作品タイトル不明
博之、節目に松坂郊外の和尚さんのところに弁当と寄進と炊き出しを持ってお話に行く。色々ありましたねー
博之は、弁当と炊き出しの支度をさせて、松坂郊外の和尚さんのところへ向かった。
節目節目には、松坂の城主と、この郊外の和尚さんには話しておきたい。
そういう気持ちが、博之にはあった。
屋敷や城に行く時とは違う。気を張るというより、少し息を抜くために行く場所である。
とはいえ、手ぶらで行くのも寂しい。だから、弁当は少し気合いを入れた。
焼き魚、肉あん、つみれ汁、少しのうなぎ飯、漬物、焼きおにぎり。それに、炊き出し用の
大鍋も持たせた。
寺へ着くと、和尚さんはにこにこと迎えた。
「いやいや、旦那。私は、お弁当を持ってきてくれて、いろんな話を持ってきてくれる
旦那が好きですよ」
「飯目当てですやん」
「もちろん、飯も目当てです」
和尚さんは悪びれずに笑った。
「しかし、今日の弁当はまた気合いが入っていますな」
「手ぶらで来るのは寂しいですからね。会話のきっかけに飯が一つあれば、それでええかなと」
「ありがたい。旦那のそういうところは安定していますね」
そう言われて、博之は少し照れた。
座敷に弁当を広げ、炊き出しの鍋を寺の者に任せる。子どもや年寄りが、遠巻きに鍋を見ている。
もう慣れた光景だった。
和尚さんは飯を一口食べて、ゆっくり頷いた。
「うまいですねえ」
「最近、料理番たちが張り切りすぎてまして」
「ほう」
「織田のお殿様と揉める、まではいかんですけど、少し距離を取ろうとしてるんです。
飯を調略とか戦に使われるのが、どうにも嫌で」
博之は、尾張へ本人が行かず、流しそうめんとうなぎの祝い飯を、料理人に任せて送ったことを
話した。
信長が文の真意を見抜いたこと。
博之が距離を取りたがっていること。
焼印や料理札を、自分がいなくなっても店が回るように作っているのだろうと指摘されたこと。
まとめ役や料理人たちが青ざめて帰ってきたこと。
和尚さんは静かに聞いていた。
「なるほど。信長公は、やはり切れ者ですな」
「そうなんです。従業員は青ざめてましたけど、私はまあ、それぐらいは見るやろうなと」
「旦那も、そこは驚かんのですね」
「驚きはしましたけど、あの人なら見えるやろうなと。飯を出したら、
飯だけ見て終わる人ではないですわ」
和尚さんはうなずいた。
「けれど、それで旦那は焼印の制度を進めている」
「はい。自分がいなくても、料理が回るように。店が止まらんように。
ただ、それを始めたら、料理番たちが色めき立ってしまって」
「ほう」
「私のところに、飯を大量に持ってくるんです。これ見てください、これ食べてください、
焼印くださいって」
和尚は吹き出した。
「飯のお釈迦様にでもなるつもりですか」
「やばいですよ。ほんまに、聖人が一口食べて論評するみたいになってます」
「旦那が一口食べて、これは良い、これは塩が強い、これは焼きが甘い、と」
「そうです。それで焼印を渡したら、みんなめちゃくちゃ喜ぶんです。
でも、そんなに食ったら太ってまうんで、小鉢にしてくれって言ってます」
「それはまた、贅沢な苦労ですな」
「根なし草で腹いっぱい飯が食いたいって言ってた頃から考えたら、罰が当たりそうですわ」
和尚さんは箸を置き、少し懐かしそうな顔をした。
「本当に、あっという間でしたな」
「そうですね」
「最初は、子どもに文字を教えたり、根なし草の者を雇ったり、炊き出しをしたり。そういう話でした」
「今じゃ、鳥羽や伊勢を巡回して、次は津と白子を三泊四日で見に行こうとしてますからね」
「それだけ広がったということです」
博之は苦笑した。
「鳥羽に行って思ったんです。普段行かへん拠点に私が行くと、意外と喜ばれるんですよ。
というか、めちゃくちゃ歓迎される」
「それはそうでしょう」
「松坂では、私なんか畳でごろごろしてるだけですけど」
「松坂の者は見慣れているだけです。よその拠点から見れば、大旦那ですよ」
「それが、怖いくらいで」
「怖がらんでもよろしい。見てもらえる、声をかけてもらえる、飯を食べてもらえる。
それだけで、現場は励みになります」
和尚さんは少し笑った。
「しかも旦那は、二年半ほどでここまで来たのでしょう」
