作品タイトル不明
織田の東美濃攻略。小競り合いでは勝ちきれないものの飯の炊き出し、話家の裏方の甲斐あって蟹江に比べ綺麗に落とせた
織田の美濃攻略は、目に見えて順調というわけではなかった。
小競り合いをしては引き、また別の口から揺さぶり、城の周りを少し荒らしては、深追いせずに戻る。敵方から見れば、織田はしつこい。だが、決定的に勝ち切っているわけでもない。
信長自身も、苛立ちを隠してはいなかった。
「一日二日で美濃が落ちるとは思わんが、じれったいな」
しかし、戦場の外では、別のことが着々と進んでいた。
炊き出し。
寺社への寄進。
尾張の飯や市の話をする話家。
美濃の郷土料理や祝い飯を聞き出し、それを一緒に作る試み。
それは、伊勢松坂屋のやり方をそのまま真似たものではなかった。織田の目的が透ける以上、
どうしても「こちらへ寄れ」という匂いは残る。だが、それでも以前よりはずいぶんと柔らかく、
丁寧になっていた。
粥だけではなく、味噌汁を出す。
施しだけではなく、薪割りや配膳を手伝わせる。
寺に米を置くだけではなく、子どもや年寄りが先に食えるように順を作る。
話家たちは、尾張がどれほど豊かかだけを喋るのではなく、土地の者から「この辺では何を祝いに
食うのか」「田植えの後は何を食うのか」「冬は何が足りぬのか」と聞いた。
その積み重ねは、目に見えにくかった。
だが、効いていた。
織田が攻め寄せた時、敵方の城に入ろうとする周辺の民が、以前より少なかった。
兵として集まる者も、どこか腰が重い。敵方の国人衆の中にも、「このまま斎藤についていて
よいのか」という迷いが出始めていた。
そして、ようやく一つの城が落ちた。
大勝利というほど派手ではない。
だが、以前の蟹江のように、周囲を荒らし、人を逃がし、城下を空にするような取り方ではなかった。
むしろ、きれいに取れた。
城の中には食える米が残っていた。寺も燃えていない。周辺の民も、完全には離れていない。
城主側の結束にほころびが出て、兵が集まりきらず、織田方が攻め切った形だった。
「悪くない」
信長は城を見ながら言った。
「今回は、土地が死んでおらん」
戦った軍勢には、もちろん酒と飯が振る舞われた。
槍を持って攻めた者。
城門へ迫った者。
矢を受けながら踏みとどまった者。
彼らの働きは、当然大きい。
だが、その夜、表の宴とは別に、秀吉が仕込んだ炊き出し係や話家たちも、ひそかに呼ばれた。
彼らは武功を立てたわけではない。
敵兵を討ち取ったわけでもない。
それでも、信長は盃を持ちながら言った。
「お前らの働きもある」
炊き出し係たちは、驚いて頭を下げた。
「我らは、ただ飯を炊いただけでございます」
「ただ飯を炊いただけなら、こうはならん」
信長は言う。
「民が敵の城に入らぬ。寺がこちらの話を聞く。年寄りが織田の飯を悪く言わぬ。
そういうものが重なって、城は落ちる」
話家の一人が、恐る恐る言った。
「我らは、尾張の話や、美濃の飯の話をしただけにございます」
「それでよい」
信長は少し笑った。
「話は、槍より先に入ることがある」
秀吉は、その横で黙っていた。
信長の言葉は正しい。
今回の城攻めは、以前より損耗が少なかった。敵方の結束が緩み、周辺の民が強く抵抗しなかった。
炊き出しと寄進と話が、じわじわ効いた。
だが、秀吉の胸には、少し重いものがあった。
伊勢松坂屋の旦那、博之は、おそらくこれを本意とはしない。
飯は人を笑わせるもの。
困った者を立ち上がらせるもの。
寺や町に銭を回すもの。
その飯が、こうして戦の一手として使われている。
もちろん、これによって死ぬ者は減った。
そこは大きい。
荒らして奪うより、ずっとよい。城がきれいに取れたなら、後の民も生きやすい。
秀吉は、そう自分に言い聞かせた。
「藤吉郎」
信長が呼んだ。
「はっ」
「伊勢松坂屋のあの発想は、使えたな」
「……はい」
「だが、まだ粗い」
信長は盃を置いた。
「あの旦那がやるようにはいかん。こちらの下心が見える。だが、それでも効く。ならば、もっと磨け」
「承知いたしました」
「次は、国境の村をもっと見る。力のある者は兵に。腕力のない者、口の立つ者、飯を炊ける者は、
炊き出しや話に使え。こちらに付いた者が、さらに向こうへ話を染み込ませる形にする」
周囲の者たちが頷く。
城が一つ落ちたことで、織田に寄る者は増えるだろう。
織田に友好的な村から、人を出してもらう。
兵になれる者は兵に。
そうでない者は、飯炊き、配膳、寺社との橋渡し、話家の手伝いにする。
そうすれば、さらに美濃の内側へ入っていける。
「ただし、銭がかかる」
信長は苦い顔をした。
「飯を炊くにも米が要る。寺に寄進するにも銭が要る。話家を動かすにも銭が要る。
槍だけで攻めるより、見えにくいところで銭が消える」
秀吉は頭を下げた。
「拠点の収益を上げる努力をいたします。市を立て、飯を売り、酒肴も増やし、銭の回りを作ります」
「そうしろ」
信長は言った。
「飯で人を寄せるなら、飯の銭も自分で回せ。いつまでも蔵から出すだけでは続かん」
「はっ」
秀吉は答えながら、博之の顔を思い浮かべていた。
あの旦那なら、こう言うだろう。
飯だけ配っても続かない。
売れるものを作れ。
人に手伝わせろ。
銭が回る形にしろ。
施しに見えすぎると、相手の誇りを削る。
そして、飯を戦の道具にしすぎるな、と。
秀吉は、少しだけ苦笑した。
「旦那、すまんな」
小さく呟いたその声は、誰にも聞こえなかった。
表では、城を落とした兵たちが酒に湧いている。
裏では、飯炊きや話家たちが、初めて自分たちの働きが戦に関わっていたことを知り、
戸惑いながらも誇らしげな顔をしていた。
東美濃攻略は、まだ終わらない。
だが、槍と飯と話が重なった時、戦の形が少し変わる。
そのことを、織田家は確かに掴み始めていた。