作品タイトル不明
松坂城主と船の運用に1千万文使った話と今後の北伊勢連合が難航して北畠と織田が取り合う形から領土隣接の可能性を話す
五番勝負の後、松坂の城主は満足そうに茶をすすっていた。
庭では、伊勢松坂屋の料理番と城の料理番が、まだ互いの飯について話している。
勝った負けたというより、互いに違うものを見た顔だった。
博之も、少し肩の力を抜いていた。
その時、城主がふと思い出したように言った。
「そういえば、話は聞いとるぞ」
「何の話ですか」
「船や」
博之の箸が止まった。
「結構でかいのを作るらしいな」
「ああ……はい」
「なんや。今度は海で儲ける道を探しとるんか」
「違います」
博之はすぐに首を振った。
「いや、儲けがないとは言いません。酒や油や布団や木綿を動かせるなら、
商いとしても意味はあります。けど、先にあるのは騒乱への備えです」
「ほう。説明せえ」
城主の目が少し鋭くなった。
博之は姿勢を正した。
「最近、巡回をしています。前回は伊勢から鳥羽へ行きました。そこで、鳥羽から志摩、尾鷲、熊野、
新宮、紀州へ伸びる海の道があると聞きました」
「紀州の道か」
「はい。今回は、松阪から津、亀山、関、白子あたりを見て戻ってきました。その途中で、
北伊勢の国人衆とも少し話しました」
城主は黙って聞いている。
「どうも、北伊勢連合はうまくいっていないように見えます」
「……続けろ」
「津の辺りは、伊勢松坂屋が港や郊外の価値を上げたこともあって、ありがたいと
言ってもらえています。けれど、蟹江、関、亀山、白子、桑名、四日市。そこらが一体になって
動く感じは薄いです。それぞれの思惑が違う。蟹江の腹と、関・亀山の腹も違う。
白子は白子で港の都合がある」
「一年ではまとまらん、と」
「はい。少なくとも、私にはそう見えました」
博之は茶を一口飲んだ。
「だから、この休戦期間が終わった後、北伊勢は荒れると思っています」
上司は、少し眉を動かした。
「織田と北畠で取り合う形になると見ているのか」
「取り合う、という言い方が正しいかは分かりません。ただ、それぞれがどちらの勢力下に入るか、
選ばされる形にはなると思います。戦が起こるかどうかは分かりません。けれど、
起こる可能性はあります」
「その時の難民対策に船か」
「はい」
博之は地図を指した。
「陸路だけでは限界があります。米、味噌、布団を送るにも、荷車では詰まる。
伊賀越えは大変です。けれど船なら、港から港へまとめて動かせます」
「食料を送る」
「はい。行きは米や味噌、布団。帰りは、必要なら人を乗せる。逃げてきた者を松阪や津、
白子、鳥羽へ分けることもできます」
「それで船を先に作る」
「銭はあります。けれど、銭は銭のままでは船に化けません。騒乱が起きてから慌てて
銭を撒いても、船は急にできません」
城主は、そこに少し反応した。
「それはその通りやな」
「だから、九鬼水軍に筋を通しました。二百石船を一艘、百石船を四艘。運用と育成まで
お願いしています。とりあえず一千万文を見ています」
「一千万文か」
城主は、呆れたように笑った。
「飯屋が、船に一千万文」
「はい」
「お前、ほんまに桁が狂っとるな」
「自覚はあります」
「自覚があるなら、まだましか」
城主は腕を組んだ。
「だが、あまりやりすぎると目をつけられるぞ。うちはまだ寛容や。伊勢松坂屋が炊き出しや
寄進をして、道を整え、民を食わせていることも知っている。信用がある」
「ありがたいです」
「だが、尾張方には気をつけろ」
博之は頷いた。
「はい」
「織田は、お前の仕組みを見る。飯も見る。船も見る。金も見る。便利なものは使いたがる」
「分かっています」
「で、お前はどこまで見ている」
城主の声が、さらに低くなった。
「どこまで、ですか」
「北伊勢が荒れる、難民が出る。それだけではあるまい」
博之は少し沈黙した。
そして、ゆっくり言った。
「蟹江は、いずれ織田に落ちると思います」
座敷の空気が、少し張った。
「理由は」
「蟹江単独では持ちません。織田が本気で兵を置き、織田の縁者か重臣との縁とを結ぶ形にすれば、
折れる可能性は高いです。北伊勢連合として支えるには、まとまりが弱い」
「関、亀山は」
