「旦那様、ご無事で!」
「京都で大変だったとか!」
「比叡山とやり合ったんですか!」
「首、大丈夫ですか!」
博之はそのたびに、苦笑しながら手を振る。
「大丈夫や。生きてる、生きてる」
「生きてるって言い方が怖いです」
お花が横で呟く。
「じゃあ、元気や」
「元気でもありません」
「難しいな」
松阪本店へ着くと、門前にはさらに多くの者が集まっていた。
女衆、料理番、帳場、下働き、子どもたち、師範代、見習い。皆が、息を詰めるように
博之を見ている。
そして、博之が荷車から降りると、一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
声が震えていた。
何人かは、すでに涙を浮かべていた。
博之は少し照れくさくなり、いつものように軽く言った。
「ただいま。そんな大げさな」
だが、その瞬間、女衆の一人が泣き出した。
「大げさではありません!」
別の者も涙を拭う。
「本当に、生きて戻って来られてよかったですわ」
「文では軽傷と書かれていましたけど、首筋に刃傷ありとも書かれていて……」
「どっちなんですかと、みんなで震えておりました」
「旦那様が死んだら、どうなるんですか」
「死んでへんやろ」
博之は困ったように笑った。
そこで、お花が静かに言った。
「大げさではありません」
場が静まる。
お花の声は、少し震えていた。
「本当に私は、泣きじゃくっていたんですから」
その言葉に、本店の女衆たちの顔色が変わった。
「お花様が……」
「お花さんが、そこまで言うということは……」
「よっぽどだったんですね」
お花は、はっきり頷いた。
「よっぽどでした」
博之は慌てた。
「いやいや、本当に話がでかくなるぞ」
「でかくしているのは旦那様です」
ヨイチが即座に言った。
「お前まで」
「事実です」
料理番の一人が、震えながらも言った。
「旦那様、本当にご無事でよかったです」
「うん。心配かけたな」
博之は、今度は茶化さずに言った。
「ただいま」
その一言で、また何人かが泣いた。
松阪本店の空気が、ようやく少し緩んだ。
ただし、緩んだのは安堵だけではなかった。
大津の話はすでに広がっている。
比叡山の僧兵。
神輿。
踏まれた飯。
割られた器。
薙刀を首に当てられた大旦那。
一千万文を三好と六角に撒くという啖呵。
そして、生きて戻ってきたこと。
それらが、松阪本店の中で一気に実感を伴って広がっていく。
若い料理番たちの目は、心配と興奮が混じっていた。
女衆は泣きながら怒っていた。
下働きの子どもたちは、よく分からないながらも、ただ大旦那が戻ってきたことに安心している。
博之は、その全部を見て、少しだけ胸が重くなった。
根なし草のつもりでいた。
壊されたらまた作ればいいと思っていた。
けれど、ここには待っている人がいる。
泣く人がいる。
怒る人がいる。
自分が帰ってくるだけで、これだけ空気が変わる場所がある。
「……ほんまに、帰ってきたんやな」
博之が小さく呟くと、お花が言った。
「はい。ここが本店です」
ヨイチも帳面を閉じた。
「まずは皆に顔を見せられました」
「これで帰還完了か」
「まだです」
「まだあるんか」
「傷の手当て、報告会、今後の対策、三好と六角への銭の流れ、京都郊外、大津、
草津、堅田の警戒、全部あります」
博之は天を仰いだ。
「帰ってきたのに仕事山積みやな」
お花が少しだけ笑った。
「生きて帰ってきたから、仕事ができるんです」
「それはまあ、そうやな」
その日の本店では、すぐに大きな宴とはならなかった。
まずは静かに飯が出された。
柔らかい粥。
薄めの味噌汁。
魚のほぐし身。
少しの漬物。
博之はそれを見て、ほっとした。
「今日は品評会やないんやな」
料理番が涙目で言った。
「今日は、ただ食べてください」
その言葉に、博之は何も言えなくなった。
椀を持ち、粥を一口すする。
「……うまい」
それだけで、周りの者たちの顔が少し和らいだ。
松坂本店に、博之が戻ってきた。
ただそれだけで、店は少し落ち着きを取り戻した。
だが同時に、皆が分かっていた。
話は終わっていない。
むしろ、これから大きくなる。
それでも今は、帰ってきた大旦那に飯を食わせる。
伊勢松坂屋らしい帰還は、涙と怒りと粥の湯気の中で、静かに始まった。