「そうですね。私が四十二の時に始めて、今四十四ですから」
「無茶苦茶ですね」
「自分でもそう思います」
「でも、そういう時代なのでしょうな」
和尚さんは静かに言った。
「皆、自分が食うので精一杯です。世知辛い。だからこそ、丁寧に飯を作る者、
根なし草を雇う者、気心を欠かさぬ者は目立ちます」
「目立ちすぎて、織田様にも見られてますけどね」
「それも含めて、旦那の道です」
和尚さんは、炊き出しの方へ目をやった。
「飯だけではありません。普段見られないものが見られる。食べたことのないものが食べられる。
布団が配られるかもしれない。そういうことは、幸せなのですよ」
「幸せ、ですか」
「はい。小さな幸せです。けれど、小さな幸せを何度も配る人は、強い」
博之は、少し黙った。
和尚さんは続けた。
「だから旦那には、もっと頑張ってもらわんと」
「頑張るの、しんどいです」
「頑張るというより、長生きしながら、ぐるぐる回って徳を積みに行きなはれ」
「徳ですか」
「徳です」
和尚は、にこりと笑った。
「飯を出し、布団を配り、人を雇い、話を聞く。それは徳です。
ただし、無理をして倒れたらいけません」
「そこですね」
「そうです」
博之は茶を飲んでから、本題を切り出した。
「実は、今回来たのは、京都の話もあって」
「いよいよ京都ですか」
「はい。官位をいただいたので、それを口実にして、一度顔を出そうかと。
朝廷や寺社にも礼を通して、寄進もしたい。京都のお土産話も、またここでできたらなと思いまして」
「それは楽しみですな」
「北伊勢、大和、近江経由で入って、帰りは伊賀に挑戦しようかなと考えてます」
「伊賀ですか」
「松坂から伊賀へ入ると、行きで疲れそうなんです。なので、行きは北や近江から回って、
帰りに伊賀から松坂へ戻る感じで」
「なるほど」
「もう年なんで、伊賀越えも一回見たら十分かなとは思ってるんですけど」
「旦那、四十四で年と言うには早いですぞ」
「いや、山道はきついですって」
和尚さんは笑った。
「けれど、行った方がよいでしょうな」
「やっぱりですか」
「はい。買い付け隊が定期的に知らせてくれるとしても、旦那が一度来た、という事実は大きいです」
「そんなもんですかね」
「そんなものです。あんな山あいのところ、と言うと失礼ですが、そこへ大旦那が
来てくれたとなれば、相当喜ばれますよ」
「対応が雑になるのも嫌なんです。ここには来ないやろうと思われると、現場が緩むかなと」
「それもありますな。見られている、と思うだけで人は変わります」
博之は、少し息を吐いた。
「鳥羽でもそうでした。行ってみると、みんな頑張ってるし、喜ぶし、足りないものも見える」
「伊賀でも、きっと同じでしょう」
「しんどいけど、行くか」
「行きなはれ」
和尚さんは、いたずらっぽく言った。
「それに、伊賀といえば、最初の頃の身代金の話もありましたな」
「ありましたねえ」
博之は思わず笑った。
「あの頃は、今みたいな話になるとは思ってませんでした」
「私もです」
「和尚さんと話すと、ほんま思い出話みたいになりますね」
「それだけ、歩いてきたということです」
炊き出しの鍋から、湯気が上がっていた。
子どもたちが椀を持って並び、年寄りがゆっくり腰を下ろしている。寺の者が、
慣れた手つきで配っている。
博之はそれを見て、少しだけ安心した。
「京都に行ったら、また話に来ます」
「ええ。うまいものを持ってきてください」
「やっぱり飯目当てですやん」
「もちろんです」
和尚さんは笑った。
「けれど、飯と一緒に土産話を持ってくる旦那が、私は好きですよ」
博之も笑った。
「では、無事に帰ってこられるようにします」
「それが一番です」
和尚さんは、静かに手を合わせるように言った。
「京都へ行くなら、顔を立て、無理をせず、線を引き、帰ってきなはれ。
徳を積むのも、まず命あってこそです」
「はい」
博之は深く頷いた。
松坂の城主には筋を通した。
郊外の和尚さんには心を整えてもらった。
次は、津と白子を巡回し、それから京都への文と準備。
道は、また伸びていく。
けれど、こうして飯を持って話せる場所がある限り、博之はまだ、自分を見失わずに済む気がしていた。