作品タイトル不明
織田家との会談を終えて博之の気持ちが冷めた。良かれと思っていることが軍事利用されるのは嫌やwww
織田家との会談を終え、松坂へ戻る道中、博之はずっと難しい顔をしていた。
穴子天丼は受けた。
話家見習い会も、信長公には面白がられた。
そこまではよかった。
だが、その先が悪かった。
話家会を、東美濃への調略に使えるのではないか。
炊き出しと話を合わせれば、人の心に染み込ませられるのではないか。
そういう話になった時、博之の中で、何かがすっと冷えた。
松坂に戻る途中、博之はヨイチとお花を呼んだ。
「次に織田家から使者が来たら、流行り病……いや、疲労で寝込んでることにしようか」
ヨイチの筆が止まった。
お花も目を丸くする。
「旦那様、それは大丈夫ですか」
「大丈夫ではないやろな」
博之は深く息を吐いた。
「でも、少し時間を稼ぎたい」
「なぜですか」
お花が聞くと、博之は苦い顔をした。
「今回の会談で、ちょっと嫌な気持ちになった」
「話家会のことですか」
「そうや」
博之は頷いた。
「わしは、店の中で暇な時に、買い付け係の話を聞いたら面白いやろと思って始めたんや。
大和の話、堺の話、京都の話、近江の話、尾張の話。みんなが知らん土地の話を聞いて、
へえって笑う。そういう場を作りたかった」
ヨイチは静かに聞いている。
「でも、それを軍事利用できる、調略に使える、東美濃に話を染み込ませるって言われたら、
なんか違うやろって思うんや」
お花が少し眉を寄せた。
「旦那様は、そういうつもりではなかったですもんね」
「そうや。わしゃ飯屋や。間者を育てたいわけでも、噂で国を崩したいわけでもない。
話家会は、店の中で暇やからやってるだけや」
「でも、信長公は価値を見てしまった」
ヨイチが言った。
「見てしまったんやろな」
博之は、少し疲れたように笑った。
「で、多分この流れやったら、炊き出しもやり出す。美濃の郷土料理を聞いて、
一緒に作って、尾張の豊かさを見せて、少しずつ不満を炙り出す。わしが言うたことやけど、
あれを全部、戦の下ごしらえに乗っけられるのは嫌や」
「目をつけられますよ」
お花が心配そうに言う。
博之は、少し笑った。
「もう十分、目ならつけられとるやろ」
「それはそうですが」
「うなぎ作れ。穴子作れ。話家会を説明しろ。東美濃をどう見る。北伊勢をどう見る。
どんどん来るやんけ」
博之は手を広げた。
「織田家の無茶振りが、ちょっとひどい」
ヨイチが静かに頷いた。
「確かに、距離は近くなりすぎています」
「やろ」
「ただ、完全に切るのは難しいです」
「分かってる」
博之はすぐに答えた。
「熱田もある。津島もある。瀬戸もある。蟹江もある。今後、美濃の南側を見るなら、
尾張との関係をゼロにするのは無理や」
「すでに拠点もありますしね」
お花が言う。
「そう。だから、切るんやなくて、少し距離を置きたい」
博之は言葉を選びながら続けた。
「近づきすぎたら、尾張が窮地に立った時、うちらも巻き込まれる。織田家が強い時はええ。
けど、もし尾張が追い込まれたら、“伊勢松坂屋は織田に近い”という理由で狙われる可能性もある」
ヨイチの表情が少し硬くなった。
「それはあります」
「尾張だけやない。北伊勢でも、美濃でも、京でも、堺でも、どこかの家が“あの飯屋は
情報を集めている”と思ったら、危なくなる」
「話家会の扱いは、かなり慎重にするべきですね」
「うん」
博之は頷いた。
「できることと、できへんことがある。飯を出す。市を作る。人を雇う。困ってる人を助ける。
そこまではやる。でも、調略の道具として動くのは違う」
「ただ、信長公に真っ向からそう言うと、角が立ちます」
ヨイチが言った。
「だから、少し時間を稼ぐんや。流行り病はさすがに大げさか。疲労で寝込んでる、ぐらいにしよう」
「それなら本当ですしね」
お花が言う。
「本当って言うな」
「実際、疲れてます」
博之は反論できなかった。
少し沈黙が落ちたあと、博之はぽつりと言った。
「そもそも当初の目的は、京都と堺をなんとかすることやったんや」
「はい」
「それと、小豆と砂糖や」
「甘味ですね」
「そう。小豆と砂糖をなんとかしたい。餡子、焼き菓子、茶と一緒に出せるもの。
そういう方向を作りたかった」
ヨイチが帳面に書き込む。
「京都、堺、小豆、砂糖。優先順位を戻す」
「そうや」
博之は少し力を取り戻したように言った。
「わしは本来、新しい商品として“ふくふく焼き”をやりたかったんや」
お花が首を傾げる。
「ふくふく焼き、ですか」
「そう。生地と生地の間に餡子で挟むみたいなものや」
博之は、少し身を乗り出した。
「薄く焼いた生地を二枚合わせて、中に餡を挟む。丸くて、ふっくらして、
手に持てる。茶にも合う。子どもにも女衆にも受ける。旅人が持って帰るにもええ」
「饅頭ではなく、焼き菓子ですね」
「そう。ふくふく焼きや」
「名前の由来は?」
ヨイチが聞くと、博之は少し得意げに言った。
「二つで九十文にする」
「九十文」
