作品タイトル不明
信長に手の内を読まれているようで青ざめる伊勢松坂屋の者に対して笑う博之。先々美濃を取る。でも粗暴に見えて店の組織の話までしてくれる信長公は優しいぞ。飯屋やからよ。
尾張から戻ってきたまとめ役たちは、顔色が悪かった。
伊勢松坂屋の料理人たちも同じだった。
流しそうめんを組んだ者。
うなぎの祝い飯を作った者。
信長の前で飯を出し、家臣たちに喜ばれ、催しそのものは大成功だったはずなのに、
松坂本店へ戻ってきた時には、皆どこか青ざめていた。
博之は、畳の上でごろごろしながらそれを見た。
「なんや。飯まずかったんか」
「いえ、飯は大変好評でした」
まとめ役は深く頭を下げた。
「流しそうめんも、うなぎの祝い飯も、織田家の方々には喜んでいただけました」
「ほんなら、なんでそんな顔してんねん」
「信長公より、ご指摘をいただきまして」
「ご指摘?」
お花とヨイチも顔を上げた。
まとめ役は、信長のもとであったことを順に話した。
流しそうめんを見て、家臣たちが笑いながら箸を伸ばしたこと。
下に落ちたそうめんを別扱いにしたことまで、信長が見ていたこと。
うなぎの祝い飯が、見せて、混ぜて、分ける飯だと評価されたこと。
そして、その後に信長が言った言葉。
博之が来なかったのは、ただ忙しいだけではない。
織田家が飯や話を軍事や調略に使おうとしたことを、快く思っていないのだろう
焼印、料理札、料理頭、相場板、巡回。
それらはただの思いつきではなく、博之がいなくなっても伊勢松坂屋を回すための仕組みだろう。
まとめ役の上に、統括が必要だ。
料理を作るだけではなく、なぜその飯が受けたのか、どこで使えるのか、誰が教えられるのか、
そこまで考えよ。
話を聞き終えると、座敷はしばらく静かになった。
料理人たちは、さらに小さくなっている。
自分たちは、流しそうめんがうまくいった、祝い飯が褒められた、と喜んでいた。
だが信長は、その奥にある仕組みや意図まで見ていた。
それが怖かった。
しかし、博之だけは笑った。
「さすがやな」
まとめ役が顔を上げる。
「旦那様?」
「修羅場くぐってきただけあるわ。ちゃんと見えてる」
博之は、少し感心したように頷いた。
「飯を見て、場を見て、人の動きを見て、こっちが距離を取りたいことまで読むか。
いや、ほんまにすごいな」
お花が静かに言う。
「旦那様、驚いていないんですか」
「驚いてるで。でも、そうやろなとも思う」
博之は起き上がり、あぐらをかいた。
「信長公は、多分そこまで見える人や。見えてるから怖い。見えてるから、尾張が伸びる」
ヨイチが問う。
「旦那様は、織田家がさらに伸びると見ているのですか」
「伸びるやろうな」
博之はあっさり言った。
「先々、美濃は取ると思う」
まとめ役たちが息を呑む。
「美濃を、ですか」
「うん。今すぐではないかもしれん。でも、信長公が美濃を取れば、勢力の均衡が崩れる」
「なぜ、そこまで」
ヨイチが慎重に聞いた。
博之は指を折りながら話した。
「まず、三好は今、畿内におる。けど、畿内を完全に統一できてるわけやない。
京都に力は持ってるけど、ずっと安定してるわけではない」
「はい」
「北畠は大きく動かん。伊勢を守る方が大事や。六角も同じや。南近江で力はあるけど、
天下を取りに行く感じではない。浅井もまだ同じ。北近江の勢力やけど、
単独で京都へどうこうという感じではない」
「武田はどうですか」
まとめ役の一人が聞いた。
「武田は強い。めちゃくちゃ強い。でも、甲斐から見たら上杉と北条がいる。
東と北に気を取られる。しかも冬場に大きく動きにくい。山の国やからな。強いけど、
京都へ一番乗りするには遠い」
博之は、地図を思い浮かべるように視線を落とした。
「そこへ、織田が美濃を取る。稲葉山やな。そこを取れば、尾張だけの大名ではなくなる。
北へも西へも伸びる。南近江へ手を伸ばせば、京都への道が見える」
お花が少し眉を寄せた。
「そんなに簡単にいくものですか」
「簡単ではないやろ。でも信長公は、多分そこを考えてる」
博之は続けた。
「周辺の大名に縁談を持ちかける。縁を作る。休戦する。敵を減らす。
戦うところを絞る。そうやって美濃を取り、南近江へ入り、京都へ向かう。
そうなったら、他の大名が追いつきにくくなる」
「京都に一番乗りするのは、織田だと」
「多分な」
座敷に、重い沈黙が落ちた。
料理人たちには、そこまでの話はあまりに大きかった。
