作品タイトル不明
草津で師範代催しを行う。比叡山の妨害警戒していたが無事終了。料理番達の熱はまだ高いと呆れるお花さん。
草津へ向かう道中、博之は首筋の布を何度も気にしていた。
痛みそのものは大したことはない。血も止まっている。けれど、お花が朝から何度も布を替え、
何度も「無茶しないでください」と念を押してくるので、さすがの博之も少しだけ反省していた。
「そんなに見んでも大丈夫やで」
「大丈夫じゃありません」
「もう血止まってるし」
「止まっているから大丈夫、ではありません」
お花はずっと不機嫌だった。
ヨイチは横で帳面を抱えながら、少しだけ笑っている。
「ヨイチ、お前もなんか言うてくれ」
「旦那様、今日はおとなしくしていただくのが一番かと」
「お前もそっちか」
「昨日の今日ですから」
そうこうしているうちに、草津の拠点へ着いた。
草津では、すでに師範代催しの準備が進んでいた。
ただ、空気が妙に熱い。
前売り札の確認をする者、竹串の箱を並べる者、料理台を整える者、客の逃げ道を確認する者。
皆、顔つきがいつもより硬い。大津での騒動は、すでに文で届いていた。
博之は、草津の料理番やまとめ役たちを集めた。
「昨日の大津の話は、聞いてると思う」
皆が黙って頷く。
「比叡山の僧兵が来て、会場を荒らした。飯を踏まれた。器も割られた。俺も少し怪我した」
お花が横から低い声で言った。
「少しではありません」
「……首筋に刃傷ありや」
博之が言い直すと、草津の者たちが息を呑んだ。
「けど、人は死んでない。客も料理番も逃がした。だから、負けてへん」
博之は一人一人を見るように続けた。
「今日、草津で折れたらあかん。ここで催しをやめたら、向こうの仏罰とやらが効いたことになる」
料理番たちの顔が引き締まる。
「ただし、勘違いすんな」
博之は声を強めた。
「逃げる時は逃げろ。まずお客様優先。子ども、年寄り、女衆を先に逃がす。その次に料理番と手伝い。
自分たちの命も優先や。器や飯は荒らされたら腹が立つ。めちゃくちゃ腹が立つ。
けど、最悪やり直せる」
場が静まり返った。
「店はまた作れる。器はまた買える。飯はまた炊ける。けど、人は戻らん。
そこだけは肝に銘じてやりなはれ」
草津のまとめ役が、深く頭を下げた。
「承知しました」
料理番の一人が、震える声で言った。
「旦那様、私たちも頑張ります。ですので、旦那様もお体に気をつけてください」
その言葉に、他の者たちも頷いた。
「旦那様が首に刃を当てられても逃げなかったと聞きました」
「飯を踏む者を許さんと言われたと」
「一千万文を三好と六角に流すと啖呵を切ったと」
「本当に、伊勢松坂屋の大旦那は違います」
博之は顔をしかめた。
「いや、わし普通に松坂ではゴロゴロしてるだけやぞ」
誰も信じていない顔だった。
「昨日はたまたまや。たまたま。年に一回ぐらいある、ちょっと腹くくる日が昨日やっただけや」
「それでも、みんなすごいと思っております」
「旦那様を尊敬しています」
「崇め奉ります」
「やめろ、その流れは昨日お花さんに怒られたやつや」
お花がじろりと全員を見る。
場が一瞬で静かになった。
博之は小声で言った。
「どうしよう、お花さん」
「どうしようではありません。多分、男衆は昨日、旦那様が斬られかけても逃げなかったところに、
変な漢気を感じてしまっています」
「変な漢気」
「はい。かなり危ない方向です」
ヨイチも頷いた。
「熱が高すぎます。催しの運営には良い面もありますが、暴走には注意が必要です」
「やっぱりそうか」
博之は頭をかいた。
「戦う気が、悪い方向に転ばんとええけどな」
お花は、まだ怒った顔で言った。
「旦那様が昨日みたいなことをすると、みんなが真似します」
「それは困る」
「だから困ってるんです」
「はい」
草津の催しは、警備を増やした上で始まった。
昨日の大津の反省を踏まえ、逃げ道は最初から確保した。客の入場口と退場口を分け、
子どもや年寄りの座る場所も外へ逃がしやすい位置にした。火の管理役も増やし、
銭箱はすぐ持ち出せるようにした。
だが、会そのものは思ったより落ち着いて進んだ。
草津らしい街道飯が並ぶ。
焼きおにぎり。
干物のほぐし飯。
旅人向けの味噌汁。
冷めても食える肉あん。
野菜の小鉢。
酢だれの鶏。
湖の魚を使った小さな揚げ物。