「一つ四十五文や。始終ご縁がありますように。」
「福を分けると始終ご縁があるという構造や」
座敷が一瞬静まった。
お花が、ゆっくり口を開いた。
「旦那様」
「なんや」
「その駄洒落だけで頑張るの、やめてください」
博之はしょんぼりした。
「ええやんけ。ご縁がありますように、やぞ」
「意味はかわいいです」
「やろ」
「でも、四十五文で“ご縁”という言葉遊びを、そんな自信満々に言われると少し困ります」
「なんでや」
ヨイチが静かに言った。
「売り方としては、悪くありません」
「ほら」
「ただし、価格と原価は見ます。小豆と砂糖が安定しなければ、二つ九十文は重いかもしれません」
「そこは京都と堺や。だから、そっちを何とかしたいんや」
博之は力を込めた。
「うなぎや穴子も大事や。高単価やし、育てる価値もある。でも、あれは職人がいる。
魚がいる。湯浴みや二階席まで絡む。重い」
「ふくふく焼きは、もう少し軽いと」
「そう。焼き手は育てなあかんけど、うなぎほど危なくない。骨もない。
子どもも食える。女衆も作りやすい。茶と合わせて売れる。市にも置ける。土産にもなる」
お花は少し考えた。
「確かに、うちの店には合いますね」
「やろ」
「名前も、まあ、かわいいです」
「まあ、が余計や」
「でも旦那様がにやにやしながら“ご縁がありますように”って売ると、少し嫌です」
「そこまで言う?」
「言います」
ヨイチは帳面に、淡々と書いていく。
「ふくふく焼き。生地と生地で餡子をはさむ。二つ九十文。一つ四十五文。ご縁がありますように。
小豆、砂糖、茶との組み合わせ。京都、堺で原料確保」
博之は、その文字を見て少し安心した。
「これやねん」
「何がですか」
「わしは、こういうことをしたかったんや」
博之は、少しだけ声を落とした。
「女の子が“かわいいですね”って言いながら買ってくれる。子どもが嬉しそうに食べる。
旅人が土産にする。ご縁がありますようにって言って、誰かに渡す。そういう飯の道を
作りたかったんや」
お花の表情が少し柔らかくなった。
「旦那様らしいですね」
「せやろ」
「ただ、途中でうなぎと穴子と話家会と西瓜割りと流しそうめんが増えましたけど」
「増やしたくて増やしたわけやない」
ヨイチがすぐ言う。
「拾って育てたのは旦那様です」
「それを言われると弱い」
博之は畳に突っ伏した。
「なんで東美濃の調略を考えなあかんねん。私は、ふくふく焼きを作って、ご縁がありますようにって
やりたかっただけやのに」
お花が少し笑った。
「その本音は、少し安心します」
「安心するんか」
「はい。旦那様が本当に国取りしたい人になったら怖いです」
博之は顔を上げた。
「国取りには興味ない」
「それは分かっています」
ヨイチが言った。
「だからこそ、距離を置く判断は必要です。織田家との付き合いは続ける。ただし、
呼ばれたらすぐ行く形は少し改める。飯、商い、寺社、炊き出しは協力する。
調略や軍事利用には線を引く」
「それでいこう」
博之は頷いた。
「次の使者には、疲労で寝込んでる。あるいは伊勢神宮と上主への挨拶で動けない。
京都と堺の段取りがある。そういう形で時間を稼ぐ」
「ふくふく焼きの試作も理由になりますね」
お花が言う。
「それや」
博之は少し顔を明るくした。
「私は甘味の試作で忙しい。小豆と砂糖の手配で忙しい。これは嘘やない」
「嘘ではありません」
ヨイチが頷く。
「むしろ、当初の方針に戻るために必要です」
「よし」
博之は、松坂へ戻る荷車の上で、少しだけ気持ちを立て直した。
織田家と近づきすぎた。
信長公は面白い。
秀吉さんも話が通じる。
けれど、あの人たちは戦の人間だ。
飯を見ても、話を見ても、それをどう戦に使うか考える。
それは当たり前なのかもしれない。
でも、博之はそこに全部乗りたくはなかった。
「……私は飯屋や」
小さく呟くと、お花が横で頷いた。
「はい。旦那様は飯屋です」
ヨイチも静かに言った。
「ただし、大きすぎる飯屋です」
「それが一番困るんや
松坂に着く頃には、博之の中で少し方針が固まっていた。
織田家とは切らない。
だが、近づきすぎない。
京都と堺、小豆と砂糖、ふくふく焼き。
まずは、自分が本来やりたかった飯の道へ少し戻す。
うなぎと穴子は育てる。
話家会は管理する。
でも、戦の道具にはしない。
「よし」
博之は、少しだけ顔を上げた。
「まずは、ふくふく焼きや」
お花が言う。
「二つで九十文。ご縁がありますように、ですね」
「ええやろ」
「名前はいいです」
「名前は?」
「旦那様がにやにやしなければ、売れます」
「またそれか」
ヨイチが静かに帳面へ書いた。
織田家とは距離調整。
京都・堺優先。
小豆・砂糖。
ふくふく焼き。
二つ九十文。
ご縁がありますように。
その横に、お花が小さく付け足した。
旦那様、にやにや注意。
博之はそれを見て、少しだけしょぼんとした。
けれど、うなぎや穴子や調略の話より、ふくふく焼きのことを考えている方が、ずっと心は軽かった。