作品タイトル不明
松坂に戻りゴロゴロしようと決めていたが料理番たちのやる気がすごく毎食試食会みたいになっているwww
松坂へ戻ってから、博之は畳の上に転がった。
「何日か、ゴロゴロしよう」
それを聞いた夜市は、帳面を抱えたまま冷静に言った。
「旦那様、次は津と白子を三泊四日で巡回する予定です」
「分かってる。だから、その前にゴロゴロするんや」
「準備もあります」
「準備はする。けど、まずゴロゴロする」
お花が茶を置きながら、少し笑った。
「旦那様の場合、ゴロゴロしながら仕事を増やしますからね」
「失礼な」
「事実です」
実際、その数日間は完全な休みにはならなかった。
朝餉、昼餉、夕餉のたびに、料理番たちが少しずつ料理を持ってくるようになったのである。
理由は、焼印だった。
鳥羽、伊勢での巡回をきっかけに、料理番たちの間で火がついていた。
焼き魚。
肉あん。
つみれ汁。
焼きおにぎり。
海藻入りすり身揚げ。
干物の炙り。
出汁巻き。
小さな混ぜ飯。
それらを、料理番たちが「旦那様、少し見ていただけますか」と言って持ってくる。
最初は博之も笑っていた。
「おう、持ってこい」
だが、三品、四品、五品と増えてくると、さすがに顔をしかめた。
「いや、盛りすぎや」
料理番たちは、きょとんとした顔をする。
「少しずつにしておりますが」
「その“少しずつ”が十種類来たら多いねん」
博之は腹をさすった。
「俺を太らせる気か」
お花が横で言う。
「旦那様、すでに少し危ないです」
「そういうこと言わんでええ」
「事実です」
「最近、事実で殴られすぎや」
ヨイチは、淡々と運用の話に戻した。
「ですが、試食の場は必要です。巡回先でいきなり判断するより、本店で基準を
作っておく方がよいです」
「それは分かる」
博之は箸を持ちながら頷いた。
「だから、盛り方を減らせ。ひと口、ふた口で分かるものもある。飯も小盛り。
汁も小椀。焼き魚も一切れ。味を見たいんであって、腹いっぱいになりたいわけやない」
「承知しました」
料理番たちは、真剣に頷いた。
「でも旦那様、腹いっぱい飯を食べたいって言ってませんでしたっけ」
若い料理番の一人がぽろりと言った。
博之は一瞬黙った。
「……それは昔の話や」
お花が微笑む。
「根なし草で、腹いっぱい飯が食いたかった旦那様ですからね」
「そうやけどな」
博之は小さな焼きおにぎりをつまみながら、苦笑した。
「こんな食い方してたら、ばち当たりそうや。昔の俺が見たら、なんやこいつって思うやろな」
「でも、必要な仕組みです」
ヨイチが言った。
「飯を食べて贅沢しているのではありません。味を見る仕事です」
「そう言われると、少し救われるな」
「ただし、食べすぎは駄目です」
「はい」
そうして、試食と焼印の運用が始まった。
焼印には、段階を作ることになった。
まずは「見習い印」。
その料理を安定して作り始めた者に与える。まだ一人で店を任せるほどではないが、
基礎はできているという証である。
次に「任せ印」。
その料理を店で出してよい、一定の味を守れるという証。
そして一番上が「師範印」。
これは簡単には出さない。人に教えられる者、味の違いを見抜ける者、
失敗した時に立て直せる者だけに与える。
「師範印は、そう簡単には押さん」
博之は料理番たちに言った。
「うまいだけではあかん。人に教えられること。怒鳴らんこと。材料が違っても調整できること。
下働きに偉そうにせんこと。そこまで見てからや」
料理番たちは、少し緊張した顔で頷いた。
「見習いと任せは、まあ、そこそこ出す」
博之は続けた。
「せっかく頑張ってるんやからな。目標があった方がええ。でも、師範は別や。
あれは人を育てる印やからな」
夜市が帳面に書き込む。
「見習い、任せ、師範。料理ごとに記録。取得者、拠点、日付、注意点」
「日付もいるか」
「当然です。いつ取ったか、いつ味を確認したか、更新も必要です」
「更新?」
「味が落ちていないか、定期的に見る必要があります」
「免許みたいになってきたな」
「実際、そういうものです」
お花が言った。
「焼印を持つ者が増えると、女衆や下働きからも見えやすくなりますね」
「そうやな」
博之は頷いた。
「この人は焼き魚を任されてる。この人は肉あんができる。この人はつみれ汁を教えられる。
そう見えた方が、店も回しやすい」
「津や白子にも置くんですね」
「置く。松阪、伊勢、鳥羽、津、白子。この辺はまず固める。そこから
北伊勢、尾張、奈良、堺へ広げる」
「順番が大事ですね」
「いきなり全部は無理や」
その日から、食事のたびに小さな試食会が行われるようになった。
朝は焼き魚とつみれ汁。
昼は肉あん、焼きおにぎり、すり身揚げ。
夜は混ぜ飯、干物、出汁巻き、酒を使ったたれの確認。
料理番たちは、どこか意気揚々としていた。
自分の飯を旦那様に食べてもらえる。
うまければ焼印がもらえる。
もらえれば、拠点でも一目置かれる。
