作品タイトル不明
博之44才8月3週目。帳簿締め。4億2,234万文→4億7,926万文。増加分と新規拠点立ち上げで相殺。京都へ伺うための準備を始める
「旦那様、とりあえず帳簿を締めましょうか」
ヨイチが帳面を抱えて、いつものように座敷へ入ってきた。
博之は畳の上で横になったまま、露骨に嫌そうな顔をした。
「来たか。楽しくない帳簿の時間」
「楽しくなくても、やらないといけません」
「まあ、しゃあないな。ここまで広がったら、数字を見んわけにもいかん」
お花が茶を置きながら言う。
「旦那様が素直ですね」
「素直というか、もう逃げられへんだけや」
ヨイチは帳面を開いた。
「今回は、直近で大きく洗い出しておりますので、増減したところだけを見ます」
「それでええ。全部やったら夜が明ける」
「はい。まず、四日市、桑名、蟹江です」
「北の方やな」
「この三拠点は、うなぎと穴子の扱いを増やしたことで、それぞれ三十万文の増加と見ます」
「三十万文ずつか」
「はい。三拠点で九十万文です」
博之は、もう驚かないという顔で頷いた。
「まあ、うなぎと穴子は強いな」
「単価が高いです。しかも、ちゃんと作れる者が増えてきています」
「焼印と料理札の効果やな」
「まだ完全ではありませんが、効果は出ています」
ヨイチは次の紙をめくった。
「次に奈良です。こちらは、うなぎを二店舗で扱い始めましたので、三十万文の増加とします」
「奈良でもうなぎか」
「はい。ただ、奈良は寺社との関係もありますので、あまり派手にしすぎず、
祝い飯や高めの客向けに絞っています」
「それでええ。奈良は葛とそうめんもあるしな。うなぎだけで押し切る場所やない」
「その通りです」
ヨイチは少し間を置いた。
「堺については、拠点を一つ増やしました」
「港横丁か」
「はい。ただし、こちらは人員の増加、油、魚の仕入れ、海鮮焼きの道具、
穴子やすり身の調整などで、利益分は相殺とします」
「つまり、増えたけど今回はゼロ扱い」
「そうです」
「堺は金かかるな」
「かかります。ただ、将来性はあります」
「そこは分かる。砂糖、油、酒、刃物、魚。あそこは絶対いる」
ヨイチは頷いて、さらに続けた。
「新規に近いところでは、佐和山と志摩です」
「佐和山と、志摩か」
「はい。佐和山は近江側の見立て拠点。志摩は鳥羽の海の先を見るための足場です。
どちらも立ち上げ段階ですので、それぞれ二十万文のマイナスとします」
「二つで四十万文マイナスか」
「はい」
ヨイチは筆で線を引いた。
「増加分は、四日市、桑名、蟹江で九十万文。奈良で三十万文。合計百二十万文。
そこから佐和山と答志島の立ち上げで四十万文を引き、差し引き八十万文の増加です」
「ざっくり八十万文やな」
「はい」
博之は茶をすすりながら言った。
「もう八十万文でも、ふーんって感じになってきたな」
「感覚が壊れています」
「壊れるやろ、こんなん」
お花が静かに言う。
「昔なら、八十万文だけでも大騒ぎでしたね」
「ほんまや。今は増減の端数みたいになっとる」
ヨイチは、そこにはあまり付き合わず計算を進めた。
「前回の拠点利益が二千五百九十七万文でした。そこに八十万文を足して、今回の拠点利益は
二千六百七十七万文と見ます」
「二千六百七十七万文」
「はい」
「相変わらずでかいな」
「さらに、買い付け隊の利益があります」
夜市は別の帳面を開いた。
「買い付け隊の利益から、遊び代三十万文、布団代三十万文を引いたもの。今回は千十五万文です」
「買い付け隊、相変わらず強いな」
「瀬戸物、常滑、信楽、酒、油、古布、布団、木綿、小物。かなり回っています」
「相場板を作ったら、もっと見えるようになるな」
「はい。今後は、どこで何が利を出しているか、より明確になります」
「怖いような楽しみなような」
「必要です」
ヨイチは淡々と言った。
「拠点利益二千六百七十七万文に、買い付け隊の千七十五万文を足して遊び代と布団代六十万文を
引きます」
「三千六百九十二万文か」
「はい。今回の半月利益は、三千六百九十二万文です」
博之は少し黙ってから、ぽつりと言った。
「もう、ちょっと驚かへんわ」
「驚いてください」
「いや、驚くには驚くけどな。なんか桁が常におかしい」
お花が笑った。
「旦那様があちこちに店と道を作るからです」
「わしだけのせいやないやろ」
「大体、旦那様です」
ヨイチは前回の累計を示した。
「前回までの累計が、四億四千二百三十四万文です」
「うん」
「そこに三千六百九十二万文を足します」
「四億七千九百二十六万文」
「はい。現在の累計は、四億七千九百二十六万文です」
座敷が静かになった。
四億七千九百二十六万文。
もう、ただの飯屋の数字ではなかった。