客も、最初は大津の件を知って緊張していたが、飯を食べ始めると少しずつ表情が和らいだ。
「この焼きおにぎり、道中にええな」
「肉あん、冷めてもいける」
「草津は旅人向けの飯がうまいな」
「酢だれの鶏、飯に合うわ」
竹串も順調に入っていく。
一刻目、二刻目、三刻目。
大きな混乱はない。
四刻目には、手伝いの者たちも動きに慣れてきた。
博之は少し離れたところで見守っていた。
「ええ感じやな」
ヨイチが帳面を見ながら頷く。
「大津より運営は安定しています。大津の失敗が、そのまま草津の準備に活きています」
「失敗ではないけどな」
「妨害を含めた運用経験です」
「言い方が堅いな」
お花は周囲を見ながら言った。
「今日はこのまま終わってほしいです」
「ほんまやな」
幸い、比叡山の者は現れなかった。
警戒しながらも、会は最後まで進んだ。
夕方、竹串の集計が終わり、上位に入った料理番たちが呼ばれた。
そこから、師範代の最終見立てが始まる。
博之、お花、ヨイチ、そして草津のまとめ役が、小皿に盛られた料理を順に食べた。
「焼きおにぎりは、焦げと味噌の加減がええな。旅人向けとしてかなり強い」
「肉あんは冷めても食える。弁当に入れられる」
「酢だれの鶏は、まだ少し酢が強いけど、飯との相性はええ」
「干物のほぐし飯は、もう少し油か出汁が欲しいな。けど方向はいい」
草津の料理番たちは緊張しながら、ひとつひとつの言葉を聞いていた。
最終的に、数人が師範代として認められた。
焼きおにぎりの者。
肉あんの者。
旅人味噌汁の者。
酢だれ鶏の者。
博之は彼らを前にして言った。
「おめでとう。けど、師範代は偉くなる印やない」
皆が背筋を伸ばす。
「人に見られる印や。人に教える印や。自分の飯だけうまかったらええ、では済まん」
そして、博之は京都郊外で思いついた話をした。
「今、師範代御膳というのを考えてる」
草津の者たちが顔を上げた。
「師範代御膳、ですか」
「そうや。師範代たちが一品ずつ、腕を出す。小鉢六品ぐらいに、焼きおにぎりか混ぜ飯をつける。
昼と夕に二十食ずつ限定。値は二百文。湯浴みや寝床付きなら五百文」
ざわめきが起こる。
「ただし、これはただの高い飯ではない。師範代の名誉の場や。稼働した分は給金を別払いする。
名誉だけで働かせるつもりはない」
師範代になった者たちの目が、さらに真剣になった。
「その御膳に出す飯は、単品勝負やない。隣の料理との相性、器、見た目、飯との相性、全部見る」
博之は一人ずつ見た。
「だから、お前らにも知恵を貸してほしい。草津なら旅人向けの御膳が作れる。冷めても食える飯。
歩く者が元気になる飯。そういう視点は、松坂や京都にはない」
焼きおにぎりの師範代が、深く頭を下げた。
「必ず考えます」
肉あんの師範代も言った。
「草津の飯として、恥ずかしくないものを作ります」
酢だれ鶏の者は、少し震える声で言った。
「昨日の大津のことを聞いて、正直怖かったです。でも、今日やれてよかったです。
飯を出せてよかったです」
博之は頷いた。
「それでええ。怖くても飯を出す。危なかったら逃げる。生きてたらまた炊く。それがうちのやり方や」
草津の者たちは、その言葉に深く頷いた。
お花は横で、少し心配そうに見ていた。
「旦那様、またみんなの熱が上がっています」
「上げすぎたか?」
「少し」
ヨイチが帳面を閉じながら言った。
「ただ、今日は良い熱です。暴走ではなく、役割への決意に近い」
「ならええか」
「油断はできません」
「はい」
草津の催しは、無事に終わった。
大津のような妨害はなかった。
けれど、大津の出来事は確かに草津の者たちの中に火をつけていた。
怖さもある。
怒りもある。
誇りもある。
そして、飯を止めたくないという思いがある。
その日の終わり、博之は少し疲れた顔で言った。
「なんか、みんな強くなってきたな」
お花が答えた。
「旦那様が無茶をするからです」
「そこに戻るか」
「戻ります」
ヨイチが静かに笑った。
「でも、今日の草津はよく回りました」
「そうやな」
「次は、六角への筋通しですね」
博之は、首筋の布に触れながら頷いた。
「観音寺やな」
大津で荒らされ、草津で踏みとどまった。
伊勢松坂屋は、飯を止めなかった。
そして、師範代たちはただの料理人ではなく、各地の飯を背負う者として、
少しずつ顔つきを変え始めていた。