自分たちは、うなぎを焼き、そうめんを流していただけだった。
だが、その飯の先に、尾張、美濃、近江、京都まで見えていると言われると、
足元がぐらつくようだった。
博之は苦笑した。
「でもな、信長公は優しいぞ」
「優しい、ですか」
まとめ役が思わず聞き返した。
「粗暴に見えるかもしれんけど、今回ちゃんと手の内を少しさらしてくれてるやろ」
「叱られたようにしか感じませんでした」
「それはお前らが青ざめすぎや」
博之は笑った。
「信長公は、“お前らは飯を作るだけで終わるな”と言うてくれたんや。まとめ役の上に統括がいる、
とまで言うてくれた。普通、よその飯屋の組織まで考えてくれへんで」
ヨイチが頷いた。
「確かに、敵と見るならそこまで言いません」
「そうや。多分、わしらは飯屋やから、今のところ敵にはならんと見てる。だから、
丁寧に言ってくれてる」
「でも、距離を取っていることも見抜かれています」
「そら見抜くやろ。あの人やもん」
博之は、少し真面目な顔になった。
「だからこそ、感謝もせなあかん。向こうはこっちを雑に扱ってない。飯の価値も、
仕組みの価値も分かってる。だから、こっちも雑に逃げたらあかん」
お花が言う。
「では、尾張との距離はどうしますか」
「距離は取る。でも切らん」
博之ははっきり言った。
「飯は出す。料理人も出す。絵図も送る。けど、わし本人が毎回行くのはやめる。店として対応する」
「仕組みとして」
「そうや」
ヨイチが静かに言った。
「信長公のご指摘通り、統括は必要ですね」
「そこやな」
博之は頷いた。
「料理のまとめ役、拠点のまとめ役、買い付けのまとめ役、布団寄進のまとめ役、
相場板のまとめ役。それぞれはいる。でも、それを横で見るやつがいる」
「道ごと、飯ごと、人ごとに見る者」
「うん。信長公の言う通りや。わし一人ではもう無理や」
まとめ役は、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。私どもは、そこまで考えが及んでおりませんでした」
「いや、ええねん」
博之は手を振った。
「お前らは飯をちゃんと出した。それはえらい。うなぎの祝い飯も、流しそうめんも成功した。
まずそこは胸張れ」
料理人たちの顔が少しだけ上がった。
「ただし、次からは考えろ。なぜ受けたか。誰に教えられるか。どこの拠点で使えるか。
何が足りないか。そこまで持って帰ってこい」
「はい」
「飯がうまいだけでは足りん。うちはもう、そういう規模になってしまった」
お花が少し笑った。
「旦那様がそれを平気で言えるのも、なかなかすごいです」
「そうか?」
「美濃を取るとか、京都へ一番乗りとか、普通に言っています」
「わしは畳でごろごろしてるだけやで。別にギラギラしてるわけちゃう」
夜市が淡々と言う。
「ごろごろしながら、かなり先を見ています」
「思いつきもあるって」
「その思いつきが怖いんです」
博之は少し得意そうに笑った。
「どや。すごいやろ」
その瞬間、お花がすぐに言った。
「その最後の一言がなければ素敵ですけどね」
「なんでや」
「そこで台無しです」
「ひどいな」
座敷に少し笑いが戻った。
けれど、空気は以前とは違っていた。
信長からの言葉は、ただの叱責ではなかった。
伊勢松坂屋が、もう単なる飯屋ではないという外からの評価だった。
そして、博之自身がどこまで見ているかを、皆が少しだけ知るきっかけでもあった。
博之は、まとめ役たちに向かって静かに言った。
「信長公の言葉は重い。ちゃんと受け取る。けど、うちはうちの飯をやる」
「はい」
「戦のためだけの飯にはせん。人が笑って、食って、寝て、働ける飯にする。そのために仕組みを作る」
ヨイチが帳面を開いた。
「では、統括案を作ります」
「また仕事増えたな」
「必要です」
「分かってる」
博之は、また畳にごろんと横になった。
「ほんま、飯屋は大変やな」
お花が茶を置きながら言った。
「旦那様、もう飯屋だけではありません」
「飯屋や」
「飯屋と言い張るところも、信長公には見抜かれていると思いますよ」
「やめてくれ」
博之は布団をかぶるようにして顔を隠した。
座敷には、少し笑いが広がった。
だがその裏で、ヨイチの筆はもう動き始めていた。
統括。
焼印。
相場板。
巡回。
人材育成。
信長の指摘は、伊勢松坂屋の次の形を決める、大きな一押しになっていた。