それは大きな励みだった。
「旦那様、これはどうでしょう」
「うん、焼き加減はええ。けど、味噌だれ塗りすぎやな。焦げが出てる」
「はい」
「見習い印は出す。任せ印は次や」
「ありがとうございます!」
「次、これは?」
「魚のすり身に、少し山芋を混ぜました」
「お、ふわっとしてるな。これはうまい。お花さん、食べてみ」
お花が一口食べて頷く。
「これはよいですね。子どもにも食べやすそうです」
「すり身揚げ任せ印、出してええな」
ヨイチが木札を出し、焼印が押される。
じゅ、と焦げる音がして、木札に印が残る。
料理番の顔が明るくなる。
そのたびに、周囲も少し湧いた。
「また一人出たぞ」
「次は俺や」
「師範印は遠いな」
「まず見習いや」
活気が出ていた。
ただ、博之は時々ぼやいた。
「あかん。これ、毎日やったら太る」
ヨイチが即答する。
「試食量をさらに減らしましょう」
「頼む」
お花が笑う。
「旦那様、昔は腹いっぱい食べたいと言っていたのに」
「今は腹いっぱいになる前に、次の皿が来るんや」
「贅沢な悩みですね」
「ほんまにな。ばち当たりそうや」
博之は、少しだけ遠い目をした。
「根なし草で、腹減って、どうしたら飯食えるか考えて、豚汁から始めたはずなんやけどな」
「今は、人に飯を食わせる側です」
「それはええことなんやろな」
「はい」
お花は静かに頷いた。
「それに、旦那様が食べているのは、自分だけのためではありません。店の味を決めるためです」
「そうやな」
博之は、次に出された小さな混ぜ飯を食べた。
「……これは塩が強いな」
料理番がびくりとする。
「す、すみません」
「謝らんでええ。街道沿いで汗かいた人に出すならあり。でも寺社や子ども向けなら薄くせなあかん。
料理札に二通り書いとけ」
夜市がすぐに書く。
「街道向け濃口、寺社向け薄口」
「そうそう」
「旦那様、これは焼印どうしますか」
「見習い印やな。味の方向はいい。調整できたら任せ印」
「はい!」
試食会は、いつの間にか日課になっていた。
朝、博之が起きれば、誰かが小さな皿を持ってくる。
昼、帳面の話をしていれば、別の料理番が汁を出す。
夜、茶を飲んでいれば、焼きおにぎりのたれを持ってくる。
博之はそのたびに、ぶつぶつ言いながら食べる。
「これはうまい」
「これは焼きが甘い」
「肉あんはええけど、皮が厚い」
「魚の臭みが残ってる」
「これ、酒使ったか?」
「油が古いな」
「これは任せ印でええ」
「これはまだ早い」
それをお花が味見し、ヨイチが記録し、料理番たちが真剣に聞く。
最初は、ただの試食だった。
だが、数日もすれば、それは本店の小さな評定のようになっていった。
料理番たちは、味を競う。
女衆は、客に出した時の反応を伝える。
ヨイチは、原価や相場を絡めて記録する。
お花は、量や見た目、食べやすさを指摘する。
博之は、味と場面を見て、焼印を出す。
「なんか、俺、ずっと飯食ってるな」
博之がぼやく。
ヨイチが言う。
「旦那様が基準ですから」
「責任重いな」
「だから、食べすぎないようにします」
「そこも頼む」
お花が微笑んだ。
「でも、店は良くなっていますよ」
「そうか?」
「はい。料理番たちの目が違います」
確かに、そうだった。
料理番たちは、ただ言われた飯を作るだけではなくなっていた。
自分の料理が、どこの拠点で使えるか。
誰に教えられるか。
どうすれば焼印がもらえるか。
味が濃いならどこ向けか。
薄いなら誰向けか。
そういうことを考え始めている。
「これが仕組みか」
博之は、小さく呟いた。
「はい」
ヨイチが答えた。
「飯を作る人が、飯の先を考えるようになります」
「それはええな」
「ええことです」
博之は、また小さな焼き魚を一口食べた。
「これはうまい。焼き魚任せ印や」
料理番が嬉しそうに頭を下げる。
お花が横で言った。
「旦那様、今日は何枚目ですか」
「数えるな」
「ヨイチさん、記録していますよ」
「もちろんです」
「怖いな」
座敷に笑いが広がった。
数日間のゴロゴロは、結局ただの休みにはならなかった。
だが、博之にとっては悪くなかった。
畳の上でごろごろしながら、料理を少しずつ食べ、味を見て、焼印を押す。
料理番たちが喜び、店の基準が少しずつできていく。
根なし草だった自分が、今は飯の基準を作っている。
それは少し不思議で、少し怖くて、少しだけ誇らしかった。
「まあ、しばらくはこれでええか」
博之が言うと、ヨイチが頷く。
「津と白子へ行く前に、かなり整理できます」
「そっちでも、また食わされるんやろな」
「間違いなく」
「俺を太らせるなって、先に文出しといてくれ」
お花が笑った。
「旦那様、それは無理です。皆、張り切りますから」
「やっぱりか」
博之はため息をつきながらも、次に出された小さなつみれ汁を手に取った。
一口飲んで、目を細める。
「……これは、ええな」
料理番たちの顔が、一斉に明るくなった。