作品タイトル不明
草津での朝。信楽・伊賀行きは中止。草津→関→白子まで戻る。道々で心配される。松坂本店には明日帰宅予定。
草津の朝も、結局は品評会から始まった。
焼きおにぎり、旅人味噌汁、酢だれ鶏、干物のほぐし飯、小魚の揚げ物。草津の料理番たちは、
昨日の催しが無事に終わったことで、少し自信をつけていた。
博之は首筋に布を巻いたまま、もぐもぐと食べていた。
「これは任せでええな。旅人向けに強い」
ぽん、と焼印。
「こっちはまだ見習いや。味はええけど、冷めた時にちょっと落ちる」
ぽん、と別の印。
料理番たちは真剣に聞いている。
だが、その横でお花はずっと不機嫌だった。
「旦那様」
「なんや」
「今日の予定ですけど、伊賀は行きませんよ」
博之は箸を止めた。
「いや、伊賀防衛どうするかなって思っててな」
「行きません」
「伊賀の道、結構大事やで。松坂と近江、京都を結ぶ道やし」
「行きません」
お花の声は固かった。
ヨイチも帳面を閉じて、静かに言った。
「旦那様、今回は一度松坂へ戻りましょう」
「ヨイチまで」
「はい。これだけのことがあったのです。大津で会場が荒らされ、旦那様は首に刃傷を負われました。
松阪本店に生存確認をしてもらわないと、店が落ち着きません」
「文は出したやろ」
「文だけでは足りません。旦那様が自分の足で戻ることに意味があります」
お花が続ける。
「伊賀はまだ行けます。信楽の窯元も、伊賀の道も、堅田も、全部、生きていれば後で行けます」
「いや、信楽焼の窯元は見たかったんやけどな」
博之は未練がましく言った。
「師範代御膳をやるなら、器がいるやろ。小鉢を六品、七品並べるなら、
瀬戸物だけやなくて、信楽焼も揃えたいんや。あの土の感じ、京の郊外にも合うと思うねん」
「生きていれば何でも見に行けますから」
「でも、窯元と直接話せたら、御膳用の小鉢とか、湯呑みとか、寝床付きの膳に合う器とか、
色々作ってもらえるかもしれんし」
「今、ご自身のお体を気をつけてください」
「あと、延暦寺の人たちの動きも気になるな」
「馬鹿なこと言ってないで、早く帰りますよ」
お花にぴしゃりと言われ、博之は黙った。
草津の料理番たちも、少し心配そうに見ている。
「旦那様、松坂の皆さんも心配されていると思います」
「大津の話、もうかなり広がってます」
「大旦那様が薙刀で首を切られたって……」
「切られてはない」
博之は慌てて訂正した。
「ちょっと当たっただけや」
お花が睨む。
「首筋に刃傷あり、です」
「はい」
結局、伊賀行きも信楽の窯元巡りも取りやめになった。
草津から関へ向かい、北伊勢を通って、白子で一泊。その後、松阪へ戻る。
予定より早い帰還である。
出発の準備が整うと、博之は荷車の後ろに腰を下ろした。
お花がすぐに言う。
「歩けないんですか」
「首怪我してるし」
「首と足は別です」
「でも、体を大事にしろって言うたやん」
「そういう時だけ都合よく使わないでください」
ヨイチが小さく笑った。
草津を出て、関へ向かう道は、どこかいつもより静かだった。
博之は荷車に揺られながら、ぼんやりと空を見上げた。
「今回も、色々あったな」
お花が即答する。
「色々ありすぎです」
「京都に挨拶行っただけやねんけどな」
「なんで京都に行くだけで、朝廷、山科様、京都店、比叡山、大津の騒動、三好、六角まで
話が広がるんですか」
「俺が引き起こしたわけちゃうで。向こうが勝手に寄ってきたんや」
「旦那様が一千万文を持って京都に入って、飯と市を広げて、船を作って、師範代御膳まで思いついて、
比叡山に脅されても引かなかったからです」
「並べると俺が悪いみたいやな」
「だいぶ悪いです」
「理不尽や」
ヨイチが帳面を見ながら言った。
「ただ、成果もあります。朝廷への礼は済みました。山科様に筋も通りました。
京都店の方針も定まりました。草津の催しも成功しました。六角への筋も通りました。
三好方にも文が動いています」
「ほら、成果あるやん」
「ただし、大津の会場は荒らされ、旦那様は負傷しました」
「そこはまあ」
「そこが一番大きいです」
