作品タイトル不明
師範代催しで伸びなかった酢の和え物。何とかならんかと調味料を足し合わせて油で揚げた魚や鶏を漬け込む。味が丸くなり美味い。継続研究
師範代催しの後、博之は少し気になっていることがあった。
酢の和え物である。
味は悪くない。暑い日には向いている。女衆や年寄りには受ける。体にも軽い。
けれど、竹串はあまり集まらなかった。
焼き魚、つみれ汁、肉あん、港飯の濃い味。そういう分かりやすい飯に比べると、
どうしても地味だった。
博之は調理場で酢の甕を眺めながら、ぼそりと言った。
「酢の和え物、もうちょっとなんとかならんかな」
料理番の一人が振り向く。
「旦那様、また何か思いつきましたか」
「思いついたというほどでもない。ただ、酢だけやと弱いんかなと思ってな」
博之は小さな鉢を取ると、酢を入れた。
そこへ醤油に近い濃い調味液を少し。
酒を少し。
蜂蜜をほんの少し。
刻んだねぎを入れる。
軽く混ぜて、指先で味を見る。
「うーん。ちょっと舐めてみてくれ」
近くの料理番たちが、恐る恐る小皿に取って舐める。
「……酢だけとは違いますね」
「酒が入ると角が取れます」
「蜂蜜が少しあるから、きつすぎないです」
「ねぎも合いますね」
お花も横から味を見て、頷いた。
「これは、ただの酢の和え物より食べやすいですね」
「やろ」
博之は少し嬉しそうに言った。
「ありもので、ぼんぼんぼんと混ぜただけやけどな」
ヨイチが帳面を持って現れる。
「旦那様の“適当”は、だいたい仕事になります」
「まだ仕事にするとは言うてない」
「調理場で酢と味噌醤油と酒と蜂蜜を混ぜて、料理番に舐めさせている時点で、もう半分仕事です」
「手厳しいな」
博之は、今度は魚を見た。
小アジ、サバの切り身、雑魚、少し大きめの白身魚。
「とりあえず、揚げてみるか」
「天ぷらにしますか」
「天ぷらというか、薄く粉をはたいて油で揚げる。で、熱いうちにこの酢だれに入れてみる」
「熱いうちにですか」
「その方が染みるんちゃうかな」
料理番たちはすぐに動いた。
小アジに軽く塩を振り、水気を取る。サバにも塩をする。粉を薄くはたき、油へ落とす。
じゅわ、と音が立つ。
油の香りが広がる。
揚がった魚を、そのまま食べれば当然うまい。
「熱々で食うたら、そらうまいやろな」
博之は言いながらも、箸で魚を取り、先ほどの酢だれに沈めた。
「すぐ食うのと、しばらく置くのと、両方見よう」
小アジ、サバ、白身魚。
それぞれ別の鉢に分けて、酢だれに漬ける。
ついでに、博之は鶏肉も見つけた。
「魚だけやとあれやし、鶏もやってみるか」
「鶏もですか」
「揚げ鶏の酢漬けやな。これもうまいかもしれん」
鶏肉も小さめに切り、塩をして粉をはたき、油で揚げる。
熱いうちに酢だれへ入れる。
調理場は、すっかり試作の空気になった。
しばらくして、まず小アジを取り出す。
博之が一口食べた。
「……お」
料理番たちが身を乗り出す。
「どうですか」
「熱々ではないけど、これはこれでうまい。油の重さが酢で切れるな」
お花も食べる。
「冷めても食べやすいです。ねぎが効いています」
ヨイチも少しだけ口にする。
「これは弁当にも向きますね。揚げたてでなくても出せます」
「そこやな」
博之は頷いた。
「港で余った雑魚を、翌日の飯にできるかもしれん」
次にサバを食べる。
「サバはどうや」
料理番が一口食べ、目を丸くした。
「これ、うまいです。サバの臭みが少し消えています」
「酢が勝つかと思いましたけど、酒と蜂蜜で丸くなってますね」
「飯に合います」
博之は満足そうに頷いた。
「サバは焼きサバを酢漬けにするのもありやな。揚げる油がもったいない時は、焼いて漬ける」
「焼きサバの酢漬けですか」
「それも試そう」
次に、小アジを少し長めに漬けたものを食べる。
料理番の一人が言った。
「あれ、小骨が少し柔らかくなってますね」
「そうそう」
博之は嬉しそうに箸を振った。
「酢に漬けると、骨が少しやわらかなるんやと思う。小魚なら、これで食べやすくなるかもしれん」
「子どもや年寄りにも出しやすいかもしれません」
「そうや。これはただの味付けやなくて、食べやすくする工夫でもある」
鶏も食べてみる。
揚げた鶏に、酢だれが染みている。
「鶏もうまいな」