博之は、畳の上に寝転がり直して天井を見た。
「四億八千万文くらい、って言うたらヨイチに怒られるんやろな」
「怒ります」
「やっぱり」
「二十六万文を消さないでください」
「昔なら家が建つな」
「今でも建ちます」
「ほんま、感覚おかしなるな」
ヨイチは帳面を閉じず、少し声を落とした。
「ただし、これはあくまで現時点の数字です」
「分かってる」
博之も、そこはすぐに頷いた。
「どっかで大きく減るやろ」
「はい。特に京都です」
お花が顔を上げる。
「京都への寄進ですね」
「それと、朝廷への寄進やな」
博之は起き上がった。
「官位をもらった以上、京都へ行くなら手ぶらでは行けん。寺社にも顔を出す。
朝廷筋にも何か出す。さらに、京都へ行く道々で、物資を下ろしながら行くとなると、
米、味噌、酒、布団、古布、飯の元、瀬戸物、紙、いろいろ撒くことになる」
「かなり大きな支出になります」
「なるやろうな」
夜市が言った。
「今の数字だけを見ると、余裕があるように見えます。ですが、京都行きの大巡回、
道々の寄進、朝廷筋への礼、各寺社への布団や食材の支援を考えると、一度に一千万文単位で
減る可能性があります」
「ありえるな」
「特に、京都は物価も高く、見栄も必要です」
「そこが嫌やな」
博之は苦笑した。
「松坂や伊勢なら、安い布団でも“助かる”で済む。でも京都や朝廷筋やと、
見せ方もいる。安すぎると失礼、高すぎると続かない。難しいわ」
お花が静かに言う。
「でも、そこで伊勢松坂屋の格が決まるかもしれません」
「分かってる」
博之は地図を見た。
「京都へ行くまでの道も大事や。伊賀、大和、南近江、京都の端。どこで荷を下ろすか。
どこで相場を拾うか。どこで焼印持ちを見せるか。どこで寄進するか」
「単なる旅行ではありませんね」
「全然ちゃう。飯の道を確認しながら、荷を動かす大巡回や」
夜市が帳面に記す。
「京都大巡回予定。寄進、朝廷礼、寺社支援、焼印確認、相場紙回収、物資配布。大幅支出見込み」
「書くと怖いな」
「書かない方が怖いです」
「それはそう」
お花が茶を注ぎ足した。
「今回の四億七千九百二十六万文は、あくまで“京都前の数字”ですね」
「そうやな」
博之は頷いた。
「ここから京都でごっそり減るかもしれん。けど、それは浪費やない。道を作る金や」
「はい」
「朝廷に礼を尽くす。京都の寺社に顔を出す。道中の拠点に荷を置く。相場を取る。
焼印持ちを見せる。それで京都に入る下地ができるなら、必要経費や」
夜市が言った。
「では、次回以降は“京都準備金”として別枠を作りますか」
「いるな」
「いくら見ますか」
博之は少し考えた。
「最初は一千万文」
お花が少し眉を上げた。
「大きいですね」
「大きいけど、京都やぞ。足りんかもしれん」
ヨイチは頷いた。
「では、京都準備金一千万文を次回以降、別管理にします。実際の支出は、寄進、礼、
物資配布、道中費、護衛、宿、荷の損耗に分けます」
「頼む」
博之は、また畳に倒れ込んだ。
「しかし、儲けても儲けても、使い道が出てくるな」
「店が大きくなったからです」
「飯屋やのにな」
「飯屋だからこそです」
お花が言った。
「飯を出すには、道が要ります。道を作るには、礼が要ります。礼を通すには、銭が要ります」
「お花さん、最近ヨイチみたいなこと言うな」
「旦那様が聞かないので、二人で言います」
「つらい」
座敷に笑いが広がった。
だが、今回の帳簿はただの数字ではなかった。
四日市、桑名、蟹江、奈良でのうなぎと穴子の伸び。
堺の拠点増加と人員費の相殺
佐和山、志摩の立ち上げ赤字。
買い付け隊の安定した利益。
冬支度寄進としての布団代。
そして、目前に迫る京都への大きな支出。
伊勢松坂屋は、儲けている。
だが、同時に次の道へ踏み出すための銭も必要としていた。
「まあ、今回はこうですね」
ヨイチが締めた。
「拠点利益、二千六百七十七万文。買い付け隊等の加算、千十五万文。今回増加、
三千六百九十二万文。累計、四億七千九百二十六万文」
「はい」
「ただし、京都大巡回と朝廷・寺社寄進で、大幅支出見込み」
「それも入れといてくれ」
「はい」
博之は目を閉じた。
「四億八千万文あっても、安心できへんな」
ヨイチが静かに言った。
「安心するための銭ではありません。動くための銭です」
「ええこと言うやん」
「旦那様が動きすぎるからです」
「それは否定できへん」
お花が微笑んだ。
「でも、今回も店は前に進んでいます」
「そうやな」
博之は小さく頷いた。
「次は京都やな」
その言葉に、座敷の空気が少し引き締まった。
四億七千九百二十六万文。
その数字は、ゴールではない。
京都へ向かうための、次の足場だった。