「亀山あたりは、北畠に寄るかもしれません。けれど、そうなると、織田と北畠が北伊勢で
領土を接する可能性が出ます」
「それは面倒やな」
「はい。さらに、織田が美濃を取り始めたら、均衡が崩れます」
城主は目を細めた。
「美濃か」
「はい。今、東海から畿内を見た時、動いているのは織田です。三好は上野があります。北畠を攻める
余裕は薄い。北畠は北畠で伊勢を安定させています。六角も浅井も、今すぐ大きく動くようには
見えません」
「武田は」
「強いですが、上杉と北条があります。冬も動きにくい。尾張から美濃、
北伊勢へ伸びる織田の動きが、一番現実に近いと思っています」
博之は、少し言葉を選んだ。
「織田が美濃を取れば、次は南近江や京都への道が見えます。そこまで来たら、
北畠にとっても旗色はかなり悪くなる」
「北畠が滅ぼされる、とまで見るか」
「可能性はゼロではないと思っています」
城主は、深く息を吐いた。
「お前の目は怖すぎるわ」
「私は飯屋です」
「飯屋が、そこまで見るな」
「見えてしまうので」
「それが怖いと言うとるんや」
城主は苦笑したが、その顔には笑いだけではないものがあった。
「しかも、見えるだけではない。一千万文を使って船を作る。普通は、そこまで見えても銭がない。
銭があっても、使う胆力がない」
「銭を置いておく方が怖いです」
「そこも怖い」
博之は、少し困ったように笑った。
「私としては、船を作ることで、飯を止めない道を作りたいだけです」
「だが、周りからはそう見えんこともある」
「でしょうね」
「伊勢松坂屋は、飯を出す。人を雇う。寺社に寄進する。今度は船を持つ。米を動かせる。
人も動かせる。見方によっては、不気味やぞ」
「そこは、ほどよい距離を保つしかないと思っています」
「そうやな」
城主は頷いた。
「近すぎると飲まれる。遠すぎると疑われる。難しいところや」
「はい」
「うちとしても、警戒することは増えるやろうな。織田と領土が隣になれば、話は変わる」
「そう思います」
「北伊勢の関、亀山、白子あたりがこちらへ入れば、六角との問題も出る。北は近江、東は尾張。
面倒な線が増える」
「面倒くさいですね」
「面倒くさいぞ」
城主は、はっきり言った。
「面倒くさい。だが、お前が言うことは分かる。船を持つのは、悪くない。
北伊勢が荒れた時に、米と味噌と布団を動かせるなら、それは力になる」
「ありがとうございます」
「ただし、尾張に使われるな」
博之は顔を上げた。
「はい」
「織田は切れる。お前の船も、飯も、話家も、炊き出しも、使い方を考える。
お前が本意でなくても、向こうは使う」
「それは、少し分かりました」
「なら、距離を間違えるな。九鬼とも、北畠とも、織田とも、六角とも。飯屋の顔を崩すな」
「肝に銘じます」
上司は、うなぎと穴子の祝い飯を一口食べて、少し表情を緩めた。
「しかし、飯はうまいな」
「ありがとうございます」
「こういう飯を食わせているうちは、お前は飯屋や。船を作ろうが、銭を動かそうがな」
「そこは、忘れたくないです」
「忘れるな」
城主は、最後にもう一度言った。
「船は作れ。備えは悪くない。だが、船を持った瞬間、お前はまた一段、見る目を変えられる」
「はい」
「五億文を超えた飯屋が、船を五艘持つ。怖いぞ」
「自分でも少し怖いです」
「なら、まだ大丈夫や」
城主は笑った。
「怖くなくなった時が、一番危ない」
博之は深く頭を下げた。
面倒くさい。
その一言に、すべてが詰まっていた。
北伊勢。
織田。
北畠。
六角。
美濃。
近江。
船。
難民。
飯。
どれも、もう切り離せないところまで来ている。
それでも博之は、帰り際にぽつりと言った。
「やっぱり、飯屋って大変ですね」
城主は笑った。
「お前の場合、飯屋の範囲が広すぎるんや」
「否定できません」
「まあ、せいぜい飯を作れ。船を作る飯屋としてな」
「それ、最近みんなに言われます」
「そら言うやろ」
座敷に、少しだけ笑いが戻った。
だが、博之の胸には、城主の言葉が残っていた。
船を持つと、見られ方が変わる。
織田に使われるな。
飯屋の顔を崩すな。
そして、怖いと思えているうちは、まだ大丈夫。
京都へ向かう前に、また一つ、重い宿題が増えた気がした。