「これは港飯というより、城下町でも受けそうです」
「うん。酒の席にもいける」
「旦那様、また商品が増えましたね」
「まだ決めてへん」
ヨイチがすぐに言う。
「小アジの酢だれ漬け、サバの酢だれ漬け、焼きサバ酢漬け、揚げ鶏酢漬け。
最低四品は試作に入ります」
「決めるの早いな」
「旦那様が作ったので」
料理番たちは、すでに次を考えていた。
「港飯なら、少し塩を強めにしてから漬けた方がよさそうです」
「城下町向けなら、酢を立てて蜂蜜を少し増やすと上品になります」
「寺社向けなら、油を控えめにして焼き魚を漬ける方がよいかもしれません」
「弁当なら、小アジがいいですね」
博之は、にやりとした。
「お前ら、早いな」
「これは面白いです」
「酢の和え物より、飯になる感じがあります」
「揚げ物なのに、冷めてもいけるのが強いです」
お花が言った。
「師範代催しでも、これは出せそうですね」
「出せる。けど、竹串が一気に集まる飯かは分からん」
「でも、分かる人には刺さります」
「そういう飯やな」
博之は、酢だれに漬かった小アジを見た。
「焼き魚やつみれ汁とは違う。派手ではない。けど、港で余った魚を活かせる。冷めても食える。
小骨も柔らかくなる。夏に強い。弁当にできる。船にも持たせられるかもしれん」
ヨイチが帳面に書く。
「酢だれ揚げ魚。港飯、弁当、夏場、船荷試験」
「名前どうする?」
料理番が聞いた。
「うーん」
博之は少し考えた。
「南蛮風、っていう言い方を堺方面で聞いたことあるような気もするけど、まだよう分からんな。
最初は“揚げ魚の酢だれ漬け”でええやろ」
「分かりやすいです」
「港なら“酢魚”でもええ」
「酢魚」
「うん。あとは味が整ったら考える」
その日の夕方には、調理場の者たちの間で、すでに小さな話題になっていた。
「旦那様がまた変な魚料理作ったらしい」
「揚げた魚を酢に漬けるんやって」
「冷めても食えるらしいで」
「小アジがうまかった」
「サバもいける」
「鶏もやったらしいぞ」
女衆も味見に来た。
「これ、さっぱりしてていいですね」
「魚臭さが少ないです」
「お弁当に入ってたら嬉しいかも」
港飯の濃い味に慣れた男衆は、少し物足りないと言うかと思われたが、意外にも反応は悪くなかった。
「飯に乗せてもいけるな」
「酒にも合うぞ」
「揚げたてじゃなくてもうまいのは助かる」
博之は、調理場の端でその声を聞きながら、少し満足げに言った。
「別に料理で遊んでるわけちゃうぞ」
お花がすぐに返す。
「遊んでいるにしては、味が整いすぎています」
「それ褒めてるんか」
「褒めています」
ヨイチは帳面を閉じながら言った。
「酢の和え物が人気薄だったところから、新しい品が生まれましたね」
「そうやな」
「竹串が少ない品目にも、まだ伸ばし方があります」
「そこや」
博之は頷いた。
「人気ないから捨てるんやなくて、なんで人気ないか考える。酢がきついのか、飯にならんのか、
見た目が地味なのか。そこをちょっと変えたら、急に化けることもある」
料理番たちは、真剣に聞いていた。
「師範代は、こういうところも見なあかんぞ」
博之は言った。
「客が選ばんかった飯にも、役割がある。夏に効く飯、年寄りに向く飯、船に向く飯、
余り魚を活かす飯。そういうのを見つけられるやつが、上に行くんや」
調理場に、少し静かな熱が広がった。
焼き魚やつみれ汁のように、分かりやすく票を集める飯だけがすべてではない。
酢の和え物のように地味なものも、少し工夫すれば、まったく違う飯になる。
その日、松阪本店では「揚げ魚の酢だれ漬け」が、ちょっとした話題になった。
まだ正式な商品ではない。
だが、港飯、弁当、船飯、夏の飯として、明らかに可能性があった。
博之は小アジをもう一つつまみながら、ぽつりと言った。
「これ、白子や松坂でやったら、化けるかもしれんな」
ヨイチが即座に帳面を開いた。
「白子、松坂、鳥羽、堺で試作指示ですね」
「まだ言うてない」
「今、言いました」
「言葉に気をつけなあかんな」
お花が笑った。
「旦那様の思いつきは、だいたい次の仕事になりますから」
揚げ魚の酢だれ漬け。
それは、師範代催しで票が伸びなかった酢の飯から生まれた、伊勢松坂屋の新しい港飯の種だった。