お花がまた睨む。
博之は黙って荷車の揺れに身を任せた。
関へ向かう途中、いくつかの拠点に立ち寄った。
すでに大津の話は伝わっていた。
「旦那様、ご無事で!」
「首を斬られたと聞きました!」
「比叡山とやり合ったって本当ですか!」
「飯を踏まれたって聞きました!」
博之はそのたびに、手を振って答えた。
「斬られてへん。ちょっと刃が当たっただけや」
「でも血が出たんでしょう」
「出たけど、生きてる」
「大丈夫なんですか」
「大丈夫や」
お花が横から言う。
「大丈夫ではありません。安静が必要です」
「お花さん、盛るな」
「盛っていません」
拠点の者たちは、心配そうにしながらも、どこか誇らしそうでもあった。
伊勢松坂屋の大旦那が、比叡山に屈しなかった。
飯を踏まれて怒った。
銭を脅し取られず、三好と六角へ流すと言った。
その話は、すでに半分伝説のように膨らみ始めていた。
博之は顔をしかめる。
「これは松坂でもっと大騒ぎやな」
ヨイチが頷いた。
「はい。早めに帰った方がいいです」
「下手したら、俺が死にかけた話になってるやろ」
「すでになっている可能性があります」
「困るなあ」
「旦那様が困る行動をしたからです」
「はい」
関に近づく頃には、博之も少し疲れていた。
首の傷よりも、人に心配され続けることの方が疲れる。
だが、北伊勢へ入ると、少しだけ気持ちは軽くなった。
「やっぱり伊勢に近づくと落ち着くな」
お花が言った。
「まだ松坂ではありません」
「でも、空気が違う」
「それは分かります」
北伊勢の道は、京都や近江よりも慣れている。
店の者の顔も、道の匂いも、荷の流れも、どこか自分たちのものに近い。
それでも、通る先々で心配された。
「旦那様、大変だったと聞きました」
「松阪本店にも文が行っています」
「皆、帰りを待っていると思います」
その言葉を聞くたびに、博之は少しだけ胸が重くなった。
自分は根なし草のつもりで、壊されたらまた作ればいいと思っていた。
けれど、もうそういうわけにはいかない。
待っている人がいる。
心配する人がいる。
飯を出しながら、自分の帰りを待っている店がある。
「……早めに帰ろうか」
博之がぽつりと言うと、お花が頷いた。
「それがいいです」
ヨイチも言った。
「白子で一泊して、明日松阪へ戻りましょう」
「白子でもまた心配されるやろな」
「されます」
「飯も出てくるやろな」
「出てきます」
「品評会か」
「おそらく」
博之は少し笑った。
「まあ、それはそれで日常やな」
夕方、白子に入った。
港の気配が近い。
湖と京都の緊張から離れ、伊勢湾の湿った風が少しだけ優しく感じられた。
白子の店では、すでに出迎えの者たちが待っていた。
「旦那様!」
「ご無事で!」
「首は大丈夫ですか!」
「比叡山とやり合ったって本当ですか!」
博之は苦笑した。
「大丈夫や。飯食って寝たら治る」
お花がすぐに言う。
「治りません。ちゃんと休んでください」
白子の料理番が言った。
「旦那様、今日は消化のいいものを用意しました」
「それはありがたい」
「ただ、少しだけ見ていただければ」
「やっぱり品評会やんけ」
皆が少し笑った。
その笑いに、博之も少し救われた。
大津の騒動はまだ終わっていない。
三好と六角への金も動く。
比叡山も黙ってはいないだろう。
伊賀の防衛も、堅田の市も、信楽焼の窯元との話も、考えることは山ほどある。
けれど今は、白子に戻ってきた。
伊勢の空気の中で、飯を食う。
そして明日、松阪へ帰る。
博之は首筋の布を押さえながら、白子の座敷に座った。
「とりあえず、生きて帰ってきたな」
お花が静かに言った。
「まだ松坂まで帰っていません」
「厳しいな」
「本店のみんなに顔を見せるまでが帰還です」
ヨイチが帳面を閉じた。
「明日、松坂本店へ戻ります」
博之は頷いた。
「うん。帰ろう」
白子の夜は、思ったより穏やかだった。
港の風が吹き、湯気の立つ汁が出され、料理番たちが心配そうにしながらも飯を運んでくる。
騒動の後でも、飯は出る。
その当たり前が、今はありがたかった。