作品タイトル不明
北畠、六角、織田に囲まれた北伊勢の国人衆がなぜ伊勢松坂屋に挨拶に行ったか、六角の殿様に呼び出された話を秀吉に話す。
藤吉郎は、若侍の話を聞き終えて、しばらく黙っていた。
伊賀の地侍の話も妙だったが、長野家の話はそれ以上だった。
飯屋が武家を攻めたわけではない。
城を奪ったわけでもない。
兵を出したわけでもない。
なのに、気づけば長野家の港や郊外の仕事は伊勢松坂屋と深く絡み、
家臣たちは殿様の顔色よりも飯場と荷の道を見て動くようになり、最後には長野の殿様が隠居し、
北畠に入る形になった。
「……肝心なところは、まだ隠してはりますな」
藤吉郎がぽつりと言うと、博之は苦笑した。
「そら、全部は話せません」
「買い付け隊の正確な数、銭の量、伊勢神宮前の商い、九鬼水軍との細かい取り決め。
この辺りは、あんまり話したくないんやろうな、というのは分かります」
「そこは勘弁してください」
「けど、大枠は見えてきました」
藤吉郎は茶を置いた。
「長野家が北畠に入った。すると、北伊勢は南に北畠、北西に六角、東に織田という形で囲まれる。
そういう認識でよろしいですかな」
「はい」
博之は頷いた。
「大きく言うと、そうです。細かく言えば、国人衆、一向衆、商人衆、寺社、港の者、色々
ありますけど、流れとしてはそうです」
「それで、北伊勢の国人衆は、北畠に挨拶するか、六角に挨拶するか、織田に寄るか迷った」
「そうです」
「その結果、伊勢松坂屋に挨拶に来た」
藤吉郎は、思わず手を広げた。
「なんでそうなるんですか」
博之は困ったように笑った。
「私に聞かれても」
お花が横から静かに言う。
「伊勢松坂屋が、すでに桑名あたりまで買い付けや飯場で関わっていたからです。
白子、四日市、関、亀山の方々も、伊勢松坂屋の荷や飯に頼る部分がありました」
若侍も頷いた。
「北伊勢の国人衆は、自分たちだけで北伊勢全体をまとめきれるほどの力はありません。
しかも、なめていた長野家のところへ、今度は北畠がそのまま入ってきた。
戦で削って弱ったところを取ったのではなく、兵も弓もほぼ使わず、丸ごと北畠に入ったわけです」
藤吉郎は腕を組んだ。
「つまり、長野家の戦力や土地が、かなり残ったまま北畠側に移った」
「はい」
「そんな相手を削りに行くのは危ない」
「危ないです。だから北伊勢の国人衆としては、自分たちの価値を高く見せる必要があったんです」
「価値を高く見せる」
「ええ。港がある。街道がある。荷が通る。伊勢松坂屋の買い付け隊も通る。
ここを押さえれば、北畠にも六角にも織田にも、ただの小さい国人衆ではなく、
物流の節目として見てもらえる」
博之は頷いた。
「そこで、うちに来て、買い付け量を増やしてくれ、物流を増やしてくれ、と言ってきたんです」
「なるほど」
藤吉郎は、ようやく少し飲み込めた顔になった。
「草津にも拠点があると聞きました」
「あります」
「信楽焼の道は、もともと伊賀を通る道やった。けど、草津と関の道を厚くすれば、
伊賀を通らない別の道でも信楽焼を入れられる」
「そうです」
「つまり、北伊勢側からすれば、伊勢松坂屋に頼んで、草津から関、白子、松坂へ流れる道を作れば、
自分たちの価値が上がる」
「その通りです」
藤吉郎は、少し呆れたように博之を見た。
「それ、もう商人というより、道を作る者ですな」
「元は、従業員が欲しがるから信楽焼を買いに行っただけなんですけどね」
「それが、周りから見ると大商いに見える」
「そうなんです。私としては、従業員のためにいい器を買おう、信楽焼は喜ばれるやろ、
ぐらいから始まってるんですけど、道がつながると、周りが勝手に意味を見出してくるんです」
「勝手に、ですか」
「勝手にです」
博之は少し力を込めて言った。
「私は北伊勢を屈服させようなんて考えは、ほぼないです」
「ほぼ?」
藤吉郎がすかさず突っ込むと、博之は慌てた。
「ほぼじゃなくて、全くないです。言い間違いです」
「今のは危なかったですな」
「本当にやめてください」
座敷に笑いが起きた。
藤吉郎も笑いながら、しかし目は真剣だった。
「では、北伊勢の国人衆が伊勢松坂屋に挨拶に来た。それを六角が見て、おかしいと思った」
「そうです」
「六角の殿様から呼び出しがかかった」
「はい」
「そして、飯を持って行った」
藤吉郎は、また声を強めた。
「なんでそうなんねん」
博之は、困った顔で両手を広げた。
「だって、うちは飯屋ですから」
「飯屋は便利すぎるでしょう」
「六角の使者が十五人ぐらい来たんですよ。伊勢松坂屋とは何者か、ということで。しかも、
信楽や草津で商いをさせてもらっている手前、無視もできません」
「それで飯を持って行った」
「飯屋ですから」
「その返しで全部通すつもりですか」
「半分くらいは」
お花が横で小さく笑った。
「旦那様は、困ると飯屋で逃げます」
「逃げてへん。事実や」
博之は少しむくれた。
若侍が説明を引き取る。
「六角としても、北伊勢の国人衆が、北畠でも六角でも織田でもなく、まず伊勢松坂屋に
挨拶に行ったことが不思議だったのでしょう。そこで、伊勢松坂屋を呼んで事情を聞いた。
旦那様は飯を持って行き、信楽焼や草津の道、京都の端の話などを、話せる範囲で説明したそうです」
「結果は?」
藤吉郎が聞くと、博之が答えた。
「首は切られませんでした」
「それは大事ですな」
「大事です。六角の領内でも、慎重に商売することは一応認めてもらえました。
もちろん、見られてますけど」
「六角も警戒している」
「そらそうでしょうね。うちが草津や大津、観音寺城の周りで動いてるんですから」
藤吉郎は深く息を吐いた。
「面白すぎるわ」
「面白がらないでください」
「いや、これは面白い。面白いが、報告する側としては困る」
「怖くない感じでお願いします」
「無理です」
「またそれですか」
「だって、怖い話ですから」
藤吉郎は、指を折って整理し始めた。
「まず、伊勢松坂屋は五百文の飯屋から始まった。寺社とつながり、買い付けを始めた。
伊賀では地侍を道の護衛に変え、信楽焼の道を作った。津では長野家の港と郊外に入り込み、
結果として長野家が北畠に下る流れを強めた」
「強めたくて強めたわけではないです」
「結果としてです」
「その言い方、嫌やなあ」
「さらに、その長野家が北畠に入ったことで、北伊勢の国人衆が揺れた。彼らは、自分たちの
価値を上げるために伊勢松坂屋へ挨拶に来た。伊勢松坂屋は草津や信楽、白子や関の道を
通して物流を増やす。すると六角が不審に思い、呼び出す。飯を持って行き、首を切られずに済む」
藤吉郎は、そこで両手を上げた。
「殿様に何て言えばええんですか、これ」
博之は小さく言った。
「飯屋が頑張ってます、では」
「怒られます」
「でしょうね」
「“飯屋が頑張っていたら長野家が北畠に下り、北伊勢が揺れ、六角が呼び出しました”
なんて報告したら、殿様はまず眉間にしわを寄せます」
「そのままですね」
「そのままだから困るんです」
藤吉郎は、また茶を飲んだ。
「しかし、見えてきました。伊勢松坂屋は、誰かを屈服させようとしているわけではない。
少なくとも、今のところは」
「今のところってつけないでください」
「けれど、飯と荷の道ができると、人が寄る。人が寄ると、国人衆も寺社も武家も無視できなくなる。
そこに金が動き、炊き出しが動き、雇用が動く。結果として、周りの力関係が変わる」
「嫌なまとめや」
「正確なまとめです」
博之は畳を見つめた。
「私は、困ってる人に飯を出して、働ける人に仕事を作って、品を運んでるだけなんですけどね」
「それが一番怖いんです」
「また怖いって言う」
「意図して国を取る者なら、こちらも対応しやすい。けれど、飯を出していたら国の形が変わる者は、
扱いが難しい」
藤吉郎は、最後にもう一口、まぜ飯を食べた。
「しかも飯がうまい」
「それはありがとうございます」
「うまいから、人が寄る。人が寄るから、話が始まる。話が始まるから、約定ができる。
約定ができるから、殿様方が悩む」
「飯が悪いみたいに言わないでください」
「飯が強すぎるんです」
座敷はまた笑いに包まれた。
しかし藤吉郎の頭の中は、すでに織田信長への報告でいっぱいだった。
長野家の話。
北伊勢の国人衆の動き。
草津と関の道。
六角への飯持参。
首を切られずに済んだ話。
どれも嘘ではない。
どれも筋は通っている。
そして、どれも普通ではない。
「殿様に、どう伝えたものか」
藤吉郎は、心底困った顔で呟いた。
博之は、申し訳なさそうに言った。
「できれば、やわらかく」
「無理です」
「即答やめてください」
藤吉郎は笑った。
だが、その笑いの奥には、確かな警戒と興味があった。
伊勢松坂屋は、ますます得体が知れない。
けれど、得体が知れないままではなくなってきた。
分かれば分かるほど、なおさら面白く、なおさら怖い。
藤吉郎は、そう思いながら、もう一杯だけ飯を所望した。