軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

大津での狼藉をした僧兵が比叡山に事の顛末を報告する。老僧は僧兵を怒る。ただの鴨ではなかった。情報収集と落としどころを探る

一方、比叡山では、ちょっとした動揺が広がっていた。

大津での一件は、すぐに山へ戻って報告された。

伊勢松坂屋という、伊勢の田舎から来た飯屋。

朝廷に一千万文相当を寄進したという話。

京都郊外で炊き出しをし、大津や草津で催しを開き、飯と小物と布団を回しているという話。

それを聞いた時、最初に動いた者たちは、正直に言えば軽く見ていた。

「田舎の飯屋やろ」

「銭を持ってるなら、揺すれば出す」

「朝廷に一千万文出したなら、こちらにもそれなりに出すやろ」

「一千万文は吹っかけすぎでも、半分、いや三分の一でも取れたら大きい」

そういう腹だった。

だから、僧兵を連れて行った。

神輿を出した。

仏罰をちらつかせた。

会場を荒らした。

飯を踏み、器を割った。

普通の商人なら、そこで折れる。

普通の飯屋なら、震える。

普通の田舎者なら、京都と比叡山の名に呑まれて、銭を差し出す。

だが、戻ってきた報告は、比叡山の上の者たちを凍りつかせた。

「……一歩も引かなんだと?」

「はい」

「首に薙刀を当てたのにか」

「はい。刃が当たり、血も出ましたが、ひるみませんでした」

「それで?」

「その一千万文を、三好と六角に五百万文ずつ流すと言いました」

座敷の空気が、ぴたりと止まった。

上座にいた老僧が、低い声で言った。

「なんて馬鹿なことをしたんや」

報告に戻った僧兵たちは、思わず顔を上げた。

「は?」

「お前らのことを言うておる!」

老僧は、声を荒げた。

「ただの飯屋から銭を取るつもりで行って、逆に三好と六角に銭を流す口実を与えたのか!」

「しかし、あの者は延暦寺を愚弄し」

「愚弄したのはどちらだ!」

老僧は、床を叩いた。

「飯を踏み、器を割り、客を逃がし、首に刃まで当てた。

しかも殺してはおらん。脅しだけして、銭も取れず、相手に記録だけ残された。最悪や」

「では、斬ればよかったのですか」

「阿呆!」

老僧は怒鳴った。

「もっとあかんわ!」

座敷が静まり返る。

「考えてもみよ。大膳亮の官途を持つ男やぞ。朝廷に一千万文を寄進したばかりの男やぞ。

その男を、大津の催し場で、神輿を持ち込んだ延暦寺の僧兵が斬り殺したとなればどうなる」

誰も答えなかった。

「山科の耳にも入る。公家の耳にも入る。三好の耳にも入る。六角にも届く。北畠にも届く。

しかもその男は、ただの飯屋ではない」

老僧は、報告の紙をつかんだ。

「畿内全域に三十ほどの拠点があると言うたそうやな」

「はい。本人はそう申しておりました」

「伊勢だけではないぞ、それは」

老僧は眉間を押さえた。

「伊勢、尾張、上野、大和、京都郊外。大津、草津。おそらく近江にも食い込んでおる。

六角筋にも何らかの影響がある。三好の領分にも、すでに飯場や買い付けの筋があるやもしれん」

「そこまでの者なのですか」

「分からん。分からんからまず情報を集めるべきだったのだ」

老僧の声は、怒りから、だんだん苦々しいものに変わっていった。

「こちらが知っていたのは、朝廷に一千万文を出したという話だけ。そこへ飛びついた。

いい鴨が来たと思った。だが、鴨ではなかった」

「飯屋でございますぞ」

「飯屋で三十拠点を持つ者が、ただの飯屋なわけがあるか!」

老僧は吐き捨てるように言った。

「根なし草から始めたと言うたのだろう」

「はい。本人がそう申しておりました」

「根なし草が、二年半か三年で畿内に拠点を張る。飯を出し、人を雇い、船を作り、朝廷に寄進する。

そんな男が、腹をくくれておらぬわけがない」

僧兵たちは黙った。

老僧はさらに続ける。

「しかも、あの男は銭を惜しんでおらん。朝廷に一千万文。さらに三好と六角に五百万文ずつ。

これを本当に出せるなら、手持ちはそれ以上にある」

「脅せばもっと出るのでは」

「まだ分からんのか」

老僧は睨んだ。

「あの男は、脅せば延暦寺に出すのではない。脅せば、こちらを困らせる相手に出すのだ」

その言葉に、座敷が重く沈んだ。

「飯屋だからこそ厄介なのだ。兵を持たぬ。城もない。だから攻める先がぼやける。

店を焼けば、別の店を作る。荷を奪えば、別の道を作る。人を脅せば、逃げ道を作る。

しかも、そのたびに銭を撒いて味方を増やす」

老僧は頭を抱えた。

「こちらが一つ荒らすたびに、向こうは二つ飯場を作ると言うたそうやな」

「はい」

「それを笑って言うたのだな」

「……はい」

「なら、相当厄介だ」

別の僧が、不満げに言った。

「しかし、このままでは延暦寺が飯屋に舐められたことになります」

「すでに舐められた形になっておる」

老僧は苦々しく言った。

「だが、ここでさらに荒らせば、今度は三好と六角が動く口実になる」

「我らが三好や六角を恐れるのですか」

「恐れる恐れぬの話ではない。今は都も近江も、火種が多すぎる。こちらが大きく動けば、

周りがそれを利用する」

老僧は少し黙り、それから言った。

「まず情報を集めろ」

「伊勢松坂屋について、ですか」

「そうだ。松坂本店。伊勢での拠点。北畠との関係。織田との距離。六角筋への入り込み。

三好方との接点。奈良で何をしているか。堺で何を持っているか。京都郊外でどの寺と

つながっているか。全部だ」

「大津の一件はどうします」

「まず噂を抑えたい」

「抑えられますか」

「難しいだろうな」

老僧は、さらに顔をしかめた。

「催しには客がいた。料理人もいた。逃げた者もいた。伊勢松坂屋の者は記録を取っている。

山科にも伝えるだろう。あの首筋の傷も、話としては強すぎる」

「飯屋の旦那が薙刀を当てられても引かなかった、と」

「そうだ。民はそういう話が好きだ」

老僧は、忌々しげに言った。

「延暦寺の僧兵が飯を踏んだ。大膳亮が血を流しながらも屈しなかった。

これが広がれば、こちらの分が悪い」

「では、落としどころを探りますか」

「探るしかあるまい」

老僧は、ゆっくりと息を吐いた。

「ただし、こちらも舐められるわけにはいかん。多少の工作は必要になる。

だが、下手に荒らすな。殺すな。飯場を焼くなら、誰がやったか分からぬ形にせよ。

だが、それも今すぐはやめろ」

「なぜです」

「今やれば、全部こちらの仕業にされる」

僧兵たちは、ようやく少し理解した顔になった。

老僧は続けた。

「それより、まずは探れ。あの男が本当に三好と六角へ銭を流せるのか。

堅田に市を出すと言うたのか。京都郊外の寺がどこまで味方か。山科がどこまで見ているか」

「もし、本当に三好と六角が向こうについたら」

「厄介どころではない」

老僧は低く言った。

「飯屋に乱暴狼藉をした延暦寺を、治安の名目で押さえる。

三好も六角も、名分が立つ。しかも銭まで出る。こちらが自分で口実を作ったようなものだ」

座敷の端で、若い僧が小さく呟いた。

「ただの飯屋やのに、言うことを聞いとけばええものを」

その声に、老僧は鋭く反応した。

「その油断が、今の事態を招いたのだ」

若い僧は慌てて頭を下げた。

老僧は、疲れたように続けた。

「ただの飯屋ではない。飯を食わせる者は、人を集める。寝床を出す者は、人を留める。

仕事を出す者は、人を動かす。銭を出す者は、武家をも動かす」

老僧は、苦々しく笑った。

「そして、根なし草から成り上がった者は、脅しに強い。失う怖さを知っているが、

失っても始め直す怖さも持っている」

座敷は静まり返った。

「こちらは、あぐらをかいていたのかもしれん」

老僧は、誰に言うともなく呟いた。

「比叡山の名を出せば、震えると思った。神輿を出せば、折れると思った。仏罰と言えば、

銭を出すと思った」

しかし、伊勢松坂屋の旦那は違った。

首に刃を当てられても、三好と六角へ銭を撒くと言った。

堅田に市を出すと言った。

三十拠点を荒らしたいなら来いと言った。

兵を持たない飯屋の怖さを思い知らせると言った。

老僧は頭を押さえた。

「まったく、なんでこんなことになった」

誰も答えない。

「いい鴨のはずだったのにな」

苦い沈黙が落ちる。

その中で、老僧は低く命じた。

「情報を集めろ。大津、草津、堅田、京都郊外。伊勢松坂屋がどこまで根を張っているか、

すべてだ。それから、山科筋の動きも探れ」

「はい」

「それと、しばらくは表立って動くな。向こうの銭が本当に三好と六角へ届くかを見る」

「もし届いたら」

「落としどころを探る」

「届かなければ」

「その時は、また考える」

老僧は、最後にぽつりと言った。

「ただし、次に行く時は、飯屋と思って行くな」

僧兵たちは顔を上げる。

「相手は、飯を武器にする者だ」

その言葉に、比叡山の座敷は再び沈黙した。

伊勢松坂屋。

田舎から来た、ただの飯屋。

そう思っていた相手は、どうやらただの銭袋ではなかった。

そして比叡山は、少しだけ後悔